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第五章
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妖魔の森を抜けて、また森に入って。文秀が初めて華虹に出会ってから、もう一月くらいは経っただろうか。
小高い丘から見下ろせるその村の存在に華虹一行が気がついたのは、たまたま通り道にあったからというに過ぎない。しかし、文秀は喜んだ。
「久しぶりに、米が食べられる! 沈菜
キムチ
が、饅頭が食べられるぞ~!」
何せ今まで森や草原を抜けるばかりの生活で、食べるものは自然に育った木の実に蔬菜、動物の肉に魚。それはそれで贅沢な食卓といえなくもないが、町で生まれ育った文秀としては、沈菜に饅頭といった、手の込んだものが食べたくて仕方がなかったのだ。
「意地の汚いやつだな」
「だって、お前はいいよ。精霊だもん。でも、俺は人間なの。人間の食べるものが食べたいの。村に行ったら、ご馳走してもらえるかもしれないじゃないか!」
「同じ人間でも、華虹さまはそんなことはおっしゃらない」
「華虹さまとは、人間のできが違います。どうせ俺は未熟な術師で、人間としての欲にまみれてますよ~」
「まったく、そのとおりねぇ」
呆れる順興に、息をつく闇青。その横で、華虹が笑っている。
くすくす、という笑い声がどこかから聞こえる。どこだろうと振り返ると、傍らには無窮花の茂みがあった。笑い声は、そこから聞こえてくるのだ。
「無窮花、笑ってないで出てこいよ」
文秀の呼びかけに、その場にふわりと少女が現われた。おさげ髪の少女は、両手で口もとを隠してくすくすと笑っている。
「まったく、こっそり聞いてるなんて趣味が悪い」
「わたしがこっそり聞いてたんじゃないわ。わたしの近くで、大声で話しているのが悪いのよ」
「まったく、無窮花の木なんてどこにでもあるんだからな。秘密の話もできないよ」
「何か、秘密があるのか?」
珍しく、口を挟んできたのは華虹だ。彼女は少し首をかしげ、窺うように文秀を見ている。
「私に言えない、秘密でも?」
「いえいえ、とんでもない。華虹さまに秘密なんてありません!」
慌てた文秀が胸の前で両手を振ると、華虹は少し残念そうな顔をする。
「何だ、つまらない。文秀の秘密が聞けると思ったのに」
「私に秘密なんてないですよ。私のことは全部、華虹さまにはお話ししていますからね」
言いながら、文秀は華虹をちらりと見やる。そして、心の中で語りかける。
(秘密があるのは、あなたのほうですよね)
胸の奥で、文秀はため息をつく。
(でも、その秘密を教えてもらえない。そのうち、私にもわかる? それとも、永遠にわからない謎なんだろうか?)
そんなことを考えると、何だかせつなくなる。華虹には文秀に言わない秘密があって、それは彼女の旅の目的に関するもので――そして、あの男。あの男はいったい何者なのか。華虹の恋人――そう思うと文秀の胸にはずくりと深く突き刺さってくるものがあって、そしてますます、華虹のことが知りたくなる。
「……あ?」
村に近づくにつれ、何かが聞こえてくることに気がついた。聞こえてくる異様な声に、一同は耳を澄ませる。
それは眼下の村のほうから聞こえてきていて、聞いているだけで思わず眉をしかめてしまうような、聞いている者の気持ちを沈ませる――人の泣き声であることに、皆は一様に目を見合わせた。
「なに、この泣き声?」
「ひとりやふたりじゃないわ、たくさんの人が泣いてるみたい」
「男も女も入り交じっているが……女の方が多いようだな」
「……ああ!」
泣き声の正体がわかった文秀は、ぽんと手を打つ。
「葬式だ!」
「葬式……?」
「そうか、泣き女たちか……」
「道理で、たくさんの人たちの泣き声だと思った。あの村で、葬式をしているんだ。だから、こんなに泣き声が……」
順興が、華虹のほうを見る。華虹は頷き、踵を返す。
「えええ、あの村に行かないのですか?」
「葬式の最中なのだろう? しかも、あんなにたくさんの泣き女がいるとなれば、それなりに地位のある者の葬式と見た。巻き込まれたくはない」
「えええ、そんなぁ!」
文秀は子供のように足をじたばたとやり、反対の意を示す。
「行きましょうよ、葬式は葬式、私たちには関係ないのだから、巻き込まれるとかありませんって!」
「お前が村に行きたいのは、食べもののことだろうが」
順興に冷たくそう言われ、文秀はぐっと詰まったが、開き直ったように大きく頷いた。
「ええ、そうですとも。久しぶりに人間らしい食事ができるかもしれない機会を、逃すわけにはいきませんから!」
「そのようなことで、華虹さまをお煩わせするな! 面倒なことになってはどうするんだ」
「面倒なことになんてなりませんって。ちょっと、沈菜や饅頭を手に入れたいだけなんですって!」
「それが面倒のもとだと言っているんだ!」
「うわぁ~ん、沈菜~、饅頭~!」
子供のようにそう繰り返す文秀に、順興は厳しい顔を見せている。しかし華虹は、ひとつため息をついて言った。
「……いいだろう。しかし、すぐに発つからな。面倒ごとはごめんだぞ」
「まぁ、華虹さまったら。文秀に甘いんだから」
「そうよ、華虹さま。こんな男の言うこと、聞くことないわ。人間の葬式なんて面倒なだけ、さっさと行っちゃいましょう?」
「無窮花までそんな、冷たいこと言うんだな……」
さめざめと泣き出した文秀を、皆が呆れた顔で見ている。しかし華虹だけは、苦笑しながら頷いた。
「ほんの少しだ。沈菜と饅頭が手に入ったら、去るぞ」
「はいっ、わかっておりますっ!」
現金にも急に元気になった文秀に、華虹はくすくすと笑っている。文秀はひとり元気に、一行の先頭に立って歩き始めた。
小高い丘を降り、村の入り口にある、土着の神を祭る村の聖域である城隍堂
ソナンダン
に、皆揃って石を積んだ。里程標でもあり村や町の守り神でもある長生(木偏に生)(チャンスン)という木の像に一礼して、村に入る。
村は小さく、山の麓の向こうがここからでも見渡せるほどだ。そして泣き女たちの泣き声は、ますます大きく耳に届いた。
「いったい、誰が亡くなったんでしょうか……?」
これほど大きな泣き声なのだ。村長か、それに準ずる者か。泣き声のほうに歩いていこうとした文秀は、しかし皆が歩いてこないのに足を止めた。
「どうしたん……」
