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アルファポリスより愛をこめて
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奈良の自宅の近くに尼寺がある。有名な小説の舞台にもなった由緒ある寺だ。
京都の私大の大学院に通う姪が突然、休学してそこで修行したいと言い出したらしく、姪の父である京都の兄から電話があって、最寄りの駅から寺へ送り届けてやってほしいと連絡があった。
僕はネット小説家をしていて特に用事がある日というものもなく、いつでも大丈夫だよと兄に返事をした。
そうして間もなく兄から連絡があり、春のある晴れた日に、姪を車で寺まで送り届ける仕事を仰せつかったのだった。
「久しぶりだね」
駅前のロータリーで姪を拾い、最初の信号待ちで話しかけた。
「長らく奈良に顔を出さずすみません」
「いやいいんだよ」
最後に顔を合わせたのは姪が大学生になったころだっけと思い返した。
「おじさん、年を取ったかな?」
僕がおどけると、
「全然」
姪は笑った。
「おじさん、小説書いてるんですって?」
「大学を出てから会社で失敗したんだよ。それでしかたなく」
「でも成功しているんでしょう」
「ぼちぼちだよ」
失敗というわけではないが大成功とも言えず、ぼちぼちやっている。
僕はあまり勤めに向かないようで、勤めが苦になり三年で退職し、今は小説投稿サイトに若者向けのエンターテイメント小説を書いて、その広告料収入で糊口をしのいでいる。
「大学時代は楽しかったかい? 今は大学院なんだろう」
「ダンスサークルが楽しくって。創作ダンスを学園祭で踊るの。私の人生で一番の思い出」
「そりゃ楽しそうだ。僕の大学でもそうだったな。ダンスサークルの学生が学園祭のステージで踊ってた」
「どこもそうなんですね」
僕もそれを見てダンスサークルに入りたいと思ったのだが、結局入らずじまいだった。
「ダンスをしていたらよかった。ヒップホップとかいうのかな」
「そう、男の子はヒップホップでした」
遠い思い出だ。ぶかぶかの衣装を着るんだっけ。今もそうなんだろうか。
「結局、散策サークルに入って辺りを遠足していた」
「女の子が目当てだったんでしょう、おじさん」
「そういやそうだったかな」
笑って答えた。
「おじさん、いまだに親と三人暮らしの身だよ」
おどけると姪は笑った。
「おじさん、結婚しようと思ったらいつでもできるんでしょう?」
「稼ぎが悪くてとうてい無理さ」
そうでもなかったが答えた。姪は何も言わなかった。結婚は、サークル時代の恋人と別れて以来、しないと決めている。
駅から寺までは一時間ほどだろうと見計らっていたが、観光シーズンに入り、道は若干混んでいた。
僕たちはしばらく黙って車を走らせたが、僕はやはり訊かない訳にもいかないと思い、
「ところでどうして修行に?」
姪はしばらく黙り、そうして、
「男の人」
「そうなの?」
「うん。いっぱいひどいこともしたしされたし」
「若い頃にはよくあることさ」
「そう? おじさんにもあった?」
「あったとも」
あまり思い出しもしないが、なかったとも言えない。
「一度いろんなことを遠くから見て整理したくって」
「そりゃいいことだ」
「本当にそう思う?」
「うん」
尼さん修行なら剃髪するのだろうか? 僕も三十歳を過ぎてからはなんとなく頭は丸めている。
「おじさん、坊主頭がわりあい似合ってるわよ」
「ありがとう」
二人して笑った。
「修行は何年?」
「三年の予定」
「長いね」
「途中で逃げ出すかも」
「辛抱しなきゃ」
尼さん修行というものは身近に聞かない話だった。
寺に着くと庭にいた尼さんが近づいてきて、ようこそお越しくださいました、男性は入寺禁止ですので、ここでお帰り下さいと話して姪を引き取り、僕は寺を去った。
