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7月2日 15時55分
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7月2日、15時55分。月曜日の放課後。
私はいつものように、活動日ではない美術室を借りて絵の練習をしていた。人物をモデルにデッサンの練習をしている。
机に手を置き、寄りかかったポーズをしているのは野上周大。彼氏だ。
樋川恵さんの言葉で、少し前向きな気持ちになったけど、進路調査票のことを思うとまた憂鬱になった。
わたしは答えを保留にしていたので、進路調査票に何も書けないという事態が余計に焦りを募らせた。
……にしても、今日は線が決まらない。
わたしがスケッチブックに描き出した輪郭は、“こう描きたい”というイメージをことごとくぶち壊すようなものだった。何度なぞっても余計に紙が汚れるだけでイライラした。
「次の日曜日どこ行く? 俺はどこでもいいよ」
わたしの気も知らず、周くんはのほほんと声をかけてくる。
日曜日にどこか出かけようと話していたのに、すっかり忘れていた。
線画が定まらない。そんなことよりも、今は絵に集中しなくては。
わたしは無言で鉛筆を滑らせた。カリカリと鉛筆が画用紙を走る音が響く。
「俺の話聞いてる?」
無視されていると感じた周くんが聞き返してきた。
「聞いてるよ」
わたしは突っぱねるように答えると、周くんは小さく足踏みした。そんな言い方ないよなと、苛立ちを体で表していた。
わたしだってそう思う。
自分も、何でこんな棘のある言い方になってしまったんだろうとは思うけど、どうしようもなかった。気持ちとは裏腹に乱暴な言葉を重ねてしまう。
「動かないで! モデルなんだから」
小さな動きも気になってしまう。わたしは目ざとく周くんを注意した。彼はわたしの剣幕に驚いたのか目を丸くしている。
うまく描けなくてイライラする。自分でもうまくコントロールできなかった。
そういえば、最近ずっとこんな調子だ。
自分の出来栄えに納得できない。思ったような絵にならない。
向き合って描けば描くほど、自分の拙さを思い知る。
その焦りは鉛筆の筆跡に現れる。乱暴に描き殴ってもいいことないのに、わたしは力任せに腕を動かした。
自分が描く線の一本一本が納得いかない。
それを修正するように、何度も線を重ねても、画用紙の彼氏は歪むだけだ。もう軌道修正は不可能だった。
「どうした? 何かあったろ?」
周くんが心配そうに聞いた。
「はぁ……。なんでもない」
息を殺したつもりだったけど、ため息が漏れ出てしまっていた。
「なんでもない」なんて嘘だ。でも、それ以外の言葉で表現できなかった。
このまま絵を書き続けて何になるんだろう。
またこの思考に陥ってしまう。
スケッチブックの周くんは何度も線を重ねたせいで真っ黒だ。
腹立つくらい下手くそで、うまくいかないから全然楽しくない。
それでもわたしは、未来を選択をしなくてはいけない。
この状態でも絵を描く道に進むために美大に行くか、得意な科目から分野を選んで文系大学に行くか。
見えない未来がわたしを追い詰める。
……逃げたい。
わたしは衝動的に鉛筆を放った。
鉛筆が床に打ち付けられ、カランカランと虚しい音を立てて転がった。
「朱音?」
周くんがこちらを見ている。驚きと心配と、二つの感情が混ざった顔だ。
「描いても描いても下手くそだよ。……こんなんじゃ全然ダメだ」
一筋の涙が頬を濡らしていた。わたしは自分が泣いていることに気がついた。
周くんは何か言いたそうにしていたけど、言葉をこらえてわたしを見ていた。悲しそうに目を細めている。
彼の表情には見覚えがあった。
さっきまでの会話も、自分の感情も、初めてではない気がした。
この気に入らない絵を破り捨てて、この場から逃げてしまいたい。
そんな衝動に駆られた。
でも、「それは駄目だ」と何か、強い信念のようなものがわたしを踏み留まらせた。
感情的になって、気持ちをぶちまけて、逃げ出すことができれば、どんなに楽だったろうか。
