サーベイランスA

淀川 大

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第1部

2038年4月12日(月) 7

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 記者たちが帰宅した新日風潮社の編集室。
 春木陽香は一人、自分の席で記事を作っていた。時計の針はもうじき八時を指そうとしている。そこへ山野紀子が駆け込んで来た。
「ごめん。遅くなった。娘が急に家庭訪問の話とか……あれ? みんなは。帰っちゃったの?」
 室内を見回している山野に春木陽香が言った。
「はい。皆さんで一緒に寺師町に行かれました。堤シノブさんのヌード撮影の『打ち合わせ』だそうです」
 山野紀子は顔をしかめて、強く溜め息を吐いた。
「かあ、しょうがないわね。――まあ、清純派女優のヌードだから、仕方ないか」
 山野紀子は地下の駐車場から走ってきたらしく、額に少し汗を浮かせていた。
 春木陽香は手を止めて立ち上がると、給湯室へと向かった。給湯室は廊下の半分より手前の左手にある。中に入ると、そこは狭い。右側の壁際に小さなシンクがあり、その奥の突き当りの角に小振りな冷蔵庫が置かれていた。左側の壁際には分別用のゴミ箱が並べられていて、手前に安物の食器棚が置かれている。春木陽香は少し背伸びをしてその食器棚の上の段の扉を開けると、中の棚から、表面に大きな棘が無数に付いている赤茶色い湯飲みを取った。その横の自分のキリン柄のマグカップも取り、扉を閉めてシンクに運んで、二つを水で軽く濯いだ。準備していた急須をシンクの端に置いてあるポットの下に置き、そこにお湯を注ぐと、蓋をした急須を軽く平行に回してから棘の付いた湯飲みとキリン柄のマグカップに交互にお茶を注した。その後、それらを盆の上に乗せて、溢さないように慎重に持ちながら編集室へと戻った。
 山野紀子は仕事に取り掛かっていた。彼女は椅子に座ってパソコンの立体画像に目を凝らしながら、白いブラウスの襟を掴んで暑そうにパタパタと動かしている。春木陽香は湯気の立ったトゲトゲ付きの湯飲みを山野の机の上に置いた。そして、自分の机にキリンのマグカップを置くと、急須が乗っているお盆を隣の席の端に遠慮気味に置いてから自分の席に座った。
 息を吹きかけながら湯飲みのお茶を啜っている山野に、春木陽香は尋ねた。
「よく承諾が取れましたね」
 山野紀子は口に含んでいたお茶を飲み込むと、春木に問い返した。
「堤シノブ?」
 春木陽香は頷いた。
 山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」を机の上に置き、顔を少し前に出して小声で言った。
「ここだけの話だけどね……」
「はあ……」
 二人の他には誰もいない編集室で小声で話そうとする山野に、春木陽香はそう中途半端な返事をした。山野紀子は右手を口の横に立てると、わざと小声で春木に言った。
「彼女、財務大臣の長船と、そういう仲なのよ」
「そういう仲?」
 春木陽香は普通の声で聞き返した。
 山野紀子はハイバックの椅子に身を投げると、普通の声に戻して事情を説明した。
「先月、外国での国際会議中に長船が宿泊していたホテルの部屋から堤シノブが出てくるところを、ウチの記者がスクープしたの。彼女が所属しているプロダクション側からの要請で、まだ記事にはしてないけど」
「弱みを握っているってことですか。じゃあ、彼女を脅したんですか」
 目を丸くして再び尋ねた春木に、山野紀子は一度だけ手を振ってから言った。
「まさか。向こうから言ってきたのよ。ウチの経営陣の方に内々にね。表向きはこちらから口説いたってことにしてあるけど、本当のところは、堤シノブの事務所サイドからヌード出すという申し出があったらしいの。その代わり、スキャンダルの画像データを渡せって。もともと清純派イメージから脱皮する機会を伺っていたみたいだしね。こっちとしては、ヌードの方が売上げ部数は上がると踏んだわけ。ま、ウチの経営陣の判断だけど」
