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第17話 子犬は曇り空

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 おっさんを尾行した翌日は、ひどいものだった。

 工場からの帰り道、かの童話ヘンゼルとグレーテルに出てくるヘンゼルが道にパン屑を落としていったように、子犬は涙の跡を道に残しながら、神社へと帰ったのだ。
 その夜も、悔し泣きで地面を濡らしながら眠ったせいで、翌朝に起床した時の頭の重さといったらなかった。


 それから一週間が経過して、普段とは違い、おっさんは朝早くに起床した。
 手早く身支度を整えていくおっさんの周りを、子犬がうろうろと歩き回っていると、おっさんから「邪魔だ」と一掃される。

「うざってぇな。足元でうろつくんじゃねぇよ」
「だって、おっさん仕事行くんだろ?」
「だからなんだ」
「その……大丈夫なのかよ?」

 工場に行けば、またあの男がいるのだろう。
 おっさんはけろりとしているが、子犬の中ではまだあの一件を飲み込む事は出来ない。かといって上手い解決策もないため、どうする事も出来ないことが、とても歯痒いのだ。

「俺も一緒に行こうか」
「来てどうすんだ。要らねぇよ」

 確かに、付いていったところで、神社の外では一瞬だって人型になれない子犬は、何をする事も出来ないだろう。

「でもさぁ、一人よりさ。誰か一緒に居た方が」
「必要ねぇ」

 そんなやり取りを繰り返しながら、二人が鳥居を越えたところで、おっさんは足を止めた。

「お前はここに居ろ」
「うおっ!?」

 子犬の身体が浮いたと思った瞬間、そのままおっさんから鳥居の内側へと放り投げられる。
 着地後におっさんを見ると、すでに子犬に背を向けて歩き出していた。その後を追うべく、子犬が右前足を上げた時、まるで背中に目があるかのようなタイミングでおっさんは振り返った。

「いいか。絶対に付いて来るなよ」
「う゛っ……」
「これ以上は遅れるからやめろ」

 そう告げたおっさんに、子犬は渋々一緒に行くのを断念する。
 心配しながらも、おっさんの姿が見えなくなるまで見送ると、子犬は尻尾を落としてとぼとぼと本殿の方へと戻って行く。
 

「おっさん大丈夫かなぁ……あの男、今日休みだったりしねぇかな」

 そうすれば、おっさんも気持ち良く帰って来れただろうに。

「……俺、おっさんに何もしてやれねぇ」

 今出来る事といえば、あの男が現れないように願う事ぐらいで。
 もし子犬の身体に神力が蓄えられていたら、多少なりおっさんのフォローをする事が可能だったかもしれない。
 だが、まだまだ回復する事がなさそうなそれに、子犬は自らの力の無さに直面して、心を陰らせる。
 
「何が、人間を幸せにするために。だよ。……何も出来ねぇのにさ」

 手違いでの異端契約でなく、正式な契約で結ばれていたなら、ここまで神力を消費する事もなかったかもしれない。
 しかし、それも予測不可能だったとはいえ、子犬の気の緩みから起きた失敗でもある。

「こんなんで偉そうなこと言う資格ねぇよ。他のみんなだったら……ちゃんとやれてたのかな」

 自分ではない他の誰かだったなら、こんな風に失敗ばかりでなく、一人で無力感に心を悩ませることもなかったのか。

「あー……くそっ」


 工場にいるおっさんが、気掛かりな事もあり、子犬は昼になった今も陰鬱な気分に沈んでいた。この一週間は、もうずっと気持ちは曇り空で、どんよりとした暗い雲に、分厚く覆われている。
 
「やっぱり俺、人間界に来るの早かったのかな」

 本来なら、二百歳になれば人間と契約を結んで良いとされている。しかし、子犬には時期尚早で、まだ修業が必要だったのかもしれない。


 ジッと拝殿を見つめていた子犬は、参道の階段を上がる足音に気付いて、振り返る。

「え、おっさん?」

 随分と帰宅が早い。もしかすると、工場であの男と何かあったのかもしれない。耐え切れずに帰ってきたのだろうか。そう思って、子犬は慌てて足音の方へと走り出した。

「どうしたんだ! あの男にいじめられたのか!?」

 大丈夫かと駆け寄った子犬と、階段を上がっていた人物は互いに急停止する。

「うおっ!?」

 
 この神社に来るのは、おっさんだけだと思っていた子犬は、その見当が外れた事に驚きを隠せなかった。

 まん丸に開かれた子犬の茶金の瞳に、その人物が映される。
 子犬は、その人物を知っていた。いや、強烈に脳裏に刷り込まれているといっていい。

 肩まであるふわりとした茶色の髪が、日の光に当たって金色に輝いていた。
 人形のように欠点のないパーツが揃って、中でも一際目立つ大きな瞳を、今は子犬に向けている。
 子犬の頭に蘇るのは、あどけない表情を見せ、愛嬌たっぷりの笑顔から紡がれる外道な発言。

「……あれ、元気だった?」

 今子犬の目の前にいるのは、自殺をしようとしていたおっさんに、財布を寄越せと言った人物。
 忘れもしないその少女の名前は、愛ちゃんだ。

 
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