皇女の鈴

月森あいら

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第四章

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 今は太上天皇となった吉備の祖母が病に伏したとの知らせが、宮を巡った。
 病はそう重いものではないという話ではあったが、すでに五十を越えての身、自然、周りが騒めくのも仕方のないことだった。
「紫野、紫野」
「なんでございましょう?」
 自分よりも背の高い紫野にすがりつくように見つめながら、吉備は言う。
「一緒に来てね、紫野」
「なにをおっしゃいます」
 驚きに後ずさりをしかけた紫野の手を、吉備がぎゅっと握りしめる。
「とんでもございません、私のような女儒風情が仮にも太上天皇のもとになんて」
「だってわたくし、自信がないもの」
 紫野を逃がさないとでもいうように吉備はしっかりと紫野の手を握り、じっと視線を注いでくる。
「お祖母さまはご病気で、随分お弱りになっているという話だわ。そんなお祖母さまを前に、わたくし笑っていられるかどうか、自信がないのよ」
「……吉備さま」
「お願い。お前が女儒だからとか、そういうことは関係ないわ。わたくしのお姉さまとして、わたくしの近くにいて欲しいのよ。わたくしが、笑顔でお祖母さまをお励ましできるようにね」
 吉備のすがるような真剣な目にとらえられては、もう駄目だ。紫野は不承不承うなずいた。
「太上天皇のもとに女儒が、なんて……お咎めを受けても、知りませんよ」
「そんなこと、わたくしがさせないわ」
「それに……お姉さまとおっしゃるには、氷高さまもご一緒するお話ではありませんでしたか?」
「……それは」
 吉備は、言葉を濁す。それをなぜか、と問う前に侍女が出立の準備ができたことを告げにくる。ふたりは輿に乗り、宮殿に向かう。
「それは、そうなのだけれど」
 煮え切らないような吉備の言葉に、紫野は首をかしげた。
「氷高さまと宮殿にいらっしゃること、あんなに楽しみにしておいでではなかったですか」
「……ええ」
 吉備は、紫野の言葉にうなずきながらも、不思議そうに自分を見る紫野の様子にいたたまれない、というように肩をすくめて見せた。
「でもね、お祖母さまも……同じことをお考えだったら、と思ってしまって」
「なんのことですの?」
 紫野の質問に、吉備は答えなかった。そして宮殿に着くまで、揺れる輿の小さく切り取られた窓から、ただ一心に外を見ていた。


 太上天皇の寝所はどれほどにきらびやかなのだろう、と考えていた。
 皇太子となって間もなく即位した吉備の兄皇子が今の天皇であるとはいえ、この都の実質的な主である太上天皇だ。そのひととなりなどは吉備から漏れ聞いてはいたものの、女丈夫と呼ばれる太上天皇とはどのような人物なのか。実際に目通りする機会があるとなると自然、体は緊張に震える。
「吉備」
 吉備に気づいて振り返ったのは、氷高だった。吉備と、そして吉備に付き従っている紫野を見て、驚いた顔をする。
「お姉さま」
 氷高が何かを言う前に、吉備は氷高に駆け寄った。
「お祖母さまのところへ、紫野も連れて行きたいの。いいでしょう?」
「太上天皇の寝所に、女儒を?」
 氷高は、いい顔をしない。それは彼女の身分ゆえの驕りなどではなく、ただその場においての礼儀を厳しく守る性質だというだけだ。むしろ、紫野は氷高の考えに賛成できた。だから、吉備の願いにいい顔が出来なかったのだ。
 果たしてこの姉妹、太上天皇に似ているのはどちらだろう。紫野はふと、考えた。女丈夫。都の主。そのような畏れ多い存在であるならば、やはり氷高のように生真面目なまでに秩序を大切にする人物なのではあるまいか。そう思うと、紫野はますます委縮してしまった。
「お祖母さまはお叱りにはならないわ。お祖母さまはお優しいもの」
「それは吉備、あなたがかわいい孫だからよ。でも、女儒を連れてご寝所に入るなどというのは、別の話よ」
「皇女さま方」
 きりりとした声がかけられた。それに、氷高も吉備も姿勢を正す。
「太上天皇が、皇女さま方にお会いになられます」