「ふーん……」
 春木陽香は納得の行かない顔でキリン柄のマグカップを口元に運んだ。
 椅子に深くもたれたまま遠目に春木の顔を見ていた山野紀子は、春木に尋ねた。
辟易へきえきする?」
 春木陽香はマグカップを両手で包むように持ったまま、目線を落として答えた。
「まあ……実は、少し……」
 山野紀子は春木の返事を聞いて口角を上げると、はっきりとした口調で春木に言った。
「それで、よし。でも、これが世の中の現実なの。この世界はいろんな人間の様々な駆け引きで組み立てられている。そこの隙間から、奥に埋もれた『真実』を見つけ出すのが、私たち雑誌記者の仕事なのよ」
 春木陽香は少し口を尖らせて言った。
「一応、そのつもりで記者を目指したんですけど……」
 山野紀子は、一度だけ頷いた。
「うん。でもね、その『真実』というモノも、人によって見方が違う。右往左往しているのが『現実の真実』ってものよ。読者に解かりやすいように、しっかりと整理された真実なんて無い。まあ、フィクション小説の世界だけね、そんなものは」
「はあ……」
 春木陽香は要領を得ない顔をしていた。それを見て、山野紀子は湯飲みのお茶を一口飲んでから、春木に言った。
「ま、いずれ分かるわ。それで、ハルハルは食べたの?」
「いえ。これからです」
「あらら。別府君は?」
「帰りました」
「帰った? もう、指導役の先輩が先に帰ってどうすんのよ」
「なんか、お子さんをお風呂に入れる時間だそうで」
「そっかあ。小さい子が二人だもんね」
「室……編集長は、夕食はとられたのですか」
「いや、まだ。ま、いいわ。帰ってから食べる。あんた、下の社員食堂で食べてきなさいよ。まだ開いているでしょ」
 春木陽香は自分の机の隅に置いていたレジ袋を持ち上げて、山野の方にそれを差し出しながら言った。
「あの……お弁当を買ってきたんですけど……編集長の分も。よかったら、どうぞ」
「うそ。ホントに」
「たぶん、家で食べる時間が無いんじゃないかと思って」
 山野紀子は椅子から体を起こして袋を受け取ると、中を覗きながら春木に言った。
「ありがと。気が利くじゃない。よし、じゃあ、食べよう」
 山野紀子は袋の中から二箱の弁当を取り出すと、豪華な方を春木に渡して、自分の分の弁当の蓋を開けた。
 閑散とした編集室の中で、女性二人は会話を交わしながら、ささやかなディナーを楽しんだ。
 春木陽香は、ヒレカツを頬張りながら言った。
「でも、大変ですね。月曜は構成決定で、水木は原稿チェックですもんね。どうしても帰宅が十二時前になっちゃいますよね。その度に夕方は一度、自宅まで戻られているんですか。先週だけかと思っていました」
「娘がさ、中三になるのに、なーんにも出来ないのよ。困ったもんよ。ありゃあ、まだ、頭ん中が小学生ね」
「私も高校出て一人暮らしするまでは何も出来ませんでしたから。今も、実家の母が時々出てきて、色々やってくれていますし……」
「あらあ、それは駄目ね。あ、これ、美味しい」
 甘酢の掛かった鶏肉の天ぷらを頬張る山野を見つめながら、春木陽香は箸を持った手を膝の上に下ろして、呟くように言った。
「なんか、編集長、すごいですね」
 山野紀子は鶏肉の天ぷらで右の頬を膨らませながら尋ねた。
「何が?」
「何って言うか、働く女としてというか……」
 飲み込んだ山野紀子は言った。
「水着やらヌードやらで盛り上がっている馬鹿共を取り仕切らないといけないからね。私がボーとしていたら、この週刊誌、あっという間にポルノ雑誌になっちゃうでしょ」
「それもですけど……」
 春木陽香は持っていた弁当から箸でグリンピースを一つ摘み上げると、それを口の中に入れてから、下を向いて呟いた。
