大好きな小説の悪役令息に転生したら、婚約破棄するはずの婚約者に執着されていました

エアコン

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10章

10-1

何も見えない。暗い。寒い。

肺の奥まで凍りつくような静寂。

「……怖い……」

かすれる声。

「お兄様……いかないで」

伸ばした手は、何も掴めない。

「僕の家族を……奪わないで……」

――その願いは、どこにも届かないまま沈んでいく。



日は沈み、窓から差し込む月光が、静かな室内を淡く照らしていた。

城下町を襲ったのは、高位魔獣サーペントを長とする大規模な群れ。

コカトリス、マンティコアといった上位種に加え、アルミラージなどの下位種まで入り混じった、異常な編成だった。

騎士団だけでなく傭兵も動員され、かろうじて壊滅は免れたものの、城下町は半壊。

——だが。

それ以上に、戦場は地獄だった。

これまでで最も過酷な討伐。

仲間が、次々と喰われていく。

石化し、砕け、引き裂かれ、血が飛び散る。

いくら魔法を放っても、数は減らない。

むしろ——増えているのではないかと錯覚するほどだった。

呼吸が荒くなる。

腕が重い。

足が震える。

それでも——

止まれば、終わる。

「……俺がやるしかない」

誰も、サーペントに対抗できない。

だから——ティペス一人で向かった。

爪が肉を裂く。

骨にまで響く衝撃。

熱いはずの血が、冷たく感じるほど流れ落ちる。

痛みは、もう感覚として認識できない。

ただ、“削られている”だけだった。

それでも、立ち続ける。

「アルデアント!!」

炎が噴き上がり、鱗を焼く。

肉が焦げる臭いが立ち込める。

のたうつ巨体へ、大剣を叩き込む。

焼け爛れた肉の奥——露出した骨を、砕く。

何度も。

何度も。

何度も。

——ようやく、サーペントが崩れ落ちた。

だが、終わりではない。

まだ、魔獣はいる。

けれど——

限界だった。

膝が、地面に落ちる。

大剣を支えにしても、立てない。

「ダメだ……」

喉が焼ける。

「……家を、失うわけにはいかない……!」

力を込めても、体は応えない。

「ティペス様!!」

背後から声。

振り向くことすら、できない。

視界の端に——

迫る、コカトリスの爪。

(……終わった)

理解した瞬間、不思議と恐怖はなかった。

ただ——

守れなかった、という後悔だけが残った。

目を閉じる。

——その瞬間。

「ガァアアアアッ!!」

響いたのは、自分ではない絶叫。

血飛沫が、弾ける。

目を開ける。

そこにいたのは——

月光を受けて輝く、ネイビーの毛並み。

コカトリスの首に喰らいつく、ワーウルフ。

牙が肉を裂き、動脈を噛み切る。

巨体が崩れ、地面を揺らす。

その血が、足元を染める。

ワーウルフはゆっくりと振り返り、ティペスの元へ歩み寄る。

そして——

天を仰ぎ、遠吠えを上げた。

その首には、見覚えのある黄色の首輪。

遠吠えに応じるように、次々と現れるワーウルフの群れ。

魔獣へ飛びかかり、喰らい、殺していく。

長であるその個体は、ティペスを守るように立ち、

近づく敵を吠えで牽制し、群れに任せて排除させる。

「……お前」

「ワフッ」

尻尾を振り、手を舐める。

「……レイブン」

残っていた魔獣も、すべて駆逐された。

静寂が戻る。

「……ありがとう」

その一言を最後に——

意識が、落ちた。



目を覚ました時には、夜だった。

ベッドの足元で、レイブンが穏やかに眠っている。

起き上がろうとした瞬間、扉が開く。

「ティペス様!」

パキプスが駆け寄ってくる。

珍しく、表情を崩して。

「……良かった……本当に……」

手を握り、額に当てる。

その震えが、どれだけの時間を物語っていた。

「死ぬわけないだろ」

ニヤリと笑う。

「俺だぞ?」

わずかに口元を緩め、すぐに戻る。

「……そうでしたね」

わずかに口元を緩めたパキプスは、すぐに表情を引き締める。

側近としての顔に戻り、静かに一礼した。

「この件は、至急旦那様へご報告いたします」

ティペスに背を向けるその動きに、一切の迷いはない。

主の嫡男が瀕死だった事実——それを伏せる選択肢はない。

何より。

「……ティペス様に、これ以上何かあってはなりません」

低く、強い声。

そのまま扉へ向かい、足早に部屋を後にした。



入れ替わるように、数名の護衛騎士が入室する。

緊張で張り詰めた空気。

だが——

ベッドの上で起き上がるティペスの姿を確認した瞬間、

「……よかった……」

一人が、小さく息を漏らした。

それを合図にしたかのように、張り詰めていた空気がわずかに緩む。

「ティペス様、ご無事で……本当に……」

それでもすぐに気を引き締め、

騎士たちは無言で配置につく。

剣を携え、視線を巡らせ、

“守る”という意思を、空間そのものに張り巡らせる。

先程までの戦場の続きのように——

一切の隙を許さない布陣だった。

その時。

部屋の隅で、空気が歪む。

レイブンが、ぴくりと反応し、そちらを見た。

黒い靄が、ゆっくりと集まり始める。

「——何者だ!」

即座に一人の騎士が前に出て、剣を抜く。

緊張が走る中——

レイブンだけが、静かに尻尾を振っていた。

「……下げろ」


低く命じる。

騎士は一瞬迷うが、命令に従い剣を引いた。

靄は、ゆっくりと形を成していく。

一歩、また一歩——こちらへ近づく。

「近づくな!」

別の騎士が叫び、再び前に出ようとする。

だが。

「いい」

ティペスは静かに手を上げ、それを制した。

そして——

その靄へと、自ら歩み寄る。

躊躇いなく、腕を広げる。

抱きしめる。

「……ソフォラ」

その名を呼んだ瞬間。

靄が、ほどけた。

現れたのは——

小さく震える、ひとつの体。

「……ぅ……お兄様……」

か細い声。

縋りつくように、服を掴む。

「いかないで……」

震えが止まらない。

「置いてかないで……」

ティペスは何も言わず、ただ背中を撫でた。

確かめるように。

ここにいると、伝えるように。

冷えきった体に、体温を分けるように。

「いるよ」

優しく。

「どこにも行かない」

涙が、肩を濡らす。

止まらない。

「……心配かけたね」

そっと、額を寄せる。

「愛してるよ、ソフォラ」

その瞬間——

ソフォラの中で、何かが崩れた。

「……っ、ぅ……」

言葉にならない嗚咽。

「……よかった……」

震える声。

「今度は……間に合った……」

ぽろぽろと涙が零れる。

「助けられなかったんだ……前は……」

息が詰まる。

「お父さんも、お母さんも……」

記憶が蘇る。

手を伸ばしても届かなかった、あの日。

顔を埋めたまま、必死に言葉を紡ぐ。

「お兄様は……生きてる……」

強く、強く抱きしめる。

「……失わなくて、よかった……!」

堰を切ったように、泣き叫ぶ。

それは——

過去と、今を繋ぐ涙だった。
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