電脳理想郷からの脱出

さわな

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外界からの来訪者

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 ウイルスチェックが完了した翌日、アイコはいつものように電脳空間に向かった。

 そびえ立つ高いビルに、空飛ぶ車。整備された歩道に、規則正しく植えられた同じ背格好の木々。ペットを連れて散歩する女性や、談笑しながら通り過ぎるビジネスマン。広場ではいつものように大道芸のパフォーマンスがおこなわれていた。
 目の前に広がる華やかで賑やかな世界。肌で風を感じることができるし、木のごつごつとした感触も本物だ。あの白い部屋とはまるで違う。こちらが現実世界と思いたいくらいだ。アイコは電脳空間に戻れたことに安堵した。

 時刻は午前11時。出遅れたが、花売り少女のアイコの一日が始まる。

 昨日の店は自動応答のおかげでうまく回っていたようだ。店主不在でも事業が成り立つのなら、自分の存在は何のためにあるのか。つくづく疑問に思うが、アイコは花売り少女役をこなすことにした。
 

「仏花を頂こうか」

 紳士服を着た中年男性がやってきた。スーツの光沢としわのない着こなしから上品さと几帳面さを感じた。ひげが気になったが、凜々しい顔立ちのせいかそれもおしゃれに見える。

「仏花ですか……。菊でよろしいでしょうか?」

 アイコは聞き慣れない注文に戸惑った。この世界の人間は誰も仏花を買い求めない。旧時代に菊が墓前に捧げられた花であることも知らない。

「仏花で通じるとは、博識な花屋さんだね」
「いいえ。たまたま図書館でお葬式という風習を読んだからです」
「この菊は何に使うのですか?」

 白、紫、黄色の菊を数本ずつ取り束ねながら、アイコは興味本位に訪ねた。

「ああ、仲間が亡くなってしまってね。お墓に供えようと思って」

 アイコはきょとんとした。エルクラウドでは死という概念が希薄だったからだ。肉体年齢が20歳を越えれば、量子化という段階に入り、意識体となってエルクラウドの永遠の住人になれると言われていた。紳士の友人は量子化したのだと、アイコは思い込んだ。

「ご友人は量子化されたのですね。おめでとうございます」

 アイコは良い知らせだと胸を高鳴らせたが、紳士は怪訝な顔をした。

「君は量子化が本当に喜ばしいことだと思っているのかね?」

 紳士の鋭い視線にアイコの背筋が凍った。
 現実世界の肉体から精神が解き放たれる量子化。それはとても喜ばしいことだと思っていた。

「ご、ごめんなさい! ずっとそう教わって来たので……」

 アイコは必死に頭を下げた。

「それに、わたしはもうひとつ世界で過ごす時間が退屈で、エルクラウドの本当の住人になりたいと思ってるんです……! だから、量子化がすごくうらやましくて……」

 言い訳しようと続けた言葉は、アイコの量子化に対する憧れと強い願いだった。

「君だけじゃない。みんなそう思っているよ」

 アイコはまた怒られると思って構えていたが、紳士は優しく微笑んでいた。

「刷り込まれた思想は簡単には変えられない。私も、かつてはそうだった」
「かつて……?」
「あなたはいったい?」

 違う世界からやってきたかのような異質さが紳士から漂ってきて、アイコの心が騒いだ。

「ここでは話せない」

 紳士はアイコの手から菊の花束を受け取り、チェッカーに端末をかざして支払いを済ませた。アイコはすっかり花束のことを忘れていた。

「花束、ありがとう」
「待ってください。もう少し話を……」

 アイコは立ち去ろうとする紳士を呼び止めた。彼は何者なのか。知っていることをすべて教えて欲しかった。

「君、名前は?」
「アイコ3156です。あなたは?」
「私は、ヒカリ・ヒデオだ」
「ヒカリ、ヒデオ……」

 アイコは彼の名を繰り返した。識別番号がなく、ふたつの単語が並ぶ紳士の名前は特異なものだった。人の名は単語と数字の組み合わせで表現されていたからだ。

「この名前は私自身が名付けた」
「名付けたってどういうことですか?」

 名前は自分では決められない。親の遺伝子から名前をもらい、採番された番号がつく。

「私が生まれ変わった証としてね」

 紳士はアイコにそっと耳打ちした。彼が語ることはアイコの理解を超えている。

「あなたも量子化を果たしたんですね!?」
「静かに」

 紳士は興奮したアイコの口に人差し指を添え、囁いた。

「今から君に質問をする。答えがイエスなら、頷くんだ。……君はこの世界の真実を知りたいか?」
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