華虹が目を閉じている。彼女の唇は小さく動き、まるで文秀の目には見えない誰かと話しているかのようだ。
彼女は、そっと手を腰にやる。そこにある鈴が、りんと鳴った。普段は鳴らないその鈴が鳴ったことにも驚いたが、その音とともに華虹の目の前に、何か薄い影が――寿衣
スウイ
をまとった女性の姿が見えたことに、文秀は腰を抜かした。
「し、死霊……!」
思わず口を衝いて出た言葉に、華虹以外の一行がじろりと文秀を見た。寿衣は、死者の着る衣だ。その寿衣の女性は、しばらく華虹と対話するような姿を見せていたが、やがてその頬に一筋、涙を伝わらせて、消えた。
「あ、わわわ……」
「ちょっと、文秀」
腰に手を当てて、怒った顔をしているのは闇青だ。死霊を見てしまった恐怖に未だ脅えている文秀は、何ごとかと闇青を見る。
「あなた、仮にも術師でしょう? 死霊に驚くなんて、未熟だわ」
「未熟~、未熟~」
人型のまま、一緒にいる無窮花がからかうような声をあげる。文秀はむっとした顔を無窮花に向けるが、華虹に声をかけられて彼女のほうを向いた。
「お前には、稀薄ながらも術師の気がある。そのことは言ったな」
「は、はい……」
華虹がことさら固い声でそう言うのに、文秀は思わず、教師に叱られる生徒のようにぴしりと背を正してしまう。
「術師は、精霊や妖魔を見ることができる。同様に、死霊をもだ。今まで見たことがなかったのか?」
「ありがたいことに……」
肩をすくめる文秀に、華虹は呆れた声をあげる。
「なら、慣れることだ。私たちと一緒にいることで、お前の術師としての能力は上がっているようだ。こういうことは、今後もあるだろう。先ほどのように驚いて、鎮魂を求めてやってきた死霊を脅かしたりしてやらぬようにな」
「え、さっきの死霊は、鎮魂してほしがっていたのですか?」
ああ、と華虹は頷いた。
「かわいそうに、苦しんで死んだようだ。その恨
ハン
を少しでも晴らしてやることができれば、それに越したことはない」
「そうなんですか……」
自分は、初めて見る死霊の姿にただ脅えていただけだ。そんな自分を、恥じる。
「私も……華虹さまのように、死霊を慰める方法を知っていればいいと思います」
「何だ、その気があるのか?」
華虹は、少し面白そうな顔をして文秀を見た。
「その気があるのなら、私がしごいてやるぞ? 徹底的に、術師としての技を叩き込んでやる。一月もすれば、お前も立派な術師だ」
「いや、それは……」
教師が華虹だというのはなかなかに魅力的ではあるが、しかし『叩き込む』という、その方法がどうにも恐ろしくて、文秀は思わず腰が引けてしまう。
「お前が、華虹さまの教えについていけるわけがなかろう」
つんと顎を逸らせてそう言うのは、順興だ。
「華虹さまのお手をお煩わせするまでもない。私が教えてやる。私が、お前を立派な術師にしてやろう」
「いや、それは……」
華虹以上に、順興に教えてもらうというのは恐ろしい。どれほど厳しく叩き込まれるのかと、想像するだけでぞくりとする。
「結構です……」
「何だ、遠慮することはないのだぞ」
「遠慮なんかしてません……」
にやにやと文秀を見る順興、そんなふたりをくすくす笑いながら見ている華虹、闇青に無窮花。そこに、皆の耳を奪う大きな叫び声が貫いた。
「お前たち――!」
皆がそちらを振り向いた。と、文秀の目の前を黒いものが掠める。
「うわっ!」
何か鋭いものが体をかすった。その痛みに思わず呻くも、黒いものは再び文秀にぶつかってくる。その黒いものは四方八方空を滑降し、華虹も順興も、皆を攻撃して回っているようだ。
「な、なんだこれ!」
しかし、黒いものはひっきりなしに文秀にぶつかってくる。鋭いものが袖から出た腕や裾から出た足をつつき、その痛みに呻くも、攻撃は途切れず文秀は情けない声をあげる。
「わぁぁっ、助けて! 華虹さま、順興、闇青!」
両手で頭を守り、その場にうずくまりながら文秀は叫んだ。
「無窮花!」
声と同時に目の前に、網目のようなものが交差する。それが黒いものの攻撃を阻んだ。やっと攻撃から逃れられて、文秀は恐る恐る顔を上げる。
「ぎゃっ!」
誰のものかわからない声が上がる。見れば無窮花が鋭い枝を矢のように飛ばし、黒いものを攻撃している。叫び声は、黒いものの声のようだ。
「無窮花、おやめ!」
あがった声は、華虹のものだ。文秀を守っていた網はするりとほどけ、目の前、黒いものが地面に落ちた。
「未熟な術師のくせに、守ってくれる眷属を持ってるなんて生意気~」
声は闇青のものだ。それに答えるのは無窮花だ。
「わたしは眷属なんかじゃないわ! 呼ばれたから守ってあげただけよ!」
網目のようなものは、無窮花の枝だ。黒いものに襲われる文秀を、無窮花がその枝で守ってくれたのだ。
「あ、ありがとう……」
礼を言う文秀に、しかし少女の姿の無窮花は、腕を組んでぷいとかたわらを向いてしまう。眷属だと言われたのがそんなに悔しいのかと思うが、しかしその仕草はかわいらしくて、文秀はつい笑ってしまう。
「なに笑ってるのよ!」
「いえ~、別に~」
わざと語尾を伸ばして文秀がそう言うと、無窮花はますます気に入らないといった顔をした。
「それにしても……」
文秀は足もとを見た。華虹がひざまずく。そこにいたのは一羽の燕だ。無窮花に攻撃されて力を失ったのか、羽根を広げて地面に突っ伏している。
「こいつか……?」
華虹が燕を抱きあげる。それでも燕が動かないので、心配になった。
「死んじゃったんですか……?」
何も言わず、華虹はその艶やかな黒い背を撫でる。まわりの者は、皆心配する表情で華虹と燕を見やっている。
華虹の手が何度も撫でるうちに、広げられた燕の翼がぴくりと震えた。見守る者たちは歓声を上げる。
「よかった、生きてた……!」
燕は顔をもたげ、あたりをきょろきょろと見回す。華虹の顔を見ると大きくぶるりと身を震わせて、いきなり翼をはためかせて飛び立った。
「わっ!」
文秀は思わず目の前に腕をやって、身をかばった。腕を離して目の前を見ると、そこにいたのは文秀の半分ほどの背丈の少年だった。
「術師は、この村に入ってくるな!」
少年は、鋭い声で言った。
「出て行け、術師はみんな、出ていけ!」
「あたしたちは、術師じゃなくて精霊だけど。それでも出て行かなくちゃいけないの?」
闇青の口調に、少年は少したじろいだようだ。それでも強い視線はそのままに、強く拳を握って繰り返す。
「術師も、その眷属も、みんな出ていけ! 早く! 早く出ていけ!」
