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1913ー1940 小林建夫
17ー(2/2)
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「小林社長、お支度はこんなところでよろしいでしょうか」
寺に居候する私の身の回りを世話してくれるのは、工場で働いていた田中信太郎という青年だ。一緒に寺で世話になっている。
まだ少年に近い。細身でかなり小柄だ。貧しい村だからか、村の若い者は皆が棒のような体つきをしている。身寄りもなく、ずっと小林を父と慕っていたらしい。
信太郎が差し出したのは、村長の藤森が用意してくれた背広だ。
吉澤組に交渉へ出かけるには、それなりの身なりをしなければならない。分不相応に高級である必要はないが、身だしなみは礼儀だ。
様子を見に来た僧侶が私の周りをぐるぐる回りながら目を丸くした。
「いやあ、小林さん……似合いますなあ」
信太郎に聞こえないようにして、着慣れているお人はさすが立派に見えますと一言添えた。
そんなものかと思ったが、確かに私は野良着のような作業服は落ち着かない。
「社長は本当に別人のようになられましたね」
褒め言葉ではあるが、信太郎は寂しそうだ。
こんな時、私は身体の声を聞く。小林は今まで信太郎にどう接してきた? この肉体は覚えているはずだ。
息子のように可愛がってきたというのは何となく感じる。とはいえ、私自身がいきなり二十も歳を取ったのだから勝手がわからない。
「ちょっと社長! もう子供扱いしないで下さい」
ぼんやりと信太郎を見ていたら、自然と手が伸びて信太郎の頭に乗せていた。なでるわけでも叩くわけでもなく、ただ手のひらを当てている。
怒りながらも手を払わないところを見ると、これが正解か。何やら嬉しそうではあるな。
「信太郎、お前はずっと私の子なのだろう?」
「は⁉︎ 何をいきなりっ」
逃げるように部屋を出た信太郎の後ろ姿を見ながら僧侶が笑っている。
「小林さんは、臆面もなくそんなことは言わなかった。恥ずかしがっておるのですよ」
「そんなものか……」
信太郎は小林を慕い続けている。小林らしくない私を小林と信じている。
小林のふりはせずとも、小林として生きることが私の義務だ。そう改めて感じ入る。
「あの、小林さん……元の小林が息子のような信太郎まで遺して去ってしまった無責任をお怒りですか?」
私の自戒を怒りと見たのか、僧侶が心配そうに訊いてきた。
「いえ、違いますよ。自分は小林だと暗示をかけていただけです」
「はあ……」
僧侶が特別に人の感情に敏感とも思えない。やはり小林の肉体は感情が読まれやすいのだと、こちらも自戒した。
「なあ、僧侶殿。村の者たちは、小林さんの苦悩に気づいてやれなかったことを相当に悔やんでいるようですね。特に信太郎は小林さんに一番近しいと自負しているから、ずいぶんと落ち込んでいる。……僧侶殿から言ってもらえませんか。小林さんは信太郎が大事だったからこそ、自分の苦しみを知られたくなかったのだと。身を投げるなど普通の状態でできるものではない。疲弊し切って判断もおぼつかない最期になって、なおも信太郎を案じた。だからこそ、決して気づかれないよう心を隠し通したのだと。信太郎に自責の必要はどこにもない。小林さんの異変に気づけなかったことを後悔するのではなく、騙されたことを怒るべきなのですよ」
私だけが笑った。不謹慎な私を僧侶は難しい顔で見ていた。しょせん私は小林と無関係の、全くの他人だ。
「小林さんが去ってしまった後では、僧侶殿の言葉はただの慰めでしかない。だが、小林はまだここに生きて存在します。小林自身が僧侶に打ち明けた話として、信太郎にこっそり伝えてやって下さい」
「小林さん……」
「ああ、もちろん本当の小林さんがどう思っていたのかは知りませんよ。これは私が勝手に都合の良さそうな筋書きを作っただけですから。でも、今は私が小林だ。小林は私しかいない。もう私と信太郎との問題なのです。頃合いを見計らって私も直接信太郎に詫びを入れます。まだ当分は二人で向き合って話せる状態ではないでしょうからね」
信太郎は常に私の様子をうかがっている。遠くから、怯えながら。
「信太郎が小林さんに捨てられた気持ちになっているのは私も感じておりましたがね。それにしても貴方様の心配の仕方と情けのかけ方は、ずいぶんと遠回しでややこしい。先ほどのようにはっきりと、今すぐ言ってやればいいではありませんか。信太郎を二度と置いていかないと」
私は小林ではない。信太郎が慕っていた小林ではないのだ。それなのに、そんなにも簡単にお前が大事だなどと言えるか? 捨てないと保証できるのか?