突如、自分の中に現れた信念と拮抗し、わたしはどうすることもできずにいた。呆然としていると、周くんがそっと口を開いた。
「悩んでいるんだろ?」
わたしはハッと顔を上げた。
堪えきれなくなった涙がボロボロと床に落ちた。
周くんの姿は滲んでよく見えなかったけど、わたしの瞳をじっと見つめていた。
「絵を描き続けるか悩んでいるんだろ?」
自分の中でもやもやとしていたことを、はっきりと言い当てられた。
見透かされた恥ずかしさもあり、わたしは強がってしまう。
「周くんには……関係ないでしょ……わたしの気持ちの……何がわかるの……?」
「わかるよ! 俺にだって関係あるよ!」
周くんは声を上げて反論した。まるでわたしを悪い夢から醒ますような力強い声だった。
「強がらなくていい。俺に打ち明けてくれ」
近づいてきた彼は、さっきとは違った優しい声でわたしの頭を撫でた。
ひとりで耐えてきたから、堪えるものがあった。わたしは嗚咽混じりに泣いた。
絵を描きたい。
高校を卒業しても、大人になっても描き続けたい。
それが仕事になったら、ライフワークになったなら、どんなに幸せなことだろうか。
イラストレーターになりたい。絵に関わるお仕事がしたい。
口にすることができたなら、どんなに心が楽になっただろうか。
わたしはずっと、心の中でさえ言えずにいた。
周くんはわかってくれた。それだけでも、じゅうぶんわたしは救われた。
朱音は頑張っている。朱音の絵はすごい上手。
自分を評価してくれるそれらの言葉がなくても、じゅうぶんだった。周くんは今、全身わたしの憂いをを受け止めてくれている。
泣き止むまで周くんはわたしの頭を撫で続けた。
「周くんはわかってたんだね……」
わたしは周くんの腕の中で、少しずつ冷静さを取り戻していた。
「進路調査票が配られてから、絵を描くときに朱音が迷っているような気がして……。前の朱音は楽しそうだった。最近は何度も描き直したり、納得していない感じがしたから。俺にも見せてくれなくなったし……」
周くんの言葉通りだった。
「俺は朱音が描いた絵が好きだよ。色使いとか、雰囲気が好きで、絵を見るとこっちもワクワクしてくる。 朱音は朱音にしか描けない絵を書いてる。 弱気にならなくていい 」
「うん」
「思ったように描けなくて悩んでいるのかもしれないけど、本当に朱音が絵を描くのが好きなら、俺は続けて欲しいと思っている」
「うん……」
「また朱音の絵を見せてよ」
「う……うん……」
また目頭が熱くなる。涙をこらえられない。
「楽しそうに絵を描いている朱音が好きなんだ。俺は一番に朱音を応援したい」
周くんはわたしの耳元に優しく語りかけてくれた。
嬉しかった。飛び上がるくらい。
いや、そんな派手でわかりやすい嬉しさではない。天に昇るような……。
それもなんか大袈裟だ。
なんというか……、安心した。
その表現が一番しっくりきた。
恥ずかしかったのだろう。周くんはしきりに頭をかいていた。
思うようにいかないこともある。 望んだ結果にならないこともある。
そんな未来は容易に想像できる。
絵を描いて生活できるまでにはならないかもしれない。
でも、やめたらそこですべてが終わってしまう。描き続けることでいつか報われる未来も永遠にやってこないし、叶えっこない。
描き続ければ、いつか誰かがわたしの絵を見つけて感動してくれるかもしれない。
その可能性がゼロじゃないから、わたしの未来にはじゅうぶん価値がある。
周くんはわたしの頭を撫で続けた。
じんわりと伝わる手の暖かさに、わたしの涙がぶり返しそうになる。わたしは嗚咽を止めようと必死だった。
「勝手かもしれないけど、俺は朱音に書き続けて欲しいんだ」
「……ありがとう」
それ以上、言い表す言葉が見つからなかった。
うまくいかなくて苛立って、覚悟が決まらず。自分の心とも折り合いをつけられず、ただ泣きじゃくっていたわたしを、周くんはそっと見守ってくれてた。
呆れることなく、いつも通りわたしの側に居てくれた。
感謝の言葉以外見当たらなかった。
やっぱりわたしは絵を描きたい。
進路、進学先、就職先。形のない未来のことを思うと不安でしょうがない。
一生を背負う覚悟だって決まらない。
それでも、絵に対する欲求と執着だけは確かだった。
