悟先生

犬束

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悟先生

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 悟先生を覚えている。
 高校の時分に歴史を教わった。何時いつもおだやかで、英国紳士然とした仕立ての良いスーツをさっそうと着こなしておられた。
 きれいな標準語でお話しされ、声を荒げることなど一度としてなく、殊に午後の授業では柔和な口調が、うっとりと眠気を誘った。そばに寄ると、ほんのり好い匂いがした。当時四十代の半ばであったが、すでにお孫さんが居られた。
 「歴史の教科書なんかから学ぶことなどないよ。身を持って経験することが、本当の学習だからね」などと微笑みながら仰るくせに、出来の悪い生徒には補習や追試で攻めたてて、合格するまで容赦しなかった。
 物腰は柔らかいのに、感傷的なウェットさとは無縁で、映画に登場するような博徒バクチウチだとか刺客しかくの冴えた空気を漂わせておられた。
 しかし、わたしは知っている。ヒッチコックの『間違えられた男』をご覧になった悟先生が、密かに涙ぐんでおられたのを。
 きっと、若かりし頃、かの主人公と同じく、先生も愛する家族と引き裂かれるような別れ方をさせられて、長い旅に出られたのであろう。そうして、あんな田舎の学校に流れ着いたんだろう。
「宝クジは買わないんだ。当たるからね。お金持ちになったって、ろくなことはないよ」と漏らされたのは、実体験に基づいての本音に違いない。
 あれから、もう四半世紀経つ。
 悟先生、お元気ですか。


            〈 了 〉
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