「わたしは眷属じゃないってば!」
無窮花がわめいたが、少年は無窮花の不満を聞いていないようだ。
「おい、坊主」
声をあげたのは文秀だ。文秀は一歩踏み出して少年の前、腰に手を置いた。
「さっきの燕は、お前か」
上から見下ろす文秀の迫力に、少年は少したじろいだようだ。文秀も、人型を取ることのできる精霊の存在にはもう慣れている。確信を持ってそう言うと、少年は頷いた。
「名は」
「飛仙児……」
文秀の迫力に思わず名乗ってしまったらしい飛仙児だが、はっと気がついたように顔を上げた。
「お前も術師か? 術師は出て行けよ! 術師はみんな、出ていけ!」
「どういうことなんだ、そんなに術師を嫌う理由を聞かせてくれてもいいだろう」
「いいから、出て行けよ! みんな出て行け、姉さまに近づくな!」
両手足をじたばたさせながらそう言う飛仙児の前、華虹が膝をついた。全身に漲る敵意を隠しもしない飛仙児は、しかし華虹がそっと顔を寄せてきて手を取って見つめてくるのに、毒気を抜かれたようだ。
「お前の『姉さま』なら、先ほど鎮魂した」
「……え?」
「あそこでやっている葬儀は、お前の『姉さま』のものなのだろう? あの女性は、わたしが鎮魂した。彼女は、無事に天の神
ハナニム
のもとに行った。案ずることはない」
「……そんなこと」
飛仙児は、きゅっと唇を噛んだ。涙を見せないようにとでもいうのか、うつむいてしきりにまばたきを繰り返す様子は、その見かけ通りの幼い少年の仕草だった。
「鎮魂してくれなんて、頼んでない。僕は……僕は、姉さまに」
「生き返ってほしいとでもいうの?」
言ったのは闇青だ。腕を組み、飛仙児を見下ろしている。
「でもお前も精霊なら、反魂の術は人を越えた術師にしか成すことができないこと、わかってるでしょう? 反魂の術は、並の術師には成すことなんかできない秘術なんだから」
「それでも、あいつはできるって言ったんだ!」
飛仙児はわめいた。
「あいつは、姉さまの魂を呼び戻すことができるって言ったんだ! だから僕は、僕の宝物をあいつにやった。姉さまを呼び戻してくれるのなら。……そう思ったのに」
「宝って、なんだ?」
文秀は尋ねた。飛仙児は唇を噛み、視線を落とした。その宝を失った悲しみ、悔しさが改めて湧き上がってきたとでもいうようだ。
「僕の母さまの……魂だ」
「それは……」
華虹の声は、憐れみに満ちていた。手を伸ばし、そっと飛仙児の頭を撫でる。飛仙児は、ますます強く唇を噛んだ。
「燕の魂を使えば、あの世とこの世を行き来することができるというわ。それを狙ったんでしょうね」
そんな、燕の魂の持つ価値以上に、『姉さま』が戻ってこない上に母の魂を失ったという悲しみは、飛仙児をこのうえない悲しみと悔しさに誘っていたようだ。
「誰か、いい加減な術師がこの子を騙したようですね」
呆れた声で、順興が言った。
「反魂の術を使えると言ったのでしょう。でも、それは嘘だった」
「姉さまは、死んでしまった」
飛仙児は、その場にいる者誰もが胸を掴まれずにはいられない、せつない口調でつぶやいた。
「二度と会えない。もう、二度と、姉さまに会えないんだ……!」
「だから、術師を恨んでいるのか?」
なおも優しい口調で、華虹は言う。文秀が、自分にもそのような話し方をしてくれないだろうか、と考えたくらいだ。
飛仙児は頷く。そうか、と華虹はうなずいた。
「お前の姉さまを、蘇らせてやることはできない。しかし、その嘘つきの術師を懲らしめてやることはできるぞ?」
「……どうやって?」
飛仙児の涙が、少し乾いた。華虹は微笑む。文秀も、その話に目を丸くした。
「懲らしめるって、どうするんです?」
「飛仙児。その術師は、どちらに行ったのだ?」
飛仙児は、黙って北の方向を指差した。華虹は頷く。そして無窮花のほうを振り向いた。
「無窮花、手伝ってくれるか」
「いいですけど……どうするんですか?」
「ここではだめだ。どこか、大きな木が必要だな」
立ち上がって華虹は、まわりを見回す。そして一同が入ってきた城隍堂の向こうを見やった。
「あれがいい。行くぞ」
村を出、百年はそこに立っていそうな大きな木の下に、華虹は膝をついた。
「無窮花、飛仙児に触れろ。飛仙児から、その術師の気を感じ取るんだ」
「あ、はい」
文秀に対するときとは対照的に、無窮花は素直に華虹の言うことを聞く。少女は少年の肩に触れ、しばらくして頷いた。
「では、この木の霊力を借りる。無窮花」
無窮花は、今度は木に触れた。華虹は目を閉じ、口の中で小さく呪語を唱えている。
彼女は、ちらりと顔を上げた。華虹が文秀のほうを見たので、何ごとかと身構えてしまう。
「文秀、お前も見るか。こうやって術師の業に触れるのも悪くなかろう」
「あ、はぁ……」
華虹は文秀の手を取った。剣胼胝のできた、白くて冷たい手に包まれてどきりとしたが、不埒な考えも手を通して伝わってしまいそうだったので、懸命によけいなことは考えずに、ただ意識を集中させた。
「……あ」
文秀の頭の中に、ある光景が浮かぶ。白い短衣と脚衣の男が歩いている。年のころは、文秀よりも少し上くらい。彼はしきりに後ろを気にしていて、まるで追われてでもいるようだ。
彼の頭上が、ふいに暗くなる。男は、はっと頭上を見る。男の上にだけ黒雲がかかり、夜のように暗くなる。雲の合間からは稲妻が光り、男はひっと声をあげた。
男は、走って逃げようとする。しかし黒雲も男を追い、稲光が繰り返し光る。男は走って、息が切れるまで走って、しかし黒雲から逃れられないとわかったのか、その場にへたり込んだ。
『私が悪うございました!』
男は叫んだ。
『反魂の術など、摂理に反した術を使おうなど、私が間違っておりました!』
『違うな』
その声は、華虹の声だ。しかし男に、それがわかるはずはない。ただ黒雲の合間から神々しい声がしたとしか、聞こえていないだろう。
『そなたの罪は、できもしないことをできると言って、他者を騙したことだ。反魂の術など使えないのに、使えると言って、幼き者の心を惑わしたことだ』
『うわぁぁぁ――っ!』
男の声は、叫び声になった。稲光が、ますます強い光を帯びて彼の頭上で鳴り響いたからだ。
『偽りを申す者には、罰を。人の心をもてあそぶ者には、戒めを』
男は両手で頭を抱え、ぶるぶる震えている。そんな男の上に、また稲妻がきらめいた。
『以後、そなたは術師としての力を失う』
(え?)