「はい」
 女官に先導され、ふたりの皇女が歩いていく。紫野はそれに、一歩遅れた。
「紫野」
 小さな声で吉備に引っ張られ、紫野は結局、彼女について行くことになった。少し先を行く厳しそうな女官や氷高には気づかれないように吉備の後ろに距離を保ちながら、皇女たちを案内する女官たちの中に紛れた。
「皇女さま方がおいでです」
 年配の女官の、静かな声が響く。
「そう」
 低い声。その声に、ぞくりするものを覚えた。嫌悪感ではない。むしろ、雲の上のひとでありながら、どこか親しみを感じさせる声、そのことに驚きとともに震えを感じたのだ。
「おいで」
 声は低く、静かだ。それでいながら一言一句、聞き逃すことはないであろうはっきりした言葉に促され、床を衣擦れの音が包む。
 はっと紫野が振り返ると、ふたりに付き添っていた女官たちは背を向けて部屋から立ち去っていた。どちらに従うべきか、迷った紫野は取り残されそこにいるのは氷高と吉備、そして紫野の三人だけとなってしまった。
「お祖母さま……!」
 真っ先に駆け寄ったのは、吉備だった。その顔は寝台に向かって一瞬不安に染められ、そしてすぐに笑顔になった。
「お加減は、よろしいみたいですわね」
 吉備はそう言った。ここからでは、寝台に横たわる姿は見えない。ふ、と小さく笑うような声だけが届いてきた。
「……お前らしいね」
 低い声は、そう言った。手が伸びてきて、吉備の手首をつかむ。その枯れ枝のような細さに紫野はぎょっとする。しかしそれは往年の力を失ってはいないというようにしっかりと、吉備の手首をつかんでいた。
「かわいい子。お前には、幸せになって欲しいの」
「お祖母さま……」
「お前には、きっとその道が似合っている。お前は、想う者と結ばれて……幸せに生きてほしいの」
 吉備の手が、手首をつかんだ指をゆっくりとほどく。そして今度は彼女が、その手を握る番だった。ため息が聞こえた。
「もう……早くはないだろうに。そういう話は、ないの?」
「そんな……わたくしなど」
 吉備が、顔を真っ赤にして首を振っている。毎日顔を合わせてはいても、吉備からそのような話を聞いたことなどない。想う男性の話など、ちらりと話題に上がったことさえないのに。吉備の反応に、紫野はそっと首をかしげた。
「それは、まずお姉さまの方が先かと」
「氷高……」
 名を呼ばれて、氷高が進み出た。一歩横に身をずらした吉備の笑顔とは裏腹に、彼女の表情はきりりと結ばれている。
「あの子を……帝を……」
 その言葉にぴくりと肩を震わせたのは、氷高だけではなかった。吉備もまた、太上天皇の手を握りながら反応を見せた。
「頼みますよ」
「お祖母さま……」
「お前は、天皇家の家刀自いえとじ。家刀自にはほかの者の持たぬ、霊力が宿る……。そんなお前が、あの子の力になってやっておくれ」
「……はい」
 また、吐息。それはこのたびは、安堵の色を伴っているように思えた。
 沈黙がしばらく続く。やがて、苦しげに息を吸い込む音がした。
「お祖母さま!」
 枯れた手は吉備の手から落ち、ふたりが寝台に駆け寄る。
「お祖母さま、お苦しいのですか!?」
「誰か!」
 吉備が太上天皇をいたわる声をかけ、氷高は振り返って御簾に向かって叫ぶ。
「誰か……! 太上天皇が……」
 青ざめた顔をした女官たちが慌ただしく駆け寄ってきた。ふたりの皇女は、続いて入って来た老典侍によって遠ざけられる。
 紫野を、吉備が手招きする。慌てて彼女のものへと歩み寄ると、吉備は先ほど太上天皇に見せていた表情とは裏腹の、厳しい顔つきで紫野を見やった。
「行きましょう」
 静かなざわめきの中、名残惜しく後ろを振り返りながらふたりの皇女が退出する。それを慌てて先導する女官に従いながら、紫野もその場に踵を返す。
 視線を感じたような気がして、振り返った。確かに、寝台の方から送られてくる視線。それは氷高を、そして吉備を真っ直ぐに貫いている。
 紫野は思わずそれに意識を奪われる。そして慌てて振り返り、ふたりに遅れまいと足を速めた。


 「吉備さま」
 紫野が吉備の部屋に入ると、吉備は広げた書物を前に、卓に向かって座っていた。