「家庭との両立とか、私に出来るのかなって。自分のことも出来ないのに……」
 箸の先で春木を指しながら、山野紀子は言う。
「覚悟を決めたらね、出来るもんよ」
 そして、山野紀子は黙々と弁当を食べ始めた。
 春木陽香は少し考えていたが、弁当と箸を持ち上げて再び食べ始めた。
 その後、二人は取留めの無い会話を暫らく続け、夕食を済ませた。
 春木陽香は自分の弁当の容器に山野の弁当の容器を重ね、それをレジ袋に入れた。椅子から腰を上げる前に、一度、山野の方に視線を向ける。山野紀子は「トゲトゲ湯飲」みを握ったまま、机の上に浮かんでいるホログラフィーの文書に真剣な眼差しを向けている。どうやら早速、次号の仮原稿をチェックしているのだろう。春木陽香は腰を上げるのをやめて、山野に言った。
「でも、週刊誌の編集長って、こんなに忙しいんですね。原稿をチェックしたり、外部の人と会ったり、企画を調整したり」
 ホログラフィーに目線を向けたままお茶を一口啜った山野紀子は、読みながら春木に言った。
「あら、目指す気になった、週刊誌の編集長」
「――まだ、雑誌記者として始めたばかりですから……」
「そうよねえ。まずは、取材と記事ね。そこから、そこから」
「あの……」
「ん? 何?」
 山野紀子は春木の方に顔を向けた。
 春木陽香は少し戸惑っていたが、思い切って尋ねてみた。
「えっと、あの……編集長は、どうして私の採用を推して下さったのですか。上の新聞社で再雇用を拒否された私を」
 山野紀子は椅子に身を倒して、笑いながら答えた。
「勘よ、勘。それに、ほら、ここ、女は私一人じゃない。これからは少しずつ女性の記者やスタッフを増やそうと思って」
「上のシゲさんから聞きました。編集長が本部の人事課と掛け合ってくれて、私を再雇用扱いにしてくれたって」
「だって、あんた、大学出たら上のネット新聞の社会部で再雇用してもらう約束だったんでしょ。だから新日ネットから奨学金を借りて大学に行ったのに、帰ってきたら急に再雇用しませんって、あんまりじゃない。人事の連中、どうかしてるわよ。それに、系列会社で初任給と同額からスタートじゃ、奨学金の返済も出来ないでしょ。ハルハルは大学に行く前に四年間、社会部でアシスタントをしたんじゃなかったっけ」
「はい」
「なら、今年で五年目じゃない。五年は大きいわよ。ハルハルが三十になった時に、勤務四年目と八年目じゃ、給与が全然違うんだから」
「――感謝しています。本当に」
 春木陽香はゴミを入れたレジ袋を提げたまま、深々と山野に頭を下げた。
 山野紀子は顔の前で手を振りながら言った。
「いいの、いいの。大体ね、しんちゃんも真ちゃんよね。キャップのくせして。前に面倒見てた元部下のことなんだから、もう少し上と掛け合えなかったのかっての。あれだから、あの男は駄目なのよ。父親の責任も、なーんも果たさないし」
「神作キャップも黒木局長とかと随分と掛け合ってくれたって、うえにょデスクが言ってました。永山先輩も一緒に……」
「くくく」
 山野紀子は口を手の前に当てて笑った。彼女独特の奇妙な笑い方である。
 春木陽香は椅子に座ったまま、キョトンとして言った。
「どうしたんですか」
「いや、ハルハルも『うえにょ』って呼んでるんだ。くくく……。そうよね、そんな感じよね、あいつ。くくく」
 山野紀子は笑いが堪えられなかったらしく、息苦しそうに笑い始めた。
 春木陽香は、つられて少しだけ一緒に笑ったが、山野は春木が笑うのを止めても、まだ苦しそうに笑っていた。
 やがて笑い終えた山野に、春木陽香は尋ねた。
「うえにょデスクって前は政治部にずっといて、編集長も上の政治部に在籍されてたのですよね。その頃からそう呼んでいたんですか」
 山野紀子は涙を拭きながら答えた。