華虹の言葉に、文秀は思わず手をつないだ彼女を見た。
(華虹さまは、ほかの者の術師の力を奪うこともできるのか?)
『忘れるな。私は、いつもお前を見ている。術師ならずとも、再び他者を偽り心を惑わせば、今度はそなたの命を奪うことになろう』
『かしこまりました、かしこまりました!』
男は、震えながら繰り返す。稲妻はしばらく光っていたが、やがて徐々にその勢いを失い、黒雲も晴れていき、地面に伏せて小さくなる男の頭上には、晴れた大空が広がっていた。
文秀は、はっとした。華虹が手を離したからだ。彼女はひとつ息をついて、飛仙児を振り返る。
「見ていただろう。これでよかろう? あの男は術師であるからこそ、あれがただの幻影ではないことをわかっているはずだ。二度と悪さはするまいよ」
「……うん」
飛仙児は、それでもまだ不満なようだ。足もとの石を蹴りながら、しかしこくりと頷いた。
「ねぇ、華虹さま」
目をつぶって見たものの興奮のまま、文秀は尋ねた。
「華虹さまは、ほかの術師の力を奪うことができるのですか?」
「そんなわけないだろう」
華虹は、いともあっさりと言った。
「え……、じゃあ、あの男がまた人を騙したら、命を奪うというのは?」
「はったりだ」
文秀は、思わず一歩後ずさりをした。華虹は、面白そうな顔をして文秀を見ている。
「しかし、あのような目に遭ったのだ。あの男は自分が術師としての力を失ったのだと思い込んでいるし、同じことをすれば死ぬのだと信じている。私が手を下さずとも、あの男が再び道を誤ることがあれば、己の思い込みで術師の力を失い、命を失う」
「そんなもんなんですか……」
はぁ、と息をつく文秀をなおも面白そうな顔で見ながら、華虹は飛仙児に顔を向けた。
「ではな。今後、反魂の術を行なうなどと大口を叩く者には警戒するがいい。反魂の術など、相当に力のある術師でさえ、その力のみではなしえないものなのだから」
華虹の声には、重みがあった。ただ飛仙児に言い聞かせているというだけではない、もっと心の深いところから、自分自身にも言い聞かせているといったようだ。
(どういう意味だろう……?)
文秀は首をひねった。力のみならず、ほかのものも必要だということだろうか。たとえば、神器。神の力を借りるための、道具。
(……まさかな)
思い出したのは、華虹の持っている剣に鈴、鏡のことだ。普段は目につかないようにしまい込んでいるそれらがよもや神器だなどとは思わないが、闇青を倒したときのことを思うと、気になる存在ではある。
(そういえば、華虹さまは何かを持って逃げたって……)
いつも文秀の質問をはぐらかす華虹だ。何が真実で何が文秀をからかっての言葉かはわからないが、そう考え始めると文秀はますます気になって仕方がない。
「華虹さま……」
「華虹さま、僕を連れていってください」
飛仙児は、華虹の前にひざまずいている。華虹は目を丸くして飛仙児を見ていて、順興が彼女を守るように傍らに控えている。
「姉さまがいなくなったあの村に、僕はもう未練はありません。それよりも、恩人の華虹さまにお仕えしたい。僕にできることで、華虹さまにお返しがしたい」
「何を、勝手なことを」
順興は、虎の姿でもないのに今にも唸って威嚇しそうだ。しかし文秀には、この先の展開が見えたような気がする。
「わかった」
華虹は、至極あっさりとそう言った。
「一緒に来るがいい。ただし、自分の身は自分で守れよ」
「こうなるとは思ってたけどね~」
そう言ったのは闇青だ。顎の下に手を置いて、妙に艶めかしく身をくねらせながらため息を着いた。
「華虹さま、お優しいんだから。ま、そこがいいんだけれどね」
「自分で自分の身を守れない誰かさんがご一緒なのは、いいのかしら」
そう言ったのは無窮花だ。ちらり、と視線を送られて、文秀は慌てる。
「俺は、俺だって、自分の身くらい……!」
「守れる? 守れてる?」
「守れてなどいないだろう。それどころか自分では解決のできない、よけいな災難ばかりを連れてくる」
そもそも、文秀がわがままを言わなければこの村に立ち入ることもなく、面倒ごとにもならなかったのだと、順興の機嫌は決してよろしくない。それは華虹に新しい眷属ができたこと、華虹を慕う者が増えたことが気に入らないからだというのは、文秀でなくともわかっただろう。
「では、行くぞ」
華虹は、裳の裾を翻す。順興は虎の姿になり、
「ああ、沈菜に饅頭、糖水肉~、鳥の蒸し煮~、膏飲……」
「うるさいわね、早く行くわよ」
指をくわえたまま、『人間らしい食事』に未練たっぷりな文秀は、闇青に首根っこを掴まれながら、まだ泣き女の声の響く村をあとにした。
小高い丘から見下ろせるその村の存在に華虹一行が気がついたのは、たまたま通り道にあったからというに過ぎない。しかし、文秀は喜んだ。
「久しぶりに、米が食べられる! 沈菜
キムチ
が、饅頭が食べられるぞ~!」
何せ今まで森や草原を抜けるばかりの生活で、食べるものは自然に育った木の実に蔬菜、動物の肉に魚。それはそれで贅沢な食卓といえなくもないが、町で生まれ育った文秀としては、沈菜に饅頭といった、手の込んだものが食べたくて仕方がなかったのだ。
「意地の汚いやつだな」
「だって、お前はいいよ。精霊だもん。でも、俺は人間なの。人間の食べるものが食べたいの。村に行ったら、ご馳走してもらえるかもしれないじゃないか!」
「同じ人間でも、華虹さまはそんなことはおっしゃらない」
「華虹さまとは、人間のできが違います。どうせ俺は未熟な術師で、人間としての欲にまみれてますよ~」
「まったく、そのとおりねぇ」
呆れる順興に、息をつく闇青。その横で、華虹が笑っている。
くすくす、という笑い声がどこかから聞こえる。どこだろうと振り返ると、傍らには無窮花の茂みがあった。笑い声は、そこから聞こえてくるのだ。
「無窮花、笑ってないで出てこいよ」
