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第8話 お買い物

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    今からどこへ行くのかという問いの返事を待っていた子犬に、水盤で手を洗っていたおっさんは単調な声で言った。

「少し買い物に行く」

 得られた回答が、思いのほか外向的で安堵する子犬。もしも今日一日、このまま神社で寝て過ごすなんて言われたら、どうしようものかと不安を感じていたのだ。

「へぇ……俺も行く!」
「あ? 付いて来ても店入れねぇだろ」

 確かに神といえども、見た目は子犬そのもので、店内に入ろうものならすぐにつまみ出されてしまうだろう。

「いいよ、前で待ってるから。この辺どうなってんのかちょっと見てみたいし」


 子犬は人間界に、これまで数回訪れたことがある。しかしそれは、本来契約するはずだった元契約者の家の様子をそっと窺っていただけで、人間界に詳しいわけではない。

 この神社に訪れたのも初めてなのだ。先ほどのおっさんの様子からも、しばらくはここに住むことになるのだろう。
   それならば、この周辺のことは理解しておいた方がいいはずだ。

 そんな思いもあるが、実際はそんな事よりも好奇心が勝っている。天界で待ち望んでいた人間界での生活。
    先輩の神たちからどんなものか聞いてはいたが、住む地域や契約者によって話は様々で、それをこの目で確かめていきたいのだ。


「早く行こうぜ」

 おっさんの返事も聞かずに、率先して歩き出せば、大きなため息が聞こえてきた。

「はぁ……勝手にしろ」

 神社を出て田舎道を歩いてしばらく。どうやら神社は少し辺鄙なところに建っていたらしい。
    道路には小石が転がり、脇にガードレールなんて優しいものは無く、足を踏み外せばそのまま田んぼにこんにちはだ。
    街灯も少なく、夜は気を付ける必要があるだろう。


 しかし、そのまま十数分も歩けば景色は変わってくる。
    神社付近ではまるで人気が感じられなかったが、ぽつりぽつりと通行人とすれ違い、家や店も並ぶようになった。

「へーちょっと歩けば、結構栄えてんだな」

 ここまで来ると道路は完全に舗装されていて、少し高さのある建物も増えた。その中には、商店街のアーケードなんかも見える。


「おお、タピオカあるじゃん。あれが噂のタピオカか。なんか、みんな飲んでるんだろ?」

 洒落た外観で小さめな店舗の前では、のぼり旗がこれもまた今時のデザインで、派手にタピオカを勧めている。

「知らねぇよ。そういや最近よく見るような気はするけどな」
「あれ美味いの?」
「飲んだことねぇ」

 店の前に置かれているメニュー表が貼られた看板に、おっさんは冷めた目を向ける。

「知ってるか。これ一つで2ℓの水が五、六本は買えんだぞ。飯一食だって十分食える」

 それをたかが一杯の飲み物に使うなんて、正気の沙汰じゃないと小さく首を振る。


 そんな会話の最中で、前から来た奥様方に、とてつもなく怪訝な顔を向けられたおっさんはハッとする。普通に考えて、犬が話をしていたらまずいだろうと。

    ホームレスという生活が長く、何もしていなくとも他人から不審がられたり、嘲笑の対象となることも多かった。
    その視線に慣れた自分は、感覚が鈍くなっていたのだろう。その問題に、今更気が付いたのだ。


    そんなことを気にも留めずに喋り続ける子犬に、おっさんはしゃがみこんで、その口を掴んだ。

「おい、お前もうちょっと気をつけろ。喋るな」
「ふが、なんでらよ?」
「俺と二人の時はまだしも、他の奴がいるところで喋ってちゃまずいだろうが」

 おっさんは子犬があまりにも流暢に喋るものだから、神であることなどを飲み込みざるを得なかった。
    だが、それは今だから言えることで、はじめは幻聴だと思ったぐらいだ。普通の人間から見れば、喋る犬など奇怪なことこの上ないだろう。

 もごもご言っている子犬は、ポンっと顔を引き抜いて、おっさんの手から逃れた。

「ぷはっ、いや大丈夫。俺の声、他の人に聞こえないし」
「……は?」
「ん? だから、おっさんは契約してるから聞こえるんだよ。それ以外の人間には聞こえないから。契約者の血縁者とかなら話はまた違ってくるけど、他人にはまず無いな」

    一口に血縁者といっても、その範囲は神個体の力の強さによるのだと説明していれば、おっさんはピタリと足を止めて、右手で額のあたりを押えていた。

「おっさん? どうしたんだ?」

 子犬が不思議そうにおっさんを見上げると、苦虫を嚙み潰したような顔を向けられた。

「……くそっ、じゃあ何か。今まで俺は傍から見りゃ、一人で犬相手に話しかけてるヤバい奴だったってことか」
「まあ、そう言われればそうなる、な?」
「はぁ……そりゃそうだよな。犬が喋ってるの見て、あんな反応で済むわけねぇわな」

「うおっ⁉」

 突然おっさんから頭を鷲掴みにされた子犬は、ギリギリと締め付けられる頭に、不平を漏らした。

「いだだだだだっ、なんだよ急に! 離せよ!」

 痛いと喚く子犬に、おっさんは笑顔を見せる。その目は、まるで笑ってはいなかった。

「なあ……? 俺はお前に、知ってること全部話せって言ったよな?」

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