周くんがわたしに気づかせてくれた。
わたしはひとりで絵を描いているわけではないんだと。
私はいつものように、活動日ではない美術室を借りて絵の練習をしていた。人物をモデルにデッサンの練習をしている。
机に手を置き、寄りかかったポーズをしているのは野上周大。彼氏だ。
樋川恵さんの言葉で、少し前向きな気持ちになったけど、進路調査票のことを思うとまた憂鬱になった。
わたしは答えを保留にしていたので、進路調査票に何も書けないという事態が余計に焦りを募らせた。
……にしても、今日は線が決まらない。
わたしがスケッチブックに描き出した輪郭は、“こう描きたい”というイメージをことごとくぶち壊すようなものだった。何度なぞっても余計に紙が汚れるだけでイライラした。
「次の日曜日どこ行く? 俺はどこでもいいよ」
わたしの気も知らず、周くんはのほほんと声をかけてくる。
日曜日にどこか出かけようと話していたのに、すっかり忘れていた。
線画が定まらない。そんなことよりも、今は絵に集中しなくては。
わたしは無言で鉛筆を滑らせた。カリカリと鉛筆が画用紙を走る音が響く。
「俺の話聞いてる?」
無視されていると感じた周くんが聞き返してきた。
「聞いてるよ」
わたしは突っぱねるように答えると、周くんは小さく足踏みした。そんな言い方ないよなと、苛立ちを体で表していた。
わたしだってそう思う。
自分も、何でこんな棘のある言い方になってしまったんだろうとは思うけど、どうしようもなかった。気持ちとは裏腹に乱暴な言葉を重ねてしまう。
「動かないで! モデルなんだから」
小さな動きも気になってしまう。わたしは目ざとく周くんを注意した。彼はわたしの剣幕に驚いたのか目を丸くしている。
うまく描けなくてイライラする。自分でもうまくコントロールできなかった。
そういえば、最近ずっとこんな調子だ。
自分の出来栄えに納得できない。思ったような絵にならない。
向き合って描けば描くほど、自分の拙さを思い知る。
その焦りは鉛筆の筆跡に現れる。乱暴に描き殴ってもいいことないのに、わたしは力任せに腕を動かした。
自分が描く線の一本一本が納得いかない。
それを修正するように、何度も線を重ねても、画用紙の彼氏は歪むだけだ。もう軌道修正は不可能だった。
「どうした? 何かあったろ?」
周くんが心配そうに聞いた。
「はぁ……。なんでもない」
息を殺したつもりだったけど、ため息が漏れ出てしまっていた。
「なんでもない」なんて嘘だ。でも、それ以外の言葉で表現できなかった。
このまま絵を書き続けて何になるんだろう。
またこの思考に陥ってしまう。
スケッチブックの周くんは何度も線を重ねたせいで真っ黒だ。
腹立つくらい下手くそで、うまくいかないから全然楽しくない。
それでもわたしは、未来を選択をしなくてはいけない。
この状態でも絵を描く道に進むために美大に行くか、得意な科目から分野を選んで文系大学に行くか。
見えない未来がわたしを追い詰める。
……逃げたい。
わたしは衝動的に鉛筆を放った。
鉛筆が床に打ち付けられ、カランカランと虚しい音を立てて転がった。
「朱音?」
周くんがこちらを見ている。驚きと心配と、二つの感情が混ざった顔だ。
「描いても描いても下手くそだよ。……こんなんじゃ全然ダメだ」
一筋の涙が頬を濡らしていた。わたしは自分が泣いていることに気がついた。
周くんは何か言いたそうにしていたけど、言葉をこらえてわたしを見ていた。悲しそうに目を細めている。
彼の表情には見覚えがあった。
さっきまでの会話も、自分の感情も、初めてではない気がした。
この気に入らない絵を破り捨てて、この場から逃げてしまいたい。
そんな衝動に駆られた。
でも、「それは駄目だ」と何か、強い信念のようなものがわたしを踏み留まらせた。
感情的になって、気持ちをぶちまけて、逃げ出すことができれば、どんなに楽だったろうか。
突如、自分の中に現れた信念と拮抗し、わたしはどうすることもできずにいた。呆然としていると、周くんがそっと口を開いた。
「悩んでいるんだろ?」
わたしはハッと顔を上げた。
堪えきれなくなった涙がボロボロと床に落ちた。