そんな不誠実は許されない。
欺く者を欺き、嘘を嘘で隠してきたかつての私が聞いてあきれるな。だが、ここには欺く者も騙す者もいないのだ。
「……一度失った信用を回復するのは難しいのですよ。同情と信用とは別問題だ。地道に進むしかないのですよ」
私は小林建夫になる。新しい時代を見続けるために。
寺に居候する私の身の回りを世話してくれるのは、工場で働いていた田中信太郎という青年だ。一緒に寺で世話になっている。
まだ少年に近い。細身でかなり小柄だ。貧しい村だからか、村の若い者は皆が棒のような体つきをしている。身寄りもなく、ずっと小林を父と慕っていたらしい。
信太郎が差し出したのは、村長の藤森が用意してくれた背広だ。
吉澤組に交渉へ出かけるには、それなりの身なりをしなければならない。分不相応に高級である必要はないが、身だしなみは礼儀だ。
様子を見に来た僧侶が私の周りをぐるぐる回りながら目を丸くした。
「いやあ、小林さん……似合いますなあ」
信太郎に聞こえないようにして、着慣れているお人はさすが立派に見えますと一言添えた。
そんなものかと思ったが、確かに私は野良着のような作業服は落ち着かない。
「社長は本当に別人のようになられましたね」
褒め言葉ではあるが、信太郎は寂しそうだ。
こんな時、私は身体の声を聞く。小林は今まで信太郎にどう接してきた? この肉体は覚えているはずだ。
息子のように可愛がってきたというのは何となく感じる。とはいえ、私自身がいきなり二十も歳を取ったのだから勝手がわからない。
「ちょっと社長! もう子供扱いしないで下さい」
ぼんやりと信太郎を見ていたら、自然と手が伸びて信太郎の頭に乗せていた。なでるわけでも叩くわけでもなく、ただ手のひらを当てている。
怒りながらも手を払わないところを見ると、これが正解か。何やら嬉しそうではあるな。
「信太郎、お前はずっと私の子なのだろう?」
「は⁉︎ 何をいきなりっ」
逃げるように部屋を出た信太郎の後ろ姿を見ながら僧侶が笑っている。
「小林さんは、臆面もなくそんなことは言わなかった。恥ずかしがっておるのですよ」
「そんなものか……」
信太郎は小林を慕い続けている。小林らしくない私を小林と信じている。
小林のふりはせずとも、小林として生きることが私の義務だ。そう改めて感じ入る。
「あの、小林さん……元の小林が息子のような信太郎まで遺して去ってしまった無責任をお怒りですか?」
私の自戒を怒りと見たのか、僧侶が心配そうに訊いてきた。
「いえ、違いますよ。自分は小林だと暗示をかけていただけです」
「はあ……」
僧侶が特別に人の感情に敏感とも思えない。やはり小林の肉体は感情が読まれやすいのだと、こちらも自戒した。
「なあ、僧侶殿。村の者たちは、小林さんの苦悩に気づいてやれなかったことを相当に悔やんでいるようですね。特に信太郎は小林さんに一番近しいと自負しているから、ずいぶんと落ち込んでいる。……僧侶殿から言ってもらえませんか。小林さんは信太郎が大事だったからこそ、自分の苦しみを知られたくなかったのだと。身を投げるなど普通の状態でできるものではない。疲弊し切って判断もおぼつかない最期になって、なおも信太郎を案じた。だからこそ、決して気づかれないよう心を隠し通したのだと。信太郎に自責の必要はどこにもない。小林さんの異変に気づけなかったことを後悔するのではなく、騙されたことを怒るべきなのですよ」
私だけが笑った。不謹慎な私を僧侶は難しい顔で見ていた。しょせん私は小林と無関係の、全くの他人だ。
「小林さんが去ってしまった後では、僧侶殿の言葉はただの慰めでしかない。だが、小林はまだここに生きて存在します。小林自身が僧侶に打ち明けた話として、信太郎にこっそり伝えてやって下さい」
「小林さん……」
「ああ、もちろん本当の小林さんがどう思っていたのかは知りませんよ。これは私が勝手に都合の良さそうな筋書きを作っただけですから。でも、今は私が小林だ。小林は私しかいない。もう私と信太郎との問題なのです。頃合いを見計らって私も直接信太郎に詫びを入れます。まだ当分は二人で向き合って話せる状態ではないでしょうからね」
信太郎は常に私の様子をうかがっている。遠くから、怯えながら。
「信太郎が小林さんに捨てられた気持ちになっているのは私も感じておりましたがね。それにしても貴方様の心配の仕方と情けのかけ方は、ずいぶんと遠回しでややこしい。先ほどのようにはっきりと、今すぐ言ってやればいいではありませんか。信太郎を二度と置いていかないと」
私は小林ではない。信太郎が慕っていた小林ではないのだ。それなのに、そんなにも簡単にお前が大事だなどと言えるか? 捨てないと保証できるのか?
そんな不誠実は許されない。
欺く者を欺き、嘘を嘘で隠してきたかつての私が聞いてあきれるな。だが、ここには欺く者も騙す者もいないのだ。
「……一度失った信用を回復するのは難しいのですよ。同情と信用とは別問題だ。地道に進むしかないのですよ」
私は小林建夫になる。新しい時代を見続けるために。
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