「……吉備さま?」
 顔を上げた吉備はうっそりと紫野を見やり、疲れた様子で何度もまばたきをした。
「長屋さまが、おいででいらっしゃいます」
「そうなの?」
 しかし、吉備はいつものようには立ち上がろうとしない。
「ご挨拶に伺われないんですか?」
「長屋のお兄さまは、お母さまのところにいらしたのではないの?」
「そうでいらっしゃいますが……?」
 吉備は、再び卓上の書簡に目を落とす。彼女の眉間には似合わない皴が刻まれていた。ちらりと卓の上の書物を見れば、そこには吉備とともに一通りの読み書きを習い覚えたとはいえ、紫野には到底理解できない文字がぎっしりと並んでいる。
「それじゃ、わたくしがお邪魔する理由はないじゃないの」
「でも……」
「わたくしを呼ばれたら、そのとき呼びに来てちょうだい」
 吉備は顔を上げた。じっと見つめられ、その視線に思わずたじろいだ。
「でも……いつもおいででいらっしゃいましたじゃありませんか」
「やめたの」
「なぜでございますか?」
 紫野の問いに、吉備は唇を尖らせる。
「だって。呼ばれてもいないのに顔を出すなんて、不作法じゃないの」
「はい?」
 思わず聞き返し、吉備に睨みつけられる。
「どうして驚くのよ」
「いえ……。吉備さまが、そのようなことおっしゃるなんて、どうなさったのかと思いまして」
「いけない?」
 拗ねた調子の吉備がかわいらしくて、思わず紫野は小さく笑った。
「……お前も、わたくしを頼りにならない小さな子供だと思ってるのね」
 しかし、その笑いは吉備の言葉にかき消される。紫野は慌てて、大きく首を横に振った。
「決して、そのようなつもりでは……!」
「分かっているの」
 ふぅ、と吉備は小さく、ため息をついた。
「分かっているわ。お前だけじゃない、お祖母さまもお母さまも、お姉さまも。きっとそう思っておいででしょうね」
 そして、またため息。
「……だから、少しでもお勉強してみようと思ったのだけれど」
 次のため息は、先ほどとは違う色合いを持っていた。吉備の指は、目の前の書物に書かれた文字をすいとなぞる。
「駄目だわ。ちっとも頭に入ってこないの」
「まぁ……」
「こうすれば、お姉さまのようになれるかと思ったのだけれど……」
 紫野はただ、驚いて吉備を見つめている。そんな紫野をちらりと見やり、そして吉備はゆっくりと小さな口を開いた。
「ねぇ、紫野」
「はい?」
「お勉強して、難しいことを知って……そうしたら、お姉さまのようになれるかしら?」
 吉備らしくない。とっさに、そう考えた。誰かの真似をするようなことは。その瞬間、紫野の頭をよぎったのはそんな思いだった。
「どういうおつもりでいらっしゃいますの?」
 じっと、吉備の目を見つめる。紫野の視線に一瞬たじろぐ様子を見せ、そして吉備は背を正し、きゅっと唇を噛み締めた。
「お姉さまにように……なりたいのよ」
 紫野は、小さな声でそう言った吉備を、じっと見つめた。
「氷高さまを、羨ましいとお思いなのですか?」
「……ええ」
「どのようなところを?」
「それは……」
 吉備は、言葉を選んでいるようだった。逡巡するような様子に紫野は、長い馴染みの自分でさえ見えない吉備の心の一面を感じ取り、続いて湧き上がる感情に驚いた。自分の知らない、吉備の心がそこにある。
 思わず、胸を押さえた。そして低い声で紫野は言った。
「吉備さまは、お変りになりましたね」
「え?」
「高市皇子さまがお亡くなりになったころから。なんだか、お変りになられました」
 何を、と問うように首をかしげた吉備の、さらりと肩から滑り落ちる黒髪を見つめながら、紫野は一気に言い放った。
「以前の吉備さまは、そのように誰かの真似をしたい、などというようなお心をお持ちではありませんでしたのに」
「……」
「氷高さまに憧れることはおありでも、そのように、氷高さまの真似をなさりたいというようなことをおっしゃったことなど、なかったですのに」
 息を飲んだその口許が、再び唇を噛んだ。紫野は口を噤む。自分の言葉に吉備がどう反応するか。それを見届けようと、じっと吉備を見つめた。
「吉備さまらしくありませんわ。そのような……そのように、後ろ向きなお考えは」