「いや、上の新日ネット新聞の方じゃなくて、紙新聞の方の東京本社。そこの政治部に居たの。あの当時は東京が首都だったから、それなりに忙しかったけどね。で、遷都になって、ネット新聞の本社が新首都のここに設立されて、みんな異動になった時に、私はこの週刊誌の方に飛ばされたってわけ。でも、東京に居た頃からみんな呼んでたわよ、『うえにょさーん』って。くくく」
 山野紀子は、また暫らく一人で笑い続けた後、深呼吸をして気を落ち着かせてから、春木に話し始めた。
「あいつ、真ちゃんと同期でしょ。先輩だから私も若い頃は気を使っていたけど、結構大変なのよ、これが。仕事できないし。それなのに、なんであいつが次長職の『デスク』で真ちゃんがまだ現場職長クラスの『キャップ』なのよ。上の人事の連中、やっぱりどうかしてるわよね」
 今度は一人で怒り出した山野紀子であったが、真剣な顔で神作を擁護する発言を繰り返す上司の顔を、春木陽香はまじまじと見ていた。
 春木の視線に気付いた山野紀子は、慌てて話題を変えた。
「それより、時吉弁護士が持ってきたメールの添付データ、どうだった。開いてみた?」
 春木陽香はレジ袋を横に置くと、立体パソコンの上のホログラフィー文書を一旦閉じて、自分のパソコンに保存した文書データを立体画像で表示しながら答えた。
「はい。それが、タイムトラベルに関する学術論文みたいでした。精密撮影の立体動画も幾つか付いていて、かなり本格的なものです」
「ふーん。メールの本文は、何だったの」
「津田長官から時吉前長官に、意見を聞きたいと。ただそれだけです」
 山野紀子は手に持っていた棘付きの湯飲みを机の上に置くと、腕組みをした。
「意見かあ……。うーん。こりゃ、何か裏があるわね。なんせ、前司時空庁長官の時吉総一郎は、赤崎教授と殿所教授のAT理論に疑問を提示して一大論争を巻き起こした張本人だからねえ」
 椅子を回して山野の方を向いた春木陽香が言った。
「たしか、『時吉提案』と呼ばれたものですよね」
 山野紀子は頷いた。
「そ。結局、あれのせいでパラレルワールド肯定説と否定説のどちらが正しいのかっていう論争が起こったのよ。国民を二分する」
「結局は、高橋博士が唱えた肯定説が正しかったんですよね」
「うん。でも、それって私が三十の頃の話だから……ここへの遷都宣言がされた二〇二二年のことでしょ。ハルハルはまだ小さかったんじゃない。その頃、何歳だっけ」
「ええと、二〇二二年だから……十一歳です。――でした」
「よく覚えていたわね」
「テレビとかで、よくやっていましたから。AT理論とかタイムマシンの事はよく解りませんでしたけど、パラレルワールドの事は子供同士でも何回も議論したのを覚えています。で、クラスの男子と女子とに分かれて、喧嘩になったり」
「ふーん。そうなんだ。随分と人騒がせな話だったわよね。子供まで巻き込んで。大人はもっと盛り上がっていたからね。ま、遷都をスムーズに進めるために国民の注意を逸らそうっていう政府の意図があったのかもしれないけど」
 過去を懐かしむように語っていた山野紀子は、「トゲトゲ湯飲み」を手に取ってお茶を一口飲むと、真剣な顔で言った。
「それにしても、その時吉に現職の司時空庁長官がこっそりと意見を訊くなんて、絶対に何かあるわね」
「論文の方を読んでいる最中ですけど、全部英文ですし、難解な物理の専門用語や数式が多くて。明日、資料室が開いたら、そこで少し調べてもいいですか。添付されている立体動画も、そこのパソコンじゃないと再生できないって、別府先輩が……」
 もう一口お茶を飲んだ山野紀子は、トゲトゲ湯飲みを机の上に置くと、立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー文書に再び顔を向けて、左手で春木を指差しながら言った。
「時吉総一郎のスキャンダルの記事、水曜日までよ。浮気相手の女子大生の生活調査が未だでしょ」
「あ、そっか」