帰って夕食を終えると僕は机に向かい、通算五作目となるエンタメ小説の続きに取りかかった。
ネット小説家稼業はかれこれ五年になる。
文学小説を書いて文学賞に応募したものの落選した小説を小説投稿サイトに載せたのが取っ掛かりで、賞の不本意な落選が続いてからはもう応募するのも面倒くさくなり、書いた小説は片っ端からサイトにあげ、そのうち若者向けのエンターテイメント小説のほうがずっと反響があるとわかってからは、そっちの方に専念するようになった。
そのうち慣れてきて腕も上がり、まあまあの収入が入るようになった。
おおかたが手堅い人気のある学園物で、読者が一人でも多くつく作品作りに専念していた。
300枚ほどの中編を脱稿した日の夕方、久々に馴染みの寿司屋、魚河岸(うおがし)に向かった。
自宅暮らしで、受け取った報酬を煙草と酒以外に使うのは、魚河岸通いと本代くらいだ。
店に入るといつものように航がカウンターで、燗で顔を赤くしていた。
「まいど! いらっしゃい」
大将が元気よく声をかける。
「まいど!」
僕も大きく答え、黙って航の隣に座った。
「いつもの。あと生中」
「はいよ」
僕はいつもまず、その日のおまかせ握りを注文する。
「今日の店はどうだった?」
航に尋ねた。
「御所(ごせ)に鳥白湯の新店ができてさっそく見に行った。まあまあだった」
「悪くないじゃないか。御所にラーメン屋なんて少ないんだろう」
「そうだね。まだ底上げもできそうなスープで、今後に期待するとしておいたよ」
航は、職業としては珍しいラーメンブロガーで、毎日一店舗はラーメン屋を巡ってレビューを書く。ブログ運営サイトからの広告料収入が主な稼ぎで、あとはタウン誌に寄せるラーメン記事の原稿料収入でやっている。
魚河岸で出会うまで航のことは知らなかったが、知り合って以来、僕は毎日アップされる航のラーメンレビューを読んで、県下やその他、全国各地のラーメン屋に思いを馳せるようになった。
「乾杯!」
生中とお猪口で乾杯し、
「今月も何とかしのげたよ」
僕が言う。
「ずいぶん儲けてるくせに」
「人気ラーメンブロガーほどじゃないぜ」
「俺こそブログ読者は頭打ちさ」
「高位安定だろう」
「だったらいいんだけど」
僕はすぐにビールを飲み干してもう一杯注文した。脱稿後のビールはうまい。
「このあいだ、東京遠征に行ってね」と航。
「東京のラーメンはどうなの?」
「やっぱり首都だけあって競争が激しいのか、レベルが他府県とは段違いだよ」
「そういうものなの? 東京人は幸せだね」
「でも淘汰が激しくて。まあまあくらいのラーメン屋がすぐ潰れていたりする」
「厳しいんだね、東京」
二杯目の生中に口をつける。そうして握りに箸を伸ばした。
客の入りは上々だが、テーブル客が多くてカウンターは僕たち二人だけだった。これも僕たちがこの店を好む理由の一つだった。
握りを食べたあと、その日のお勧めのマグロの造りをつついていると、大将があん肝をサービスしてくれたので口にするとうまかった。
「大将、これも注文させて」
「はいよ」
燗で造りを楽しんだあと、僕たちは再会を約して店を出た。
文学小説はしばらく読んでいないしもちろん書いてもいない。読者の多いエンターテイメント小説のほうが小説の今の王道なのではないかと思うようになっていた。
たまに近くの書店で文芸誌をパラパラとめくるものの気が進まず戻し、結局はエンターテイメント小説誌を買って参考にすることが多い。
売れっ子エンターテイメント作家という人たちがいる。次々ヒット作を生み出し、こうありたいものだと尊敬すらする。こういう人たちは文学小説を書かせても一流になるのではないかと思うが、ポリシーがあるのだろう。
