182年の人生

山碕田鶴

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1913ー1940 小林建夫

27-(5/5)

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「長く生きると往生際が悪くなるなあ、シキ」

 シキと呼ばれて鼓動が速まった。
 シキ。
 そうだ。私はシキだ。この死神が狩ろうとしているのは、吉澤識として人生を終えたはずの私だ。 
 死神は一切の感情なくただ私を見下ろしていた。

「シキ、俺と共に来い。俺の名を教えてやる。俺の名を呼べば魂が結びつく。この身体からも出やすくなるぞ」
「……わざわざ……こんなことをしなくても、小林は……もうすぐ寿命を迎えた、だろう……?」
「気にするな。こちらの都合だ。ああ、お前はいちいち説明しないと納得しないのだったな。これ以上待つのは俺が面倒なんだよ。それだけだ」

 死神の顔が近づく。その唇が言葉を刻む。

「カイ。俺の名はカイだ。さあ、シキ。俺を呼んでみろ」

 私は死神に見つめられたまま、抗うこともできずに唇を動かしていた。

「……イ。……カ、イ……カイ……」

 ククッと笑い声が聞こえた。

「そうだ。いい子だ、シキ」

 魂と肉体と。共に深くえぐられる痛みに震えた。

「シキ、来い……」

 名を呼ばれるほどに感情ごと絡め取られていく。
 こんなにも強く存在を求められたことなどない。死神に見つめられるうちに、このまま魂を喰らわれても構わないと思い始めていた。喰われる恍惚と恐怖を期待して我を忘れかけていた。

「カ……イ……」

 自ら、その名を呼んだ。私を掴む手を求めた。

「シキ、お前は美しいな」

 息も絶え絶えの私に死神が微笑みかける。
 この倒錯した快感が、死を受け入れるということなのか。このまま私はこの世を離れるのか。このまま……。
 ふと見上げた先、死神の背後の青空にきらめく光を見た。
 開場したばかりの長野飛行場から飛び立ったであろう小型飛行機だ。間近に戦争が迫る。来年には敷地が軍用になるはずだ。
 現実の、未来。この世の、行く末……。
 もはや小林の肉体が生を終えたと悟った瞬間、死神と目が合った。
 とっさに死神を突き飛ばしていた。自分でも驚くほどはっきりと、弾くような感触があった。
 違う。
 小林の身体から抜けかけていた魂の私が、秋山の中の死神を突き飛ばしたのだ。
 赤く染まる小林に馬乗りになったまま覆い被さるように私を見ていた死神が、私に押されて秋山の背後に本来の姿を現した。
 眩しく輝く光の塊……まさにヤイの言っていたとおりだ。人の形のようではあるが、眩し過ぎて捉えられない。
 それよりも、私のすぐ目の前に秋山の肉体がある!

「カイ!  この身体は私のものだ!」

 音が、引き波のように遠ざかる。
 時間さえ存在しないような静寂。
 眩しかった光さえも消える。
 その瞬間、私は全てを消し去っていた。



「永劫回帰……」

 意識せず口をついて出た言葉で我に返ると、赤黒い塊が目の前に落ちていた。私自身も同じ色に染まっている。ここは竹林の前だ。
 朝日が惨状を照らしている。
 小林だ。
 これは、秋山の視点だ。
 私は……秋山になったのだ!
 永劫回帰。
 永遠に繰り返される人生。
 いや、永劫はあの世のものだ。だが、まるで繰り返すように振り出しに戻ったのは確かだった。
 すぐに理解した。そして、すぐに状況を判断した。
 とにかくこの場を去れ。川で全てを洗い流せ。
 迷わず走った。
 秋山は小林を刺殺した罪人としていずれ指名手配されるかもしれない。秋山の出身地や経歴は、既に調べて詳細は知っている。なるべく遠くに逃げ、時代に紛れて兵となる。戦地へ連れ出されれば当面拘束されることはない。私は必ず生きて戻る。この若い肉体ならばきっと可能なはずだ。
 村を抜ける間際、道の端にヤイが立っていた。ずぶ濡れの私を見て手招きしている。
 黙ってヤイに近づくと、ヤイも黙ったままでみすぼらしい小屋に入っていった。来いということか。
 男物の古着が一揃え置いてあった。私は小林の色に染まったままの服を脱ぎ捨てた。
 小林様。ヤイがそう呼びかけてきた。

「申し開きのできない力を持った者は、それにふさわしい生き方を見つけねばなりません。どのような形であれ、貴方様にも生き続ける権利はおありなのではないでしょうか。私はそう思いますが、あの世へ行ったらお叱りを受けますかね。……今、貴方様の周りには何者もおりません。どうぞお達者で」

 ヤイは麻の巾着袋を私に差し出した。金だ。

「貴方様からこれまでにいただいたものでございますが、先の短い私には不要ゆえ。はてさて。私に未だお迎えが来ないのは、この日のためでございましたかね」

 ふさわしい生き方か。これから全ての人間が時代に大きく流される。それに乗じて私も全く新しい人生を手に入れてみせる。
 秋山正二として生きるのだ。
 生き延びよ。生き延びよ。混迷を奇貨とせよ。
 私はこの世界を知りたい。生きて時代の先を見続けていたい。



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