サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月6日(木) 5

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 文字盤の上にホログラフィーで浮かべられた針が時刻を表示している。音もなく動く秒針は時の流れを感じさせないまま、ただ情報としての「時刻」とその変化を伝えるだけである。その無音の時計の下には窓がある。そして、少し背を曲げた人影があった。
 タキシード姿の年老いた男が杖にもたれて立ったまま窓から景色を眺めていた。海原の向こうには青い空が立ち上がり、手前では岸壁からその窓の下までの斜面を丸い葉の緑が埋めている。その部屋の中は薄暗く、静かだった。ロダンの彫刻やモネ、ピカソといった歴史的絵画が飾れたその部屋は、床に靴の踵が埋まるほどに毛足の長い絨毯が敷かれ、天井には豪華なシャンデリアが吊られている。そのシャンデリアの下に、ブランド物のスーツに身を包んだ金髪の西洋人女性と、詰襟の服を着た背の高い東洋人女性、光沢のある派手な背広を着た中年の東洋人男性が立っていた。
 窓の前の老人は杖先で強く床を突くと、三人に背を向けたまま言った。
「もうよい。さがれ。愚か者どもが!」
 三人は老人の背中に向けて、ほぼ同時に頭を下げると、それぞれ恐縮した顔でその場を去ろうとする。老人は杖に体重を掛けたまま、言った。
「待て」
 三人は足を止め、再び老人の方を向いた。老人は振り返り、部屋の中央にゆっくりと歩きながら言う。
「やはり、あの方の言われた通りじゃ。今後の日本での対応は、あの方の言われる通りに進めるのじゃぞ。よいな」
 三人は再び頭を垂れた。老人は杖を振り上げると、一番端の派手なスーツの男の肩に強く振り下ろした。男は腰を折った状態で、痛みに顔を歪めている。
 男の肩に杖を載せたまま、老人は言う。
「奴の監視も怠ってはならぬ。よいな」
 男は声を震わせた。
「か、かしこまりました」
 杖を降ろした老人は言った。
「行け」
 三人は視線を下げたまま、部屋から出て行った。
 ドアが閉まると、老人は大きな裸婦像を一瞥した。
「居たのか」
 女性の裸体の彫刻の後ろから白い革靴が絨毯に踏み出す。白いズボンに白いジャケットのその男は、胸のポケットに紫のチーフを挿している。男の片方の目の上には大きな刀傷があった。隻眼の男は手に持った青い花の匂いを嗅ぎながら言った。
「まあ、品定めは必要ですから」
 老人は言った。
「まだ手は出すな。何も動いてはならぬ。計画通りに進めるのじゃ。計画通りに」
 刀傷の男は口角を上げた。
「分かりました。ですが、閣下もそういう御意向で?」
 老人は杖で床を強く突いた。
「ワシの意見が、あのお方の意見じゃ。忘れるな!」
 男はニヤけた顔をして言う。
「了解です」
 そして、片方だけの目を部屋の奥のドアに向けた。
「おっと、噂をすれば、ですな。では、私はこれで」
 刀傷の男は前の三人が出ていったドアの前で振り向き、軽く手を振ってから退室した。
 男がドアを閉めると、その対角の位置のドアが開き、上半身を前に突き出した背広姿の老人が杖を突いて歩いてきた。その老人はメイドに支えられながら部屋の中央まで小さな歩幅で歩いてくると、執事の男が置いた椅子に腰を降ろした。メイドと執事に退室するよう手で合図をした彼は、膝の間に立てた杖の上に両手と顎を乗せて、擦れた声で言った。
「どうじゃ。計画通りか」
 その老人の前に杖をついて立っているタキシード姿の老人は頷く。
「ええ。計画通りです」
 背広姿の老人は満足そうに瞬きしながら言った。
「よし、よし。順調じゃ。それでいい。それでいい」
 彼は鋭い視線をタキシードの老人に向ける。
「じゃが、まだ残っておるの。全てを計画通り進めなければならん。分かるな」
 タキシードの老人は片笑んで言った。
「もちろん、そのつもりです」
 背広の老人は頷いた。
「では、行くのじゃ。準備は出来ておる」
 タキシードの老人は言った。
「では、行って参ります」
「うむ。よろしく頼むぞ」
「ご心配なく」
「心配はしておらん。する訳がない。我々はを知っておる。その同じを同じ方向に共に歩んできた我々じゃ。何もたがうはずがあるまい」
 タキシード姿の老人は口角を上げて頷くと、杖を突きながら、背広の老人が出てきたドアの方へと向かった。彼が退室すると、椅子の上の背広の老人はニヤリと笑う。
「計画通りじゃ。計画通り」
 広い部屋の中に一人残った老人は、静かにそう呟いた。

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