僕も習って、そうしてエンターテイメント小説業界の末席を汚しているのだった。
時折京都の大型書店に出かけ、時間をかけて小説を物色する。ネット書店ですませる人も多いのだが、僕は自分の目で確かめながら棚を回るのが好きなのだった。
エンタメ小説の新作を物色する。大御所に加えて新人の小説がパラパラと棚を飾っていた。
買い物を終えるとひいきのラーメン屋に向かう。行列のできる時間を外し、そうしてチャーシュー麺の大盛とビールを頼む。そうして気分よく駅に向かうのだった。
思いついて大きなエンターテイメント小説の賞に挑戦することに決め、いつもの学園物の執筆に取りかかった。だが、書き始めてああ駄目だ、これじゃあ前作の焼き直しだなどと書き直しているうちに、以前読んだ高校生の部活を舞台にした文学小説を思い出し、それじゃあエンタメにならないと思ったが、こういう感じで昔入っていた小学生の頃のバレーボール部を舞台にした小説を書こうと思い立ち、取りかかった。
恋愛要素は入れようか? 小学生にも恋愛感情はある、女子のバレーボール部員や同級生、あるいは教育実習に来る大学生を好きになることもあるだろう、いずれかで取り入れて、かつて鍛えられたスパルタ強豪バレーボール部の二年間を描こうと決意した。
150枚を目途にしたが、30枚ほどで筆が止まり、魚河岸に出かけることにした。航は今日も燗で顔を赤らませていた。
「どうだい小説のほうは?」
航が尋ねる。
「新作を書き始めたよ」
「エンタメ?」
「文学寄りかな、あれじゃあ」
「舞台は?」
「小学校のバレー部。昔やってたんだ」
「小学生の小説でも読まれるの?」
「エンタメじゃあ苦しいかもね。文学賞にでも応募しようかと思ってさ。ポリシーには反するんだけど」
「そりゃいい。文学、結構じゃないか」
「そうだね」
僕はビールを飲み干すと燗を頼み、握りに取りかかって、
「久しぶりに京都に出たら外国人だらけだったよ」
「俺もびっくりした。それでラーメン屋には寄ったかい?」
「寄った。いつも通りうまかった」
「日本にはまだまだうまいラーメン屋がある」
「俺もやってみたいな、ラーメン屋巡り」
「毎日ラーメンばっかり食べるのは、わりあい大変なんだぞ」
「それはそうだろうね」
好物のはまちの造りを二皿頼んで航にも振る舞った。
「こりゃありがたい。小説うまくいくといいな」
「賞は無理だろうけど」
「そんなことないさ」
姪から手紙が着た。
“先日はお寺まで送っていただいてありがとうございました。毎日が修行の日々で充実しています。学生時代や幼少期に渡り、いろんなことを思い出して整理しています。頭はもちろん丸めました。修行が終わった日に、またお寺から駅まで送ってください。楽しみにしています”
とあった。
僕は、それは良かった、大変だろうけど頑張って、送りの件は了解です、三年後に再会できることを楽しみにしていますと返事を書いた。
僕が送っているのは作家修業の日々というものなんだろうけど、姪の人生修行というものはどういうものなのだろうかと気になったが、訊かなかった。そうして書きかけの小説の筆を進めた。
一日の始まりは、小説投稿サイトに掲載してある小説の、前日の閲読者数のチェックから始まる。たくさん読まれているとうれしいし、少ないとがっかりする。要因を考え、小説の続きや次の小説に反映させる。
対象が若者なのであまりお金を使わせたくなく、彼らが無料で読める今のネット小説家という職業を好ましく思っていた。
エンタメ小説はわりあい早く書き進められるが、文学寄りとなるとそうも行かずに難渋することが多い。が、ようやく小説を書く筆が少しずつ進み始めた。