 思わずそう答えてしまった春木陽香は、机の上に浮かんだ論文データの立体画像に手を添えて、それをフォルダーに格納しようとした。しかし、彼女の手は止まっていた。なぜか論文の内容が気になって仕方なかった。春木陽香は、これまで自分が無関心だった分野で、しかも、謎が多そうな不可解な資料をもっとよく調べてみたいという衝動にも駆られていた。彼女は山野にこの件の調査もさせて欲しいと申し出るべきか迷っていた。その様子を見ていた山野紀子が春木に言った。
「ま、いいわ。スキャンダル記事の方は木曜の昼まで待ってあげる。その代わり、ちゃんとした記事を書きなさいよ」
 嬉しそうな顔でホログラフィーから手を離した春木陽香は、山野に向けてコクコクと首を縦に振った。山野紀子は口角を上げて受け止めた。そして、すぐに言う。
「あ、そうだ。英文の論文なら、ライトに尋ねるといいわ。あいつ、帰国子女だから」
「ライト?」
「ああ、あんた、まだ会ってなかったわね。勇一松頼斗ゆういちまつらいとっていう、ウチの写真部の契約カメラマン。撮影の腕は一流よ。今、上の新聞の連中から頼まれて応援に行っているんだけど、人気女優のヌード撮影という話を聞いたら、すっ飛んで来るんじゃないかしら。なにせ、スクープ写真と芸術写真の両立を目指している男だから」
「スクープと芸術の両立……ですか……」
 首を傾げている春木に山野紀子は言った。
「そ。自分でも、いろいろと両立してるわよ。ま、英語は母国語並みに堪能だから、一度読んでもらったらいいんじゃないかな。ハルハルも英語が出来るのは知ってるけど、時間の短縮になるでしょ」
「助かりますけど、その方、お忙しいんじゃ……」
 ドアが開く音の後、リズムに乗った声が聞こえてきた。
「ローレン、ローレン、ローレン……」
 振り向いて廊下の暗がりを覗いた春木に山野紀子が言った。
「ほら、来た。噂をすれば、ね」
「なんか、歌が聞こえますけど……」
 春木陽香は廊下の方を指差しながら、前後を交互に見て、その方向と山野の顔を何度も確認した。
 山野紀子はホログラフィーの文書の続きに目を通しながら呟く。
「根っからの『げいじゅつ』家だから。――今日は、ウエスタンか……」
 廊下の暗がりから、カウボーイハットを被りジーンズとブーツを履いた人物が現れた。勇一松頼斗だった。
「ハイ、エヴリバーディー! 堤シノブのフルヌードだって。どうやら、このライト様の腕が必要に……あら、誰もいない」
 その少し痩けた頬の顔は、よく日焼けしていて、彫が深く、皺が多い。背丈は小柄な春木よりも少し高いくらいだった。胸を張ってモデルのように優雅に歩いてきた勇一松頼斗は、春木の後ろを素通りして、山野の机の前に来ると、ポーズをとった。
 山野紀子はホログラフィーに顔を向けたまま、素っ気なく言う。
「みんな、打ち合わせと称してエロ話しに出かけたわよ」
 大きな目をパチクリとさせて、勇一松頼斗は言った。
「打ち合わせ? どこに」
 彼の背後から春木陽香が答えた。
「寺師町だそうです」
 勇一松頼斗は頭の上のカーボーイハットを掴むと、その手を大袈裟に振り下ろして言った。
「オウ、マイ、ガッ! 要はただの飲み会……ん?」
 くるりと向きを変えた彼は、春木に気づき、彼女の顔に自分の顔を近づけた。春木陽香が体を後ろに引く。山野紀子が勇一松に言った。
「ところで、新人アシスタントの発掘の方はどうなってるのよ。研修が始まる九月までには決めなきゃなんないのよ。ちゃんと絞れてるの?」
 またくるりと振り向いた勇一松頼斗は、胸の前でクロスさせた腕を左右に広げて言った。
「ノープロブレム。面接はいたって順調。九月までなら、あと四カ月以上もある。余裕、余裕」
 顔の前で手を振ってみせる勇一松に、山野紀子は疑い深い目を向ける。
「ホントかなあ。また前の時みたいに、今回は適任者がいなかったってことになるんじゃないでしょうねえ」
