サーベイランスA

淀川 大

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第1部

2038年4月14日(水) 4

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 夕日が差し込むマンションの空き部屋に、皺が走ったワイシャツを着た老人が立っていた。隣の最新式のキッチンの中で周囲を見回していた春木陽香は、壁から離れて設置された調理台の上を撫でた。
「わあ、ステキ。流行のアイランド式キッチンかあ。いいなあ」
 老人は手に持った薄型端末を操作しながら、言った。
「でしょ。リフォームしたばかりだからね。リビングに内蔵してあるエアコンは、もちろん無音タイプのAIエアコン。湿度も気流も全自動調整の最新式だよ」
 リビングへと弾む足取りで移動した春木陽香は、窓ガラスを見ながら言った。
「へえー。窓ガラスは透過式スクリーン・ガラスなんだ」
「そうだよ。ほら、AI自動車に付いているのと同じさ。色の調節も透明から無段階調節できるし、外の明るさに応じて自動変化に設定することも可能。だから、カーテン要らずだよ。もちろん、こうすれば……」
 老人が壁の操作パネルに触れると、透明の窓ガラスが一瞬で都会の夜景の風景を映し出した。老人は笑顔で言った。
「好きな景色を表示させることもできる。画像は九個までダウンロードできるから、ネットの無料サイトから気に入った画像を落とせばいいよ。ここに海とか草原の景色を表示してごらんなさい。最高だよ」
 春木陽香は、少し遠慮気味にその不動産屋に尋ねた。
「あの……質量バリアとかは、付いてないですよね」
 老人は手を振りながら答える。
「ああ、『見えない網戸』かい。そんな高価なものまでは付けられないね。さすがに」
「ですよね。あ、こっちは和室ですか」
 フローリングのリビングの隣室は、六畳の和室だった。
 老人は言った。
「そう。畳を入れ替えたばかり。やっぱり、日本人は和室でしょ」
「ですよね。うわあ、なんか、落ち着くなあ」
 部屋の中を見回している春木に、老人が必死にアピールする。
「今では珍しい天然モノのイ草を使った畳だよ。田舎だから出来るサービスだね。ここで寝たら最高。その日の気分によって和室と洋室、好きな部屋で寝たらいいですよ」
「それもいいですね。こっちの部屋は……」
 和室の隣にも部屋があった。その部屋のドアを開けた春木陽香は絶句した。
「――えっと……」
 老人が後ろから言った。
「ああ、その部屋は『大自然の間』。天井の照明は紫外線ライトで、床は全て天然芝さ。柱だって天然木をそのまま加工せずに使ってあるんだよ。ま、これも、こんな地方の田舎町だから出来るだけどね。芝への水遣りが面倒かもしれないけど、慣れたら、どうってことないよ。排水溝もちゃんと付いているし。柱が自然のままだから、カブトムシも飼えるかもしれないよ」
「――はあ……」
 春木陽香はカブトムシに興味は無い。そもそも彼女は虫が嫌いである。興ざめだ。こんな部屋、借りる訳ない。そう春木陽香は思っていた。すると、老人が言った。
「あれ、あまり気に入らなかったかな。結構みんな、この部屋を見て、すぐに契約を結んでくれるんだけどね」
 春木陽香はパタパタと顔の前で手を振って答えた。
「あ、いえ、そんなこと無いです。素敵です。でも、お家賃は……」
 老人は手に持った薄型の端末を覗き込みながら言う。
「安くしとくよ。礼金もたったの一ヶ月分。転居シーズンが落ち着いて物件が無い時にたまたま残っていた物件だからね。お客さん、ラッキーだよ。こんな物件、他では無いよ」
 たしかに他では無いぞ。と、春木陽香は思った。しかし、彼女はそれを言わずに演技を続けた。
「でも、仕事がなあ……。いい仕事が見つかれば、安心して借りられるんですけど。――ああ、向こう一年分くらいの家賃分の蓄えは在るんです。退職金も出ましたし」
 端末をいじっていた手を止めて、老人が春木の顔を見た。
「あらら。仕事、辞めちゃったの」
「はい。恐い上司とか都会の生活にも疲れて、地方の町でのんびりしたいなあって思って。東西南北の順番でと思って、とりあえずこの町に来たんですけど、安定して働ける大きな会社ってなかなか無いですねえ」
「だろうねえ。小さな田舎町だからねえ。頑張れば新首都まで通えないこともないけど、まあ、ちょっとキツイかなあ。こっちで探すのがいいよ。どんな会社を探してるの」
「例えば、NNJ社みたいな、かっこいい会社とか。でも、地方にそんな会社って無いですねえ。やっぱり、新首都に戻ってNNJ社の求人にでも募集しよっかなあ」
 老人は手に持っていた薄型端末を団扇のように振りながら、春木に言った。
「やめときな、あんな会社。ろくな企業じゃないよ」
 春木陽香は、すぐに尋ねた。
「すごい。社長さん、NNJ社をご存知なんですか。どんな会社なんですか」
 老人は眉間に皺を寄せて、春木に答えた。
「だから、ろくな会社じゃないって言ってるだろ。新首都に本社を構えて、あのAB〇一八を管理している大きな会社だから、こっちも信用して取引したのに、えらい目に遭ったことがあるんだよ」
「どんな目に遭ったんですか」
 春木陽香はリズムよく尋ねる。老人は躊躇すること無く答えた。
「土地を買わされたんだよ。建物込みで。ほとんど叩き値みたいな額だったし、上の建物も立派だったからね、いい話だと思って飛びついたのさ。ところがあいつら、自分たちの名前を登記簿に出ないようにして、前の所有者から直接こっちに登記をしてくれって言い出しやがった。それって中間省略登記といって違法だから無理ですって、きっぱりと断ったのさ。ウチは真っ当な不動産業者だからね。なのにあいつら、それで押し通そうとしやがって、こっちが最後まで応じなかったら、今度は建物の売買契約を解除して、急に解体さ。その後で下の土地だけウチに押し付けて。で、結局、買わされたんだよ。高値で」
「ひどいですね。社長さんは法律を守っているだけなのに」
 春木陽香は本当にそう思った。
 老人は、同情した顔をしている春木を指差して言った。
「だろ。登記の時も揉めてね。司法書士さんが中間省略登記は出来ないって言い張って、半ば強引に進めたから、結局、土地については一旦NNJ社の名義に所有権移転登記してから、更にウチに所有権移転の登記となったけど、その後が大変さ」
「どうなったんですか」
「聴いてくれるかい。くく……あのね……」
 その老人は涙を拭うふりをしながら、話し始めた。
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