僕のバレーボール部では監督やコーチによるビンタが横行していたが、それを書くのは今の世の中まずいのではないかと思われ、なにより暴力シーンは極力書かないポリシーで今までやって来たのだが、やはり今回は入れておくべきではないかと思われて、エースの少年がスパイクの失敗を続けて試合中に涙ぐみ、それを監督が怒って試合後にビンタしたという実話に基づくシーンを入れた。
100枚を越えたところで魚河岸に向かうと航は珍しくおらず、カウンターに他の客もいなかった。
「大将、最近お客さんはどう?」
「増えてきてますね。最近はインターネットの口コミを見て遠くから来て下さる方が多くて」
「僕も一度、褒める記事を投稿したよ。あんなのが関係するんだね」
「ありがとうございます。わりに褒めてくださるお客さんが多くて」
「この店は僕の憩いの場だよ。それで航は?」
「四国を回るとか言ってました」
「そう。またレビューが楽しみだね」
「私もあれ、楽しみにしてるんですよ」
握りのあと、豊漁だというカツオの造りで燗を飲み、そうして店を出た。
100枚からパタリと筆が止まった。思い出がそこいらで枯渇してしまい、想像でしか書くことができなくなった。
姪のことが思い出され、尼さん修行というものは辛いだろうか、たぶん辛くない修行というものはないだろう、兄や兄嫁はどういう思いで姪を送り出したろう、反対したのではないか? のちの就職活動に悪い影響を与えないだろうか、与えるに決まっている、まあ僕も新卒の会社をすぐに辞めた身だから人のことは言えない、そんなことを考えていると、ちょうど練習試合でミスを重ねて監督にビンタされた思い出がよぎり、やはりそれもひとつ書いておこうと、そこから作品を書く筆が進みだした。
航の四国遠征の記事が載り始めた。
“四県をもれなく回る長旅だが、二年前の遠征時より格段に各店の味は上向いており、四国ラーメン界の未来は明るい”などと、いくぶん興奮した様子で書かれてあった。
以前航が、ラーメンの質は都会度にほぼ比例すると話していたことを思い出し、四国よかったな、そのジンクスを破れればいいなとささやかに喜んだ。
俺もいずれ航の遠征に同行させてもらおうか日本中のラーメン屋巡り、いや航は、遠征中は最低、昼と夜の二食はラーメンだ、朝からやっている店があれば三食ともラーメンだと話していたことがあり、それはさすがにと思ったところで小説投稿サイトを開いた。
掲載してある小説の閲読者数は時間と共に減っていく。しばらく新作をアップしていない。読者が減っている、いけない早くバレー小説を終わらせて次のエンタメ小説を書かなくてはならないと焦り、魚河岸に言って気分転換しようか、いや航もいないことだしここで踏ん張ろうと机に向かった。
学生時代の友人と久しぶりに食事をした。友人は会社員をしている。
「小説は順調か?」
「ああ。エンタメ小説が若い子に読まれて収入もぼちぼちさ」
「そりゃいい。普通の小説は書かないのか?」
「エンタメの方がよく読まれるんだ」
「普通の小説も合間に書いて、文学賞に応募してみなよ」
友人は勧めた。
「今書いている最中のがあって。小学校のバレー部の話」
「そりゃいい。受賞を狙え」
「いや別にそんなもの今更どうでもいいんだよ、糊口さえしのげれば」
「そんなこと言うな」
友人は、早くに係長になれたので今日は俺の奢りだと振舞ってくれた。
「受賞楽しみにしているぞ。その時はもっと高い食事をご馳走するさ」
「いやはや」
バレーボール小説を無事脱稿し、応募する文学賞をネットで吟味したあと魚河岸に向かった。航は四国遠征から帰って今日も燗を飲んでいた。
「四国ラーメン、上々だったみたいだね」
「ブログ読んでくれたかい。味は大幅に上がっていたんだ」
「どうしてだろうね?」
「もちろん職人が味を見直して改良したんだろうが、どうして四国なのだかはわからない」
「何だか意識を高く持っているんだろうね」
「そういうことさ」
帰還祝いに燗を振舞い、乾杯をした。