文秀の呼びかけに、その場にふわりと少女が現われた。おさげ髪の少女は、両手で口もとを隠してくすくすと笑っている。
「まったく、こっそり聞いてるなんて趣味が悪い」
「わたしがこっそり聞いてたんじゃないわ。わたしの近くで、大声で話しているのが悪いのよ」
「まったく、無窮花の木なんてどこにでもあるんだからな。秘密の話もできないよ」
「何か、秘密があるのか?」
珍しく、口を挟んできたのは華虹だ。彼女は少し首をかしげ、窺うように文秀を見ている。
「私に言えない、秘密でも?」
「いえいえ、とんでもない。華虹さまに秘密なんてありません!」
慌てた文秀が胸の前で両手を振ると、華虹は少し残念そうな顔をする。
「何だ、つまらない。文秀の秘密が聞けると思ったのに」
「私に秘密なんてないですよ。私のことは全部、華虹さまにはお話ししていますからね」
言いながら、文秀は華虹をちらりと見やる。そして、心の中で語りかける。
(秘密があるのは、あなたのほうですよね)
胸の奥で、文秀はため息をつく。
(でも、その秘密を教えてもらえない。そのうち、私にもわかる? それとも、永遠にわからない謎なんだろうか?)
そんなことを考えると、何だかせつなくなる。華虹には文秀に言わない秘密があって、それは彼女の旅の目的に関するもので――そして、あの男。あの男はいったい何者なのか。華虹の恋人――そう思うと文秀の胸にはずくりと深く突き刺さってくるものがあって、そしてますます、華虹のことが知りたくなる。
「……あ?」
村に近づくにつれ、何かが聞こえてくることに気がついた。聞こえてくる異様な声に、一同は耳を澄ませる。
それは眼下の村のほうから聞こえてきていて、聞いているだけで思わず眉をしかめてしまうような、聞いている者の気持ちを沈ませる――人の泣き声であることに、皆は一様に目を見合わせた。
「なに、この泣き声?」
「ひとりやふたりじゃないわ、たくさんの人が泣いてるみたい」
「男も女も入り交じっているが……女の方が多いようだな」
「……ああ!」
泣き声の正体がわかった文秀は、ぽんと手を打つ。
「葬式だ!」
「葬式……?」
「そうか、泣き女たちか……」
「道理で、たくさんの人たちの泣き声だと思った。あの村で、葬式をしているんだ。だから、こんなに泣き声が……」
順興が、華虹のほうを見る。華虹は頷き、踵を返す。
「えええ、あの村に行かないのですか?」
「葬式の最中なのだろう? しかも、あんなにたくさんの泣き女がいるとなれば、それなりに地位のある者の葬式と見た。巻き込まれたくはない」
「えええ、そんなぁ!」
文秀は子供のように足をじたばたとやり、反対の意を示す。
「行きましょうよ、葬式は葬式、私たちには関係ないのだから、巻き込まれるとかありませんって!」
「お前が村に行きたいのは、食べもののことだろうが」
順興に冷たくそう言われ、文秀はぐっと詰まったが、開き直ったように大きく頷いた。
「ええ、そうですとも。久しぶりに人間らしい食事ができるかもしれない機会を、逃すわけにはいきませんから!」
「そのようなことで、華虹さまをお煩わせするな! 面倒なことになってはどうするんだ」
「面倒なことになんてなりませんって。ちょっと、沈菜や饅頭を手に入れたいだけなんですって!」
「それが面倒のもとだと言っているんだ!」
「うわぁ~ん、沈菜~、饅頭~!」
子供のようにそう繰り返す文秀に、順興は厳しい顔を見せている。しかし華虹は、ひとつため息をついて言った。
「……いいだろう。しかし、すぐに発つからな。面倒ごとはごめんだぞ」
「まぁ、華虹さまったら。文秀に甘いんだから」
「そうよ、華虹さま。こんな男の言うこと、聞くことないわ。人間の葬式なんて面倒なだけ、さっさと行っちゃいましょう?」
「無窮花までそんな、冷たいこと言うんだな……」
さめざめと泣き出した文秀を、皆が呆れた顔で見ている。しかし華虹だけは、苦笑しながら頷いた。
「ほんの少しだ。沈菜と饅頭が手に入ったら、去るぞ」
「はいっ、わかっておりますっ!」
現金にも急に元気になった文秀に、華虹はくすくすと笑っている。文秀はひとり元気に、一行の先頭に立って歩き始めた。
小高い丘を降り、村の入り口にある、土着の神を祭る村の聖域である城隍堂
ソナンダン
に、皆揃って石を積んだ。里程標でもあり村や町の守り神でもある長生(木偏に生)(チャンスン)という木の像に一礼して、村に入る。
村は小さく、山の麓の向こうがここからでも見渡せるほどだ。そして泣き女たちの泣き声は、ますます大きく耳に届いた。
「いったい、誰が亡くなったんでしょうか……?」
これほど大きな泣き声なのだ。村長か、それに準ずる者か。泣き声のほうに歩いていこうとした文秀は、しかし皆が歩いてこないのに足を止めた。
「どうしたん……」
華虹が目を閉じている。彼女の唇は小さく動き、まるで文秀の目には見えない誰かと話しているかのようだ。
彼女は、そっと手を腰にやる。そこにある鈴が、りんと鳴った。普段は鳴らないその鈴が鳴ったことにも驚いたが、その音とともに華虹の目の前に、何か薄い影が――寿衣
スウイ
をまとった女性の姿が見えたことに、文秀は腰を抜かした。
「し、死霊……!」
思わず口を衝いて出た言葉に、華虹以外の一行がじろりと文秀を見た。寿衣は、死者の着る衣だ。その寿衣の女性は、しばらく華虹と対話するような姿を見せていたが、やがてその頬に一筋、涙を伝わらせて、消えた。
「あ、わわわ……」
「ちょっと、文秀」
腰に手を当てて、怒った顔をしているのは闇青だ。死霊を見てしまった恐怖に未だ脅えている文秀は、何ごとかと闇青を見る。
「あなた、仮にも術師でしょう? 死霊に驚くなんて、未熟だわ」
「未熟~、未熟~」
人型のまま、一緒にいる無窮花がからかうような声をあげる。文秀はむっとした顔を無窮花に向けるが、華虹に声をかけられて彼女のほうを向いた。