周くんの姿は滲んでよく見えなかったけど、わたしの瞳をじっと見つめていた。
「絵を描き続けるか悩んでいるんだろ?」
自分の中でもやもやとしていたことを、はっきりと言い当てられた。
見透かされた恥ずかしさもあり、わたしは強がってしまう。
「周くんには……関係ないでしょ……わたしの気持ちの……何がわかるの……?」
「わかるよ! 俺にだって関係あるよ!」
周くんは声を上げて反論した。まるでわたしを悪い夢から醒ますような力強い声だった。
「強がらなくていい。俺に打ち明けてくれ」
近づいてきた彼は、さっきとは違った優しい声でわたしの頭を撫でた。
ひとりで耐えてきたから、堪えるものがあった。わたしは嗚咽混じりに泣いた。
絵を描きたい。
高校を卒業しても、大人になっても描き続けたい。
それが仕事になったら、ライフワークになったなら、どんなに幸せなことだろうか。
イラストレーターになりたい。絵に関わるお仕事がしたい。
口にすることができたなら、どんなに心が楽になっただろうか。
わたしはずっと、心の中でさえ言えずにいた。
周くんはわかってくれた。それだけでも、じゅうぶんわたしは救われた。
朱音は頑張っている。朱音の絵はすごい上手。
自分を評価してくれるそれらの言葉がなくても、じゅうぶんだった。周くんは今、全身わたしの憂いをを受け止めてくれている。
泣き止むまで周くんはわたしの頭を撫で続けた。
「周くんはわかってたんだね……」
わたしは周くんの腕の中で、少しずつ冷静さを取り戻していた。
「進路調査票が配られてから、絵を描くときに朱音が迷っているような気がして……。前の朱音は楽しそうだった。最近は何度も描き直したり、納得していない感じがしたから。俺にも見せてくれなくなったし……」
周くんの言葉通りだった。
「俺は朱音が描いた絵が好きだよ。色使いとか、雰囲気が好きで、絵を見るとこっちもワクワクしてくる。 朱音は朱音にしか描けない絵を書いてる。 弱気にならなくていい 」
「うん」
「思ったように描けなくて悩んでいるのかもしれないけど、本当に朱音が絵を描くのが好きなら、俺は続けて欲しいと思っている」
「うん……」
「また朱音の絵を見せてよ」
「う……うん……」
また目頭が熱くなる。涙をこらえられない。
「楽しそうに絵を描いている朱音が好きなんだ。俺は一番に朱音を応援したい」
周くんはわたしの耳元に優しく語りかけてくれた。
嬉しかった。飛び上がるくらい。
いや、そんな派手でわかりやすい嬉しさではない。天に昇るような……。
それもなんか大袈裟だ。
なんというか……、安心した。
その表現が一番しっくりきた。
恥ずかしかったのだろう。周くんはしきりに頭をかいていた。
思うようにいかないこともある。 望んだ結果にならないこともある。
そんな未来は容易に想像できる。
絵を描いて生活できるまでにはならないかもしれない。
でも、やめたらそこですべてが終わってしまう。描き続けることでいつか報われる未来も永遠にやってこないし、叶えっこない。
描き続ければ、いつか誰かがわたしの絵を見つけて感動してくれるかもしれない。
その可能性がゼロじゃないから、わたしの未来にはじゅうぶん価値がある。
周くんはわたしの頭を撫で続けた。
じんわりと伝わる手の暖かさに、わたしの涙がぶり返しそうになる。わたしは嗚咽を止めようと必死だった。
「勝手かもしれないけど、俺は朱音に書き続けて欲しいんだ」
「……ありがとう」
それ以上、言い表す言葉が見つからなかった。
うまくいかなくて苛立って、覚悟が決まらず。自分の心とも折り合いをつけられず、ただ泣きじゃくっていたわたしを、周くんはそっと見守ってくれてた。
呆れることなく、いつも通りわたしの側に居てくれた。
感謝の言葉以外見当たらなかった。
やっぱりわたしは絵を描きたい。
進路、進学先、就職先。形のない未来のことを思うと不安でしょうがない。
一生を背負う覚悟だって決まらない。
それでも、絵に対する欲求と執着だけは確かだった。
周くんがわたしに気づかせてくれた。
わたしはひとりで絵を描いているわけではないんだと。
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