「バレー小説、順調かい?」
「さっき脱稿したばかりなんだ」
「そりゃよかった。賞に応募するんだろう」
「一応」
「どうして一応?」
「いまさら賞なんて欲しくもないし、貰える見込みもないし」
「そんなこと言うな」
「まあそうだね」
今日はてっさがあるというので、航は二人分注文して振舞ってくれた。
「今日は前祝だ。きっと賞は獲れるさ」
「だといいね」
帰宅してから、見繕った文学賞にネットで応募し、疲れがたまっていたかすぐに布団に入って寝た。
結果が出て、佳作入賞だった。授賞式をやるから東京に出てこいとあり、僕は会社員時代のスーツや革靴を準備した。
会場で受賞者は壇上に並んで座り、表彰状授与のあと順番にスピーチをした。僕は、普段はエンタメ小説しか書かないので久しぶりの文学小説で受賞できたのは僥倖ですなどとあいさつをした。
佳作入賞の一人は大学生の女の子で京都の人だったので、帰りの新幹線の隣に座り、多少の身の上話をしてメールアドレスを交換した。
そうして駅で別れ、僕は帰ってすぐに寝た。
次の魚河岸で航に結果を報告すると航は喜び、燗をごちそうしてくれた。
「よかった、あんたなら獲れると思ってた」
「佳作止まりなんだけど」
「いや充分だよ。これで文壇デビューだ」
「そこまでは」
僕は賞金の十万円から航に、ふぐの唐揚げをご馳走した。
「航が勧めてくれたおかげさ」
「あんたなら文学の世界でもどこでもやっていけると思ったからさ」
帰ると、例の女子大生からメールが入っていた。
僕たちはメールで食事の約束をし、そうしてすぐに寝た。
それからしばらく僕は、次は何を書こうかと思案した。やはりスパルタだったがり勉高校時代を少し思い出したが、小説にはならないだろうと思った。
思えば学園物中心のエンタメも五作を越え、ややマンネリ気味になっていた。さりとて僕は、自分はエンタメ小説家だと自負していたところなので、ここで文学作家志望に舵を切るのは抵抗がある。まあ思いつく題材によりけりだとしばらく休養することにした。
女子大生と映画を見に行き、レストランで食事をした。彼女は唯といって女子大の三回生だった。
「そろそろ就職活動だね」
「私、作家を目指すのでやらないんです」
「そうなの」
「駿さんはこれから何を書くんですか?」
「手詰まりでね。なにか浮かぶのを待っているところ」
「一緒に今度は大賞を目指して頑張りません?」
「…‥。そうだね」
家に帰って、授賞式で貰った、彼女の書いた小説を読んだ。若者の群像劇で、なかなかうまいものだと感心し、僕は学生時代に少し参加したツーリングサークルを次の小説の舞台にしようと思いつき、そうしてあらすじを考えながら寝た。
魚河岸に出かけた。航は東北遠征に出かけて不在だった。
握りをビールで食べたあと、
「大将、今日のお勧めは?」
「ブリですね」
「もらうよ」
「はいよ」
僕は握りを食べたあとに造りを食べる習慣だった。
「うまいね」
「ありがとうございます」
「豊漁なのかな?」
「ええ」
「航はどうしてた?」
「出発前日にお見えになってました。二年前から味が上がってたらいいなと」
「そりゃそうだ」
僕が燗で造りを食べて店を出る際、大将が、
「そうそう、いい小説を書いてほしいと言い残されましたよ」
「がんばるよ」
翌日からツーリングサークル小説に取り掛かった。学生が主人公の青春小説だ。
学生の背景や、ツーリングサークルの由来、活動の経緯、友情、恋愛、そういったものを少しずつ書き進める。時折筆が止まるとビールを飲みながら煙草を吸う。おおかた二、三本吸って、ビールを空けたところで筆が進みだす。それを毎日繰り返し、そうして小説は完成に近づく。いつもそういう執筆パターンだ。
そうして短いながら脱稿して読み直し、どうだろう、大賞は無理か、ならまた佳作止まりかなどと考えながらベッドに向かった。
