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睡蓮の悪魔
しおりを挟む千九百八十二年七月二十四日 早朝
パタゴニアのパルト州には、近年稀に見る異常気象による豪雪が続き仕事に向かうどころでは無く、皆は自宅に閉じ籠りあたり一面に広がる美しくも見える銀世界を眺めている。
パタゴニアは本来豪雪吹き荒れる地域という訳でも無く、世界的に続く機械化や工業化によるco2の排出で大規模な気候変動の影響を受けたからだろう。
そして、そんな-15度ともなる気温の中、今にも三世帯の一軒家を潰してしまいそうな屋根の雪を熱心に掻き下ろしている人物がいた。
彼はブルース•ヒューズ、ごく一般的なブルース一家の長男として千九百六十年に生を受け、毎日の様に一家で行っている農作業や低賃金の労働を行い一家を支えていた。
栄養の取れていない体にしてはがっしりとしており、腹部には四つに割れた筋肉と肋の骨が見え隠れしていた。身長も180はあるかといったところだが、ここに身長を測る様な器具など存在しない為詳しい事は分からない。
今日もヒューズは食事も碌に摂れず早朝から一家の為に命を削っていた。誰も外に出ぬ寒さに凍えながらも、薄手のシャツの様な物を一枚被り、霜焼けの手で廃棄の鉄板を貼り付けただけの鉄棒を使い屋根から雪を落としている。
ただ、ヒューズは目の前の寒さなど考えてはいなかった。ヒューズには、数日前の突如として降り始める豪雪の数刻ほど前に家を出た自らの母が心配でならなかった。
ヒューズの母は既に十二分に歳をとっており、この勢い余る豪雪に吹かれれば一瞬にして命の灯火を消してしまうのでは無いかと思えるほどに体を弱らせていた。
ヒューズが雑多な仕事を終えて自宅に帰った時には、母以外の全ての家族が自宅にいた。誰も母の事など探してはいなかった。
母は何処かとヒューズの弟に尋ねれば、何も言わず出て行ったと言う。何故止めなかったと問えば、腹いせであると弟は言った。他の家族に尋ねるも、皆が口を揃えて腹いせだと言った。
ヒューズの母は、数年前からDementia曰く認知症を患っていた。一家で集めた劣悪な労働による対価を身勝手に使い、一家共用の物や家すら破壊し始めた時には家族全員がお手上げであった。家族の顔を忘れた辺りから、全員に限界が来始めていた。
ただ一人、ヒューズを除いては。ヒューズは粗悪な環境に反して、とても心穏やかに育った。環境によるものでも無く、ヒューズ自身の生来の気質によるものだ。
家族が怪我した子鹿を見つけたならば、直ぐに弱った子鹿を締めてその日の暖かい夕飯にでもなってしまうだろうが、もしヒューズが怪我した子鹿を見つければ自らの少ない食事を分け知らないながらも出来る限りの処置をするだろう。
心優しいヒューズは吹き荒れる吹雪を眺めながら真っ直ぐにも母の帰りを待っていた。ヒューズは直ぐにでも母を探しに行きたい気持ちを抑え、雪掻きに勤しむ事しか出来なかった。
足の感覚が無くなった事に気づき、ヒューズはようやく雪掻きの手を止めた。氷漬けとなった手作りのハシゴを慎重に降りようとするも、足の感覚が足りず雪の中に頭から転落してしまう。
幸いにも降り積もる新雪により、命に別状は無かったものの深々と雪の中にハマってしまった。ヒューズは声を出してか家族に助けを求め様にも、喉が凍り付いて声が出ない事に気づき体をもがく様に動かすも柔らかい新雪はヒューズの体を離さない。
ヒューズの家族への優しさは、返ってくる事も無くあっさりと人生の幕を閉じるかの様に思えた。
この物語はまだここで終わりでは無い。雪に埋もれたヒューズに手を差し伸ばす人物がいた。認知症で家族すら忘れ、家を離れていた母だった。
死に際の幻影に手を掴もうとしていたヒューズにとっては母の手の感触は、実に思いがけないものだった。母の手には、極寒の中の小さな灯火があった。
母の手を掴むと、大きく体が引き上げられあっさりと人生の危機を逃れた。ただ、極寒の世界は変わらずそこにありヒューズとヒューズの母は掛け合う事も無く目の前の自宅に逃げ込んだ。
自宅に駆け込んだヒューズとヒューズの母は、家族に嫌味な視線を送られるだけでおかえりの言葉も無く、侮蔑だけがそこにあった。彼らは精々厄介者が帰ってきた程度にしか考えていないのだ。
ヒューズは自宅に駆け込むと、視線に気づく事なく母を暖炉の前に進めようとしたが、逆に母に暖炉を譲られ母と並んで暖炉で体を温めた。
そこでふと、ヒューズは母の持ち物に見慣れない物がある事に気づいた。元々自宅に置かれた事などない小さな肩掛けバックが母の肩には掛かっており、中には何か大きな物でも入っているのか少し何かがはみ出していた。
ヒューズが母のバックに気づくと同時に、母もそれに気づいたのか肩のバックを下ろして中身を出した。ヒューズは母が盗みでも働いたのでは無いかと心配したが、そんな事はあり得ないと直ぐに首を横に振った。
母がバックから取り出したのは、一枚の小さな絵画だった。
ヒューズには、巧妙に出来た美しい絵画程度にしか思えないものではあったが、白、青、黄の睡蓮が疎に描かれており、何故かおかしな事にその睡蓮は球根部分と切り離され小さな花瓶に入れられていた。
ヒューズにとっては、金縁の絵画が高価な物であるという事しか頭になかった。母が盗みを働いた罪をどう償おうかで頭がいっぱいだった。
そんな苦悩に馳せるヒューズの事などお構いなしに、ヒューズの母はその一見高価そうな絵画を家族の集まる一つの部屋に飾った。
金縁で作られ、美しく思える絵画を壁に取り付けられるや否や、ヒューズの家族はその絵画に擦り寄り、我が物にしようと醜い争いが繰り広げられた。
殴り合いをする家族を止めようとヒューズが間に入ろうとするも、雪で冷やされ弱った体では家族を止める事は出来なかった。
殴り合いから弾き飛ばされ、どうしようもなく醜い家族にヒューズは失意に包まれていた。家族にはどうか優しくあって欲しいと心から願っていた。
ヒューズが呆然と争いを眺めていると、彼らの争いの元である睡蓮の絵画に小さな変化があった。
高価そうに見えた金縁がゴタゴタとした争いに巻き込まれたからか、金が剥がれ軋む様な誰にも聞こえない小さな音が鳴っていた。
絵画の枠全体が軋み、遂に睡蓮の絵画はちょうど花瓶を割る様に半分になってしまった。言葉も出ない結果となったが、これが最良だったのかもしれない。
睡蓮の絵がみるみると姿を変え、睡蓮の鮮やかな色は消え去り一瞬にして枯れ果てた姿になってしまった。
千九百八十二年七月二十四日 正午
突発的な豪雪は、突如として鳴りを潜めた。パタゴニアはこの大雪により多くの人的被害や、産業被害を被った。その人的被害の中には、豪雪による屋根の陥没が原因の窒息死が多くあった。
この物語はフィクションです。
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