 勇一松頼斗は山野に言った。
「大丈夫、大丈夫。今回は、ちゃんと時間掛けて話を聞いてるから。週に五人ずつ面接しても、八十人はいける。上手くいくって」
「あの……」
 春木陽香が声を掛けた。勇一松が少し振り返ると、春木陽香は言った。
「秋の採用なら、採用される側も、いろいろと準備もあるかもしれませんから、少し早めに通知を出してあげた方が……」
 山野紀子も勇一松に言った。
「そうよねえ。遅くても、お盆前までには内定通知を送ってあげた方がいいかもね」
 勇一松頼斗は山野の方を向いて言った。
「あのね。写真は芸術。芸術は感性。感性ある人間は簡単には分からない。たとえアシスタントでも、ちゃんと芸術が分かる人間を……って、あんた、誰」
 彼は三度くるりと振り向いて再びポーズをとり、春木の方を指差した。
 春木陽香は椅子から立ち上がって一礼する。
「あ、失礼しました。始めまして。新人の春木陽香です。四月一日からこちらの勤務になりました。よろしくお願いします」
「新人……」
 もう一度深々とお辞儀した春木を上から下までジロジロと見ている勇一松に、背後から山野紀子が言った。
「そうよ。あだ名は『ハルハル』。例のほら、上から引き抜いてきた再雇用の子よ」
「ああ、新聞の方で再就職を蹴られた、あの……」
 斜に構えて腕組みをしたまま、勇一松頼斗は流し目で春木を見た。
 春木陽香は少し恐れながら、もう一度お辞儀して言った。
「頑張りますので、どうぞ、ご指導のほど、よろしく……」
 勇一松頼斗は春木の手を両手で包むと、その手を持ち上げて自分の頬にすり寄せながら言った。
「いやん。かわいい。『ハルハル』ね。わたし、勇一松頼斗。『ライトさん』でいいわ。よろしくう」
「あ……はあ……ライト……さん……」
 春木陽香は返事に戸惑った。机の向こうの山野を見ると、山野紀子はホログラフィー画像に顔を向けたまま、下唇を噛んで笑いを堪えていた。
 勇一松頼斗は春木の両手を自分の両手で握り締めたまま、言った。
「気の毒にねえ。こんな可愛い子を採用しないなんて。もう! 今度、人事部の人に会ったら、私がギャーって言って、ペチペチってしちゃうから。あんたも頑張るのよ。いい記事書いて、リベンジするの。見返してやりなさい。いいわね。私も、完璧な写真で、あんたの記事を引き立ててあげるから」
 勇一松頼斗は春木の手を強く握り締めたまま、顔を近づけて何度も頷いた。
 春木陽香は目をパチクリとさせながら言った。
「は、はい。――よろしく……お願いします」
 取り合えず宜しくお願いしておくことにした。それしか思い浮かばなかった。
 勇一松頼斗は春木の手を放すと、今度は自分の胸の前で拳を握って、春木の目を見た。拳に力を入れて少し興奮気味に言う。
「パッション。パッションが大事よ。それが芸術を生むの。あああ、パッション!」
 その場でバレリーナのように綺麗に一回転した勇一松頼斗は、両腕を上に大きく広げ、まるで天に向かって開く花のような形でポーズを決めた。こちらを向いてニヤリと笑う。
 ウザい。が、春木陽香はとりあえず愛想笑いで応じた。すぐに視線を外して落とす。ポーズをとった弾みでズボンからシャツが出ていた。春木の視線に気付いた勇一松頼斗は、顔を赤くしてシャツの間から覗いている腹部を手で隠し、慌てて後ろを向いた。内股でシャツをズボンに押し込みながら言っている。
「キャー、恥ずかしい。ポンポンが見えちゃってるじゃないの。男の子の前じゃなかったからいいけど、芸術家には身だしなみが大切だものね。もう、このシャツは短いから要注意だわ。ウィズケアっと……」
 春木陽香は項垂れると、思わず呟いた。
「そっちの『ゲイ術』かな……」
 またまたくるりとこちらを向いた勇一松頼斗は、さっと腕組みして斜に構えると、目を細めて春木に言った。
「ん。何か言った?」
「いえ、何も」
 春木陽香はプルプルと首を横に振る。