航が遠征から帰って来た。燗で顔を赤らめている。
「どうだった東北?」
「そうだね、いい新店もいくつか開店していたし、前進は見られたよ」
「よかった」
僕はお疲れさまと燗を奢った。
「あんたは小説、どうだい?」
「一作書き上げたところさ」
「賞に応募するんだろう」
「そうだね」
「大賞がとれればいい」
「望むらくはね」
大将のその日のお勧めのホタテの造りを二人して食べ、そうして別れた。
帰ったら女子大生からメールが届いていた。
私は家族の話を思いついて書き進めている、あまり恵まれた生まれではないので書くのが辛いときもあるがなんとかしのいでいる、あなたはどうですかとあった。
僕は学生のツーリングサークルの小説を仕上げた、短編なのであまりいい評価は受けないだろうと思うがこれが今の僕の精一杯だ、さっそく応募するよと返事を書き、そうして応募した。
久しぶりに京都に出て本屋に向かうことにした。今度はエンタメ小説だけでなく、文学小説も回ることにした。大量の本を仕入れたあといつものラーメン屋に向かったが、昼食時を避けたのに長い行列ができていた。
諦めて京都駅でビールを買い、奈良行の特急に乗って飲んだ。
買った本を読もうかと思ったが気が進まず、つらつらと考えた。航のことや応募した作品のこと、姪のことや唯との今後のことだった。
どれもこれも考えが定まらず、二本目のビールを空けると眠たくなり、そうして少し眠ったあと帰宅した。
新しいエンタメ小説を書き始めた。双子の姉妹が主人公の学園物で、似たような小説があったような気もしたが、構わず書き進めた。
毎日少しずつアップする。反応は悪くない。読者層は若者で、彼らに好まれる話ならわきまえている。
魚河岸は、完成させるまで行かないことに決めた。航は今度は東海地方に出かけている。
愛知や静岡などのラーメンのレビューが毎日アップされる。味は東京や近畿に匹敵していると褒めてあり、よかったなと思った。
昼食に近くのラーメン屋に出かけた。大手チェーン店だ。航はやめとけあんなまずい店と言うのだが、僕は好きでたまに通う。
昼食時から少したった頃に出かけ、チャーシュー麺の大盛とビールを頼んだ。食後にチャーシュー盛り合わせで冷酒を飲みながら小説の出来を考え、まあ及第点だろう、いつも通りだ、すごいエンタメ小説というものは俺には書けないなどと考えた。
ツーリング小説は編集者たちにどう評価されるだろうかと考えた。自分ではそう悪くないものを書いたつもりだった。
唯はいい家族小説を書けているだろうか? あれっきり連絡を取っていない。
勘定をすませ、川べりの道を散歩がてらぶらぶらと歩いて帰った。
一か月ほどかけて小説を完成させ、その夜、魚河岸に出かけた。
航はいつも通り赤い顔をしてカウンターで冷酒を飲んでいた。
「東海遠征どうだった?」
「いつも通りうまかったよ。あの地域はいい店が多い」
「ジンクス通りだね」
「そうさ」
航は冷酒を注ぎながら、
「あんたはいい小説が書けたかい?」
「学生のツーリングサークルの話を書いたよ」
「文学賞に応募したかい?」
「ああ。でもたぶんだめさ」
「そんなことないさ」
僕は寿司をつまみながら、
「相談したいことがあるんだ」
「……。女の子?」
「ああ」
「俺は女のことはからっきしだめなんだ」
「じゃあやめておく」
「そうして。すまない」
僕は帰還祝いに、アワビの造りを二人前注文して航に振る舞った。
航は食べながら、
「女の子のこと、きっとうまくいくさ」
「だったらいいね」
大将が、二人の帰還祝いだとあん肝をサービスしてくれた。航は縁起がいいねと喜び、そうして僕たちは別れた。
しばらく次のアイデアが出るまで待とうと思い、小説投稿サイトを開いた。いろんな小説が上がっており、そのほとんどがエンタメ小説だ。