「お前には、稀薄ながらも術師の気がある。そのことは言ったな」
「は、はい……」
華虹がことさら固い声でそう言うのに、文秀は思わず、教師に叱られる生徒のようにぴしりと背を正してしまう。
「術師は、精霊や妖魔を見ることができる。同様に、死霊をもだ。今まで見たことがなかったのか?」
「ありがたいことに……」
肩をすくめる文秀に、華虹は呆れた声をあげる。
「なら、慣れることだ。私たちと一緒にいることで、お前の術師としての能力は上がっているようだ。こういうことは、今後もあるだろう。先ほどのように驚いて、鎮魂を求めてやってきた死霊を脅かしたりしてやらぬようにな」
「え、さっきの死霊は、鎮魂してほしがっていたのですか?」
ああ、と華虹は頷いた。
「かわいそうに、苦しんで死んだようだ。その恨
ハン
を少しでも晴らしてやることができれば、それに越したことはない」
「そうなんですか……」
自分は、初めて見る死霊の姿にただ脅えていただけだ。そんな自分を、恥じる。
「私も……華虹さまのように、死霊を慰める方法を知っていればいいと思います」
「何だ、その気があるのか?」
華虹は、少し面白そうな顔をして文秀を見た。
「その気があるのなら、私がしごいてやるぞ? 徹底的に、術師としての技を叩き込んでやる。一月もすれば、お前も立派な術師だ」
「いや、それは……」
教師が華虹だというのはなかなかに魅力的ではあるが、しかし『叩き込む』という、その方法がどうにも恐ろしくて、文秀は思わず腰が引けてしまう。
「お前が、華虹さまの教えについていけるわけがなかろう」
つんと顎を逸らせてそう言うのは、順興だ。
「華虹さまのお手をお煩わせするまでもない。私が教えてやる。私が、お前を立派な術師にしてやろう」
「いや、それは……」
華虹以上に、順興に教えてもらうというのは恐ろしい。どれほど厳しく叩き込まれるのかと、想像するだけでぞくりとする。
「結構です……」
「何だ、遠慮することはないのだぞ」
「遠慮なんかしてません……」
にやにやと文秀を見る順興、そんなふたりをくすくす笑いながら見ている華虹、闇青に無窮花。そこに、皆の耳を奪う大きな叫び声が貫いた。
「お前たち――!」
皆がそちらを振り向いた。と、文秀の目の前を黒いものが掠める。
「うわっ!」
何か鋭いものが体をかすった。その痛みに思わず呻くも、黒いものは再び文秀にぶつかってくる。その黒いものは四方八方空を滑降し、華虹も順興も、皆を攻撃して回っているようだ。
「な、なんだこれ!」
しかし、黒いものはひっきりなしに文秀にぶつかってくる。鋭いものが袖から出た腕や裾から出た足をつつき、その痛みに呻くも、攻撃は途切れず文秀は情けない声をあげる。
「わぁぁっ、助けて! 華虹さま、順興、闇青!」
両手で頭を守り、その場にうずくまりながら文秀は叫んだ。
「無窮花!」
声と同時に目の前に、網目のようなものが交差する。それが黒いものの攻撃を阻んだ。やっと攻撃から逃れられて、文秀は恐る恐る顔を上げる。
「ぎゃっ!」
誰のものかわからない声が上がる。見れば無窮花が鋭い枝を矢のように飛ばし、黒いものを攻撃している。叫び声は、黒いものの声のようだ。
「無窮花、おやめ!」
あがった声は、華虹のものだ。文秀を守っていた網はするりとほどけ、目の前、黒いものが地面に落ちた。
「未熟な術師のくせに、守ってくれる眷属を持ってるなんて生意気~」
声は闇青のものだ。それに答えるのは無窮花だ。
「わたしは眷属なんかじゃないわ! 呼ばれたから守ってあげただけよ!」
網目のようなものは、無窮花の枝だ。黒いものに襲われる文秀を、無窮花がその枝で守ってくれたのだ。
「あ、ありがとう……」
礼を言う文秀に、しかし少女の姿の無窮花は、腕を組んでぷいとかたわらを向いてしまう。眷属だと言われたのがそんなに悔しいのかと思うが、しかしその仕草はかわいらしくて、文秀はつい笑ってしまう。
「なに笑ってるのよ!」
「いえ~、別に~」
わざと語尾を伸ばして文秀がそう言うと、無窮花はますます気に入らないといった顔をした。
「それにしても……」
文秀は足もとを見た。華虹がひざまずく。そこにいたのは一羽の燕だ。無窮花に攻撃されて力を失ったのか、羽根を広げて地面に突っ伏している。
「こいつか……?」
華虹が燕を抱きあげる。それでも燕が動かないので、心配になった。
「死んじゃったんですか……?」
何も言わず、華虹はその艶やかな黒い背を撫でる。まわりの者は、皆心配する表情で華虹と燕を見やっている。
華虹の手が何度も撫でるうちに、広げられた燕の翼がぴくりと震えた。見守る者たちは歓声を上げる。
「よかった、生きてた……!」
燕は顔をもたげ、あたりをきょろきょろと見回す。華虹の顔を見ると大きくぶるりと身を震わせて、いきなり翼をはためかせて飛び立った。
「わっ!」
文秀は思わず目の前に腕をやって、身をかばった。腕を離して目の前を見ると、そこにいたのは文秀の半分ほどの背丈の少年だった。
「術師は、この村に入ってくるな!」
少年は、鋭い声で言った。
「出て行け、術師はみんな、出ていけ!」
「あたしたちは、術師じゃなくて精霊だけど。それでも出て行かなくちゃいけないの?」
闇青の口調に、少年は少したじろいだようだ。それでも強い視線はそのままに、強く拳を握って繰り返す。
「術師も、その眷属も、みんな出ていけ! 早く! 早く出ていけ!」
「わたしは眷属じゃないってば!」
無窮花がわめいたが、少年は無窮花の不満を聞いていないようだ。
「おい、坊主」
声をあげたのは文秀だ。文秀は一歩踏み出して少年の前、腰に手を置いた。
「さっきの燕は、お前か」
上から見下ろす文秀の迫力に、少年は少したじろいだようだ。文秀も、人型を取ることのできる精霊の存在にはもう慣れている。確信を持ってそう言うと、少年は頷いた。
「名は」
「飛仙児……」
