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24. 厄災
しおりを挟む「水仙の間は、水仙の間……ね」
特室ではなかった。
(離れって聞いて勘違いしちゃった。……当然かあ、流石に三十人の団体さん用の部屋ではないものね)
約束は十九時だったが、憧れの部屋だと勘違いして少し早くに来てしまった。
まあ、食事も早々に済ませてしまったし、時間まで散策でもしていればいいかと歩を進める。
地図で確認した限りでは、確かに研修用なのだろう。離れにある個室は、大人数で騒いでも他の客に影響は無さそうだ。
敷石の上を、からころと下駄を突っ掛けて、離れに導く灯りに沿って歩いていく。
墨で塗ったような夜空に星空が散って、紅葉と山茶花の垣根に風情を感じ、ほっと息を吐いた。
(昼もいいけど、夜も素敵だなあ。あー、いいなあ。絶対、暫くしてからお客として来ようっと)
藤本の話は愚痴かもしれない。楽しい時間にはならないだろうけれど、今は静かな旅館の一夜を満喫しよう。
ふんふん鼻歌でも歌い出しそうな気分の中、史織の耳が誰かの声を拾った。
「──本当に来るのかな?」
「……来るって、俺の事が好きだって美那が言ってたんだから」
「こんなところに、のこのこと~?」
「だからいいんだろ、絶対黙っててくれるよ」
聞き覚えのある声に気付いたのと、複数いると思われる男性の不穏な会話に、息を飲んだのはほぼ同時だった。
「来るって事はOKって事だろ、それにさ……」
(……藤本君?)
史織はぎくしゃくと身を屈め、声のする方を探った。
「何か家が大変みたいだし、慰めてあれげれば喜ぶだろ。気晴らししたいって誘いに乗ったんだから、向こうも分かってるさ」
「ふーん、苦労してる子なんだ。助けを求める相手がいないなんて、可哀想だよな~」
「だから俺らが助けてあげるんだろ」
「元が箱入りだからチョロいんだよ。大学の時俺に好意があるって聞いてたけど、家が金持ちって聞いてたからさ。手出せなかったんだよなあ……でも今はその家を追い出されたみたいだし。何の障害も無くなって万々歳だな」
(え、何なのこれ……)
史織の頭は混乱を極めた。
藤本が史織の今の状況を変な風に捉えるのも気になるし、それに……
(……知ってたんだ)
史織の好意を。
知っててそんな風に思っていた彼に、今更ながら傷ついている自分がいる。
どうなりたいと思っていた訳でもないけれど。こんな風に思われて平然といられる程、強い心をもっていない……
ああそれよりこんな人だったのかと頭を抱える。学生時代の彼は好青年で、誰にでも優しくて公平で。だから……
「そういえば美那ちゃんだっけ? お前に執着してた彼女。お前の周りの女をいちいち牽制してた、こえー女。もう別れたのか?」
その言葉に藤本は軽く息を吐いた。
「まあね、俺に合わせて都合よく働いてくれたから側に置いてたんだけど。流石にウザくなってきて、あいつの妹嵌めてから会ってないよ。まあ、あいつも加担したようなもんだし。今はお互い平和に過ごせるんだから良い関係ってやつだよ」
はははと起きる笑いに目を回しそうになる。
「悪い奴だな~」
「俺、美那ちゃん好きだったけどな」
「たまに付き合ってくれたからだろ」
「なあ、それより──どんな子なんだ? これから来る子は」
「お堅い優等生? 面白味の無い女だけど、そこそこ美人だよ」
「身体も硬いんじゃないか?」
「好きなだけほぐしてやればいいだろ、写真見たら俺は結構好みだったけどなあ。俺が一番最初でもいいか?」
「はは、一番は俺じゃないと可哀想だろ」
遠慮なく続く侮蔑の言葉を、もう聞いていたくない。耳を塞ぎたい。
得意気に饒舌に……品の無い、最低な笑いを交えながら。史織を語るのは、本当に学生時代に憧れていた、あの同級生だろうか。
いや、そんな事より……それどころじゃない。
話に夢中になっている彼らは、史織が近くにいると気付いていない。
逃げなければ。
両手で口をしっかりと覆い、がたがたと震え出す身体に、屈んだ状態の足がつんのめりそうになる。
(──だめ!)
物音一つ立ててはいけない。
必死に足を踏ん張っていると、話に飽きて来たのか、じゃあと仕切り直すような声が聞こえて来た。
「もう中に入ってろよ。こんなところ見られたら馬鹿でも分かるだろ」
「そうだな、逃げられたら大変だ~」
「いや、案外寂しかったからって喜ぶかもよ?」
にやついた声を交えながら人の動く気配に耳を澄ませ、史織はそっと口から手を離した。
(は、早く逃げなきゃ……)
信じられないという思いより、今耳にした危機を回避するのが先決だ。震える身体を強張らせ、下駄に意識を向ける。彼らの話が止んだ今、下駄が何かにぶつかれば気付かれてしまう。
そろそろと下駄を脱ぎ、素足で逃げる算段をつける。藤本以外は離れに入ったようだがら、このまま身体を屈めて少しずつ移動すれば、気付かれずに部屋に戻れる。
その後の事は……その時考えよう。
やっとの思いで下駄を音なく脱いで、進行方向に向き直れば、誰かの靴が見えた。
口を開いて、けれど声を出してはいけないのだと、喉の奥に押し込めた悲鳴が全身を強張らせた。
「藤本~、お前が言ってた女ってこいつ?」
目の前で男が張った声が絶望的にこだまする。と同時に震える身体を叱咤して、史織は急いで駆け出した。
「あ!」
「待てっ」
座り続けて痺れた足がもつれそうになりながら、絶対に転んでは駄目だと自分を叱咤して、とにかく走った。けれど、がくんと首から衝撃が走り、気付けば自分の身体が地面に叩きつけられていた。
「げほっ」
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