 山野紀子が口を挿んだ。
「ねえ、ライト。今、ハルハルが英文の文書を読んでるんだけど、それやらせてたら、別の記事が今度の特別号に間に合わないのよね。あんた、代わりに読んでみてくれない?」
 振り向いた勇一松頼斗は、大きな目を更に大きくして言った。
「ええ! 私は写真家よ。翻訳家でもないし、記者でもないの。呼ばれた件で忙しいんだから。呼ばれたからには、次は飛び出て、じゃじゃじゃジャーンでしょ。撮影場所の選定とか、セットのイメージとか。ヌード撮影は背景が大事なのよ」
 よく意味が分からなかった。春木陽香は首を傾げる。
 山野紀子は勇一松の顔をにらみ付けながら、歯を剥いて、ゆっくりと言った。
「でも、私の部下よねえ、ライトは」
「は、はい。そうです。そうでございます」
 山野紀子は指の関節を鳴らしながら言った。
「じゃあ、読むわよねえ。まさか、ノーとは言わないわよねえ。ライトお」
「はあ、もう。仕方ないわねえ。読めばいいんでしょ、読めば……」
 山野紀子は手を耳に添えた。
「は? なんて? 仕方ない? 堤シノブの企画がボツになってもいいのかなあ」
「いえ。読ませていただきます。はい。さっさと読ませていただきます。ほら、ハルハルだったっけ? その英文はどこにあるの。さっさと出して」
 勇一松頼斗は山野に背を向けると、春木にそう言って急き立てた。
 春木陽香は自分の机の上に浮かんでいる論文データのホログラフィーを指差した。
「ああ、これです。すみません」
 勇一松頼斗は春木の椅子に座ると、その立体画像の文書に目を凝らした。そのまま、その立体画像に触れて、頁を最後までまとめて捲ると、声を裏返した。
「やだ。何よコレ。五百二十頁もあるじゃない。私を殺す気?」
 山野紀子は自分のパソコンの上のホログラフィーに顔を近づけたまま、勇一松の方を軽く指差した。
「数式の箇所とデータ資料の部分を除けば、そんなに無いでしょ。ややこしい所はいいから、全体的に肯定か否定か、大まかな論拠、それだけが分かればいいの。いいわね」
 この論文データに山野がまだ目を通していないと思っていた春木陽香は、山野の口から論文の全体像が語られたので少し驚いた顔で山野を見ていた。春木の席からは見えていなかったが、山野紀子の机の上のホログラフィーの横には開封済みの小さな封筒を模したアイコン・ホログラフィーが浮かんでいた。それは春木が山野のパソコンに転送した、その論文データのコピーだった。山野紀子は仮原稿ではなく春木が送った論文データに目を通していたのだ。ということは、次号分の仮原稿のチェックは終えているに違いない。春木陽香は、ただ雑談に浸っていた自分を少し恥ずかしく思うと同時に、いくつもの事を並行して手際よくこなす山野に感心した。上司として、先輩記者としてだけではなく、女としても敬意を持った。それは憧れに近い感覚だった。
 春木陽香は立ったまま、口を尖らせて一人でコクリコクリと何度も頷いていた。
 一方、勇一松頼斗は春木の椅子の上でガックリと項垂れていた。
「そんな……ヌードの打ち合わせが……」
「つべこべ言わずに、さっさとやる!」
 山野紀子が低い声で怒鳴った。
 勇一松頼斗は姿勢を正して敬礼する。
「はい。やります。すぐ読みます」
「すみません」
 後ろから申し訳ない様子で謝った春木に、勇一松頼斗がパタパタと手を振りながら言った。
「いいから、あんたはそっちの記事を書いてなさい。ええと、これは……ちょっと集中しないといけないわ。――ああ、もう、ツイてない!」
 勇一松頼斗はカーボーイハットを外して隣の机の上に放り投げると、真剣な顔でその論文データを読み始めた。
 春木陽香は急須が乗ったお盆を持って、廊下の途中にある給湯室へと走っていった。
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