文秀の迫力に思わず名乗ってしまったらしい飛仙児だが、はっと気がついたように顔を上げた。
「お前も術師か? 術師は出て行けよ! 術師はみんな、出ていけ!」
「どういうことなんだ、そんなに術師を嫌う理由を聞かせてくれてもいいだろう」
「いいから、出て行けよ! みんな出て行け、姉さまに近づくな!」
両手足をじたばたさせながらそう言う飛仙児の前、華虹が膝をついた。全身に漲る敵意を隠しもしない飛仙児は、しかし華虹がそっと顔を寄せてきて手を取って見つめてくるのに、毒気を抜かれたようだ。
「お前の『姉さま』なら、先ほど鎮魂した」
「……え?」
「あそこでやっている葬儀は、お前の『姉さま』のものなのだろう? あの女性は、わたしが鎮魂した。彼女は、無事に天の神
ハナニム
のもとに行った。案ずることはない」
「……そんなこと」
飛仙児は、きゅっと唇を噛んだ。涙を見せないようにとでもいうのか、うつむいてしきりにまばたきを繰り返す様子は、その見かけ通りの幼い少年の仕草だった。
「鎮魂してくれなんて、頼んでない。僕は……僕は、姉さまに」
「生き返ってほしいとでもいうの?」
言ったのは闇青だ。腕を組み、飛仙児を見下ろしている。
「でもお前も精霊なら、反魂の術は人を越えた術師にしか成すことができないこと、わかってるでしょう? 反魂の術は、並の術師には成すことなんかできない秘術なんだから」
「それでも、あいつはできるって言ったんだ!」
飛仙児はわめいた。
「あいつは、姉さまの魂を呼び戻すことができるって言ったんだ! だから僕は、僕の宝物をあいつにやった。姉さまを呼び戻してくれるのなら。……そう思ったのに」
「宝って、なんだ?」
文秀は尋ねた。飛仙児は唇を噛み、視線を落とした。その宝を失った悲しみ、悔しさが改めて湧き上がってきたとでもいうようだ。
「僕の母さまの……魂だ」
「それは……」
華虹の声は、憐れみに満ちていた。手を伸ばし、そっと飛仙児の頭を撫でる。飛仙児は、ますます強く唇を噛んだ。
「燕の魂を使えば、あの世とこの世を行き来することができるというわ。それを狙ったんでしょうね」
そんな、燕の魂の持つ価値以上に、『姉さま』が戻ってこない上に母の魂を失ったという悲しみは、飛仙児をこのうえない悲しみと悔しさに誘っていたようだ。
「誰か、いい加減な術師がこの子を騙したようですね」
呆れた声で、順興が言った。
「反魂の術を使えると言ったのでしょう。でも、それは嘘だった」
「姉さまは、死んでしまった」
飛仙児は、その場にいる者誰もが胸を掴まれずにはいられない、せつない口調でつぶやいた。
「二度と会えない。もう、二度と、姉さまに会えないんだ……!」
「だから、術師を恨んでいるのか?」
なおも優しい口調で、華虹は言う。文秀が、自分にもそのような話し方をしてくれないだろうか、と考えたくらいだ。
飛仙児は頷く。そうか、と華虹はうなずいた。
「お前の姉さまを、蘇らせてやることはできない。しかし、その嘘つきの術師を懲らしめてやることはできるぞ?」
「……どうやって?」
飛仙児の涙が、少し乾いた。華虹は微笑む。文秀も、その話に目を丸くした。
「懲らしめるって、どうするんです?」
「飛仙児。その術師は、どちらに行ったのだ?」
飛仙児は、黙って北の方向を指差した。華虹は頷く。そして無窮花のほうを振り向いた。
「無窮花、手伝ってくれるか」
「いいですけど……どうするんですか?」
「ここではだめだ。どこか、大きな木が必要だな」
立ち上がって華虹は、まわりを見回す。そして一同が入ってきた城隍堂の向こうを見やった。
「あれがいい。行くぞ」
村を出、百年はそこに立っていそうな大きな木の下に、華虹は膝をついた。
「無窮花、飛仙児に触れろ。飛仙児から、その術師の気を感じ取るんだ」
「あ、はい」
文秀に対するときとは対照的に、無窮花は素直に華虹の言うことを聞く。少女は少年の肩に触れ、しばらくして頷いた。
「では、この木の霊力を借りる。無窮花」
無窮花は、今度は木に触れた。華虹は目を閉じ、口の中で小さく呪語を唱えている。
彼女は、ちらりと顔を上げた。華虹が文秀のほうを見たので、何ごとかと身構えてしまう。
「文秀、お前も見るか。こうやって術師の業に触れるのも悪くなかろう」
「あ、はぁ……」
華虹は文秀の手を取った。剣胼胝のできた、白くて冷たい手に包まれてどきりとしたが、不埒な考えも手を通して伝わってしまいそうだったので、懸命によけいなことは考えずに、ただ意識を集中させた。
「……あ」
文秀の頭の中に、ある光景が浮かぶ。白い短衣と脚衣の男が歩いている。年のころは、文秀よりも少し上くらい。彼はしきりに後ろを気にしていて、まるで追われてでもいるようだ。
彼の頭上が、ふいに暗くなる。男は、はっと頭上を見る。男の上にだけ黒雲がかかり、夜のように暗くなる。雲の合間からは稲妻が光り、男はひっと声をあげた。
男は、走って逃げようとする。しかし黒雲も男を追い、稲光が繰り返し光る。男は走って、息が切れるまで走って、しかし黒雲から逃れられないとわかったのか、その場にへたり込んだ。
『私が悪うございました!』
男は叫んだ。
『反魂の術など、摂理に反した術を使おうなど、私が間違っておりました!』
『違うな』
その声は、華虹の声だ。しかし男に、それがわかるはずはない。ただ黒雲の合間から神々しい声がしたとしか、聞こえていないだろう。
『そなたの罪は、できもしないことをできると言って、他者を騙したことだ。反魂の術など使えないのに、使えると言って、幼き者の心を惑わしたことだ』
『うわぁぁぁ――っ!』
男の声は、叫び声になった。稲光が、ますます強い光を帯びて彼の頭上で鳴り響いたからだ。
『偽りを申す者には、罰を。人の心をもてあそぶ者には、戒めを』
男は両手で頭を抱え、ぶるぶる震えている。そんな男の上に、また稲妻がきらめいた。
『以後、そなたは術師としての力を失う』
(え?)