「だって……だって!」
 吉備が声を張り上げたのに、紫野はびくりと肩を震わせた。
「わたくしは、お姉さまのようになりたいのよ!」
 吉備は乱暴に机の上に手を置き、音を立てて立ち上がった。
「お姉さまのように、お祖母さまに、お母さまに……頼りとしていただけるように、なりたいのよ!」
「吉備さま……」
「真似なんかじゃないわ。お姉さまのようになんて、なれっこないもの。それでも、少しでも……少しでも、わたくしも頼りになる者なんだって思っていただきたい……認めていただきたいのよ!」
 ひく、と吉備が咽喉を鳴らす音が聞こえた。吉備の大きな目からは、涙がぽろぽろと流れ落ちている。
 先ほど胸に生まれた感情など、どこかに消えてしまう。紫野は思わず吉備のもとへ駆け寄り、吉備はその胸にすがりついた。
「吉備さま……!」
 吉備の体を抱きしめる。紫野の腕の中に収まる吉備の姿は、やはり紫野の昔からよく知っている、無邪気でかわいらしい吉備の姿だった。
「お母さまは、お姉さまを頼りとなさるわ。お兄さまも、お祖母さまも……。わたくしは、誰にとってもいてもいなくても同じ……」
 それは、噛み殺された泣き声の中から聞こえてきた。
「お祖母さまだって、おっしゃったもの。お兄さまを頼む、と……それは、お姉さまにおっしゃったのだわ。わたくしにではないの。それが、わたくしには……」
 あのとき吉備は、涙どころかそのような感情など、一片も見せはしなかった。笑顔を浮かべ、常のように明るく振る舞う吉備の心の奥にそのような思いが潜んでいたなどと。
 思い及ばなかった。紫野は、泣きじゃくる吉備を胸に、改めて強く抱きしめた。
「申し訳ございません、吉備さま……」
 ひく、としゃくり上げる咽喉の音が、吉備の返事だった。
「あのようなこと、申し上げて……」
「……いいのよ」
 紫野の胸にすがりつく吉備は、ほんの幼いころにもなかったほどに頼りなく、紫野は憐れみにますます、胸をかき立てられる。
「いいのよ。紫野の言うのは、本当のことだもの。こんなことをしたって、お姉さまの真似をしているだけ……。そしてその真似さえも上手く出来はしないのよ、わたくしは……」
 吉備を抱きしめたまま、紫野は激しく首を振る。
「皆、わたくしをかわいがって下さるわ。けれど、誰もわたくしを必要とはしていないのよ。かわいがられるだけの、お人形のような存在に過ぎないのだわ」
「……それで、いいのではありませんか?」
 ふと、そんな言葉が口を突いて出た。吉備は驚いたように顔を上げる。
「吉備さまはそれでいいのだと、わたくしは思います」
「どういうこと……?」
 すん、と洟を啜り上げる吉備の顔はあまりにも幼く見えて、紫野は自然ほころぶ頬を押さえられなかった。
「太上天皇がおっしゃったように、吉備さまには想う方と結ばれて、お幸せにおなりになる。それが、皆さまのおためになるのですわ」
「どういうこと?」
「吉備さまのお幸せなお姿を見て、皆さまもまた、お幸せになられるのですから」
「……どうして?」
 紫野は、目を細める。
「太上天皇も、帝も阿閇さまも……氷高さまも」
 吉備は、泣き濡れた目をただ紫野に注いでいる。
「政にお忙しい身。天皇家の大きな責務を負う、重圧に耐える毎日を送っておいででしょう。そんな中で、一番お若くていらっしゃる吉備さまには、そのような苦労をなされることなく、幸せになっていただくこと。それが、皆さまの願いであり、そして吉備さまにとっては皆さまの分も、並のお幸せな日々を大切にされることが、誰かの真似をなさることよりも大切なことなのですわ」
「そ、う……?」
 紫野は、力強く首を縦に振った。
「誰ぞにでもお訊きなさいませ。太上天皇の仰せられたのも、そのことなのですわ。吉備さまには、大切なお仕事があるのですよ。政の向きなどよりも、もっと大切な……」
 紫野の言葉につられるように、吉備はうなずいた。濡れた目が脅えた小さな動物のようだ、と思い、そしてそれに、また愛しさをかき立てられた。
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