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日向頼子・九

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 その日、訪問者があるとそっと女中に告げられた。自分に訪問者などまったくもって珍しい。しかも訪問者は勝手口で待っているという。
「奥様にお目にかかりたいと。若い、男の方が」
 取り次いだのは件の、頼子に同情的な若い女中だ。彼女だからこそこうやってそっと頼子に取り次いでくれたのだろう。訪問者次第では、頼子はまた困った立場に追いつめられることになるからだ。
「なんという方?」
「お名前はおっしゃいません。ただ、お目にかかれば奥様はおわかりになると……」
 女中は困惑している。頼子の足は前に進もうとはしなかった。訪問者が頼子を喜ばせる人物であるという可能性はひとかけらもなかった。
 それでいながら、頼子には諦めの意識があった。それが誰であっても、頼子がこれ以上の窮地に立たされるようなことはないだろう。珍しく祐馬が帰宅している日だったが、彼はどこかに出かけていて不在にしている。
 もうどうなってもいいと思う気持ちに煽られるまま、頼子はそっと廊下を抜け、裏口に向かった。食事時を外れている厨房には誰もいなかった。ともすれば先導する女中が気を利かせて誰も立ち入らないようにしておいたのかも知れない。
 勝手口にいたのは醜い男だった。顔が半分歪んでいる。その顔にじっと見つめられて、頼子はたじろいだ。
訪問者の顔は後天的に歪んだものだろうと思われた。頬の皮膚が引きつれて顔の左右がまったく違う印象だったからだ。そのような者が突然目の前に現れて頼子は驚愕したが、それでいながらその顔にはどこか見覚えがあると思った。頼子は大きく息を呑んだ。
「……千種?」
「お久しぶりでございます、お嬢様」
 声もかすれて聞き取りにくい。しかしその故郷の訛りを少しだけ残した話し方は、間違いなく千種だ。頼子は後じさった。それを追いかけるように、千種は勝手口の上がり框に膝を突いた。
「私の後悔を、知っていただきたいと思って……」
「今さら何をしに来たというの。わたくしをこれ以上かき乱すのは、やめて」
「お嬢様」
 そのように呼ばれるのはあまりにも久しぶりだ。その呼びかけに、まだ家にいたころ、憲一郎に『姫さん』と呼ばれていたころを思い出す。そして千種は、歪んでしまった顔にあのころと同じ情熱をたたえて頼子を見つめた。頼子は視線を逸らせる。千種の、悲痛な声が耳に届いた。
「お嬢様……お辛い目に合われておいでなのですね」
 千種はその場に頭を伏せた。両手の拳は握られていて、頼子の足もとに土下座の形でうずくまる千種を、頼子はこれ以上はない困惑で見つめていた。
「何もかも、私の咎です。私が、お嬢様に……!」
「やめてちょうだい!」
 頼子は叫んだ。両手で頭を抱えた。
「お前の咎だという心があるのなら、今すぐ帰っておくれ。わたくしを困らせないで……」
 千種は顔を上げた。歪んだ顔にも、千種の目は昔のままだ。そもそも頼子を今のような状況に追い込んだ張本人を目の前に、その目に懐かしさを喚起されるなど愚かなことだ。そうは思いながらも、その場を走り去ることも出来るのに頼子にはそうしなかった。
 頼子を追いかけるような目をしながら、畳みかけるように千種は言った。
「旦那様に暇を出されてから、いろいろなところを転々として参りましたが、田舎に戻ることになりました。その前に、お嬢様にもう一度お目にかかれたら、と思って……」
 千種の手が伸びた。頼子の手首を掴む。どきりと胸が跳ねた。しかし、ふりほどいて逃げようとはしない頼子を千種は知っているというのか。
「私と、一緒に参りませんか」
 千種の言葉は、あまりにも馬鹿馬鹿しいものだ。そのようなことを出来るわけはない。しかし、それに心動いた自分に頼子は気がついていた。千種の誘いに心が動いたのは、この孤独の家を出られるというわずかな希望への光明だったからだ。そのようなことを思いついた自分を愚かしいと心のうちで罵りながらも、しかし千種の手をふりほどくことは出来なかった。
「私は自分の過ちゆえにこのような姿になり、世の中に疎んじられて参りました。しかし、それもお嬢様のゆえ……そんなお嬢様に私がお役に立てるのならなんでもいたします。罪をあがなう……いいえ」
 千種は大きく首を振った。そして、ますます真摯な目を頼子に向ける。頼子は、ごくりと息を呑んだ。
「いいえ。……お嬢様に、何かひとつでもお返しできるものがあるのならば」
「やめて!」
 頼子は暴れた。自分の心が恐ろしかったからだ。少し気を抜けば、このまま千種の手に引っ張って行かれてしまいそうだと思った。あの事件のおりに折檻されて歪んでしまったのであろう顔も、しばらく見れば恐ろしいものではなくなっていた。頼子の現在の状況を知っているかのように現れ、頼子の心を揺り動かす言葉を投げかけてくる千種から目が離せない。頼子はごくりと固唾を呑んだ。
「……お嬢、様」
 千種の手を振り払えない。そんな自分の弱さを嘲罵する頼子の耳に、女中の声が飛び込んできた。
「奥様……! 旦那様が、こちらに……」
 女中がそれ以上を言う前に、背後から祐馬の姿が現れた。頼子は思わず鋭く声を上げた。
「祐馬さま……!」
 戻るなどとは聞いていなかった。突然現れた祐馬は千種を見ている。千種は勢いよく深く頭を下げたが、祐馬は表情さえも変えなかった。こわばった顔だ。そのまま祐馬は踵を返してしまう。その後ろ姿を呆然と見送る頼子に、低い千種の声が聞こえた。
「お嬢様」
「やめて、もう……やめて!」
 その場にうずくまった。千種が悪いのではない。彼をすぐに追い返せばよかった、それ以前にも、客が来ていると聞かされたときに心動いたのは自分だ。こっそり厨房の裏口にやってくる客が真っ当な客のはずはない。それなのになぜ足を向けたのか。何かまずいことが起こるという予感はしていたのに、それなのに頼子はここまでやってきた。困ったことになるとわかっていながら誰もいない厨房に足を向けたのは、頼子自身の意志だ。いったんは襲った開き直りの気持ちも、祐馬を前にしては後悔を呼ぶものとしかならなかった。
 心弱さに誘惑を振り切れない自分の愚かしさを、頼子は繰り返し嘲り、呪った。
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