華虹の言葉に、文秀は思わず手をつないだ彼女を見た。
(華虹さまは、ほかの者の術師の力を奪うこともできるのか?)
『忘れるな。私は、いつもお前を見ている。術師ならずとも、再び他者を偽り心を惑わせば、今度はそなたの命を奪うことになろう』
『かしこまりました、かしこまりました!』
男は、震えながら繰り返す。稲妻はしばらく光っていたが、やがて徐々にその勢いを失い、黒雲も晴れていき、地面に伏せて小さくなる男の頭上には、晴れた大空が広がっていた。
文秀は、はっとした。華虹が手を離したからだ。彼女はひとつ息をついて、飛仙児を振り返る。
「見ていただろう。これでよかろう? あの男は術師であるからこそ、あれがただの幻影ではないことをわかっているはずだ。二度と悪さはするまいよ」
「……うん」
飛仙児は、それでもまだ不満なようだ。足もとの石を蹴りながら、しかしこくりと頷いた。
「ねぇ、華虹さま」
目をつぶって見たものの興奮のまま、文秀は尋ねた。
「華虹さまは、ほかの術師の力を奪うことができるのですか?」
「そんなわけないだろう」
華虹は、いともあっさりと言った。
「え……、じゃあ、あの男がまた人を騙したら、命を奪うというのは?」
「はったりだ」
文秀は、思わず一歩後ずさりをした。華虹は、面白そうな顔をして文秀を見ている。
「しかし、あのような目に遭ったのだ。あの男は自分が術師としての力を失ったのだと思い込んでいるし、同じことをすれば死ぬのだと信じている。私が手を下さずとも、あの男が再び道を誤ることがあれば、己の思い込みで術師の力を失い、命を失う」
「そんなもんなんですか……」
はぁ、と息をつく文秀をなおも面白そうな顔で見ながら、華虹は飛仙児に顔を向けた。
「ではな。今後、反魂の術を行なうなどと大口を叩く者には警戒するがいい。反魂の術など、相当に力のある術師でさえ、その力のみではなしえないものなのだから」
華虹の声には、重みがあった。ただ飛仙児に言い聞かせているというだけではない、もっと心の深いところから、自分自身にも言い聞かせているといったようだ。
(どういう意味だろう……?)
文秀は首をひねった。力のみならず、ほかのものも必要だということだろうか。たとえば、神器。神の力を借りるための、道具。
(……まさかな)
思い出したのは、華虹の持っている剣に鈴、鏡のことだ。普段は目につかないようにしまい込んでいるそれらがよもや神器だなどとは思わないが、闇青を倒したときのことを思うと、気になる存在ではある。
(そういえば、華虹さまは何かを持って逃げたって……)
いつも文秀の質問をはぐらかす華虹だ。何が真実で何が文秀をからかっての言葉かはわからないが、そう考え始めると文秀はますます気になって仕方がない。
「華虹さま……」
「華虹さま、僕を連れていってください」
飛仙児は、華虹の前にひざまずいている。華虹は目を丸くして飛仙児を見ていて、順興が彼女を守るように傍らに控えている。
「姉さまがいなくなったあの村に、僕はもう未練はありません。それよりも、恩人の華虹さまにお仕えしたい。僕にできることで、華虹さまにお返しがしたい」
「何を、勝手なことを」
順興は、虎の姿でもないのに今にも唸って威嚇しそうだ。しかし文秀には、この先の展開が見えたような気がする。
「わかった」
華虹は、至極あっさりとそう言った。
「一緒に来るがいい。ただし、自分の身は自分で守れよ」
「こうなるとは思ってたけどね~」
そう言ったのは闇青だ。顎の下に手を置いて、妙に艶めかしく身をくねらせながらため息を着いた。
「華虹さま、お優しいんだから。ま、そこがいいんだけれどね」
「自分で自分の身を守れない誰かさんがご一緒なのは、いいのかしら」
そう言ったのは無窮花だ。ちらり、と視線を送られて、文秀は慌てる。
「俺は、俺だって、自分の身くらい……!」
「守れる? 守れてる?」
「守れてなどいないだろう。それどころか自分では解決のできない、よけいな災難ばかりを連れてくる」
そもそも、文秀がわがままを言わなければこの村に立ち入ることもなく、面倒ごとにもならなかったのだと、順興の機嫌は決してよろしくない。それは華虹に新しい眷属ができたこと、華虹を慕う者が増えたことが気に入らないからだというのは、文秀でなくともわかっただろう。
「では、行くぞ」
華虹は、裳の裾を翻す。順興は虎の姿になり、
「ああ、沈菜に饅頭、糖水肉~、鳥の蒸し煮~、膏飲……」
「うるさいわね、早く行くわよ」
指をくわえたまま、『人間らしい食事』に未練たっぷりな文秀は、闇青に首根っこを掴まれながら、まだ泣き女の声の響く村をあとにした。
0
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