ランキング上位の小説をぱらぱらと読み、いいのも中にはあるなと感じた。
サイトの主催する小さな小説賞が毎月開かれ、入賞を目指して作家たちは切磋琢磨する。僕もかつては応募していたが、不本意な落選が続いてやめたのだった。
唯のことが思い出され、メールをしようかと思ったがやめた。そうしてビールを飲みながらうとうとし、そのうち寝た。
航が連載を持っている奈良のタウン誌を買って読んだ。
お勧めのラーメン屋が紹介されており、なるほど記事を読むと食べに行きたくなるのだった。暇つぶしに隣町のその店を訪ねることにした。
昼下がりに向かったが軽い行列ができており、航の記事の影響じゃないかと思った。
少し待って入店し、チャーシュー麺の大盛とビールを注文した。僕はラーメン屋では必ずそうするのだった。
うまくて、航が記事に取り上げるだけのことがあると感心した。
そうしてこれもいつも通り、ラーメンのあとチャーシュー盛り合わせと冷酒を注文して飲み、次の魚河岸で航に感想を話そうと思った。
学生時代に付き合った恋人の記憶が時折甦る。いやなものだ。
もう結婚はしまいと思っていたが、唯が現れて揺らぎ始めた。
唯は僕に好意をもってくれている様子だ。僕はそれに応えるべきだろうか。
出会わなければよかった、連絡先など交換しなければよかったと少し思い、打ち消した。
そうしてウイスキーの小瓶を買ってあったのを思い出して煽り、そうして寝た。
唯からメールが着た。
小説を完成させて応募した、大賞は獲れるかどうかわからないが、もう一度佳作に入るくらいはできると思う、編集者が、出来次第では前の作品と併せて出版すると言ってくれている、あなたとお会いできないかとあった。
僕は少し迷い、そうして返事は出さないことにした。
ウイスキーを煽り、そうして寝た。
魚河岸に向かうと航はいなかった。大将に訊くと、最近あまりお見えになりませんがどうかしたんでしょうかとのことだった。
僕は一人でカウンターに座り、ビールで握りをつまんだ。いつも通りテーブル席はほぼ埋まっている。
「大将、航はどうしてラーメンブロガーになったんだろうね」
「ラーメンが好きだったからだとおっしゃってましたよ」
「それだけ?」
「好きなだけラーメンを食べられるから、そうして日本中のラーメンを食べられるからと」
「ふうん」
「……。あと、人と口を利かなくてすむ仕事だからと」
「そうなの?」
いつも明るい航らしくないと思ったが、口にしなかった。
「いろいろあるんだね」
「そうみたいです」
「今日はあん肝ある?」
「ありますけど、サービスします」
「いいよそんなの」
「いえ結構です」
大将は大盛にしてくれ、そうして僕は冷酒と併せて食べた。
そうして一人きりのカウンターでつらつらと考えて、そうして切り上げて帰って寝た。
季節が進み文学賞の発表があって、僕の小説は大賞に選ばれ、編集者が出版を打診したのでもちろんお受けしますと答えた。打ち合わせの席で唯の小説について尋ねると編集者は、彼女は応募を取り消したと答えた。
僕は小説の改稿や打ち合わせで忙しくなった。
これから僕はどんな小説を書くんだろうと思った。文学作家デビューをしてしまった、多分文学小説を書くんだろうと思った。
長いエンタメ小説家時代は終わりを告げるということだと悟った。そうして京都の書店に出かけ、文学小説をたくさん買い込んだあとラーメン屋に寄り、酒を飲みながら文学作家として大成できますようにと祈った。
魚河岸に向かうと、航がエイヒレをあてに燗を飲んでいた。
僕はいつもの通り隣に座り、おまかせ寿司とビールを注文した。
「小説の調子はどうだい?」
「それが進展があってね」
僕は事情を説明して、文学作家デビューを果たしたと話した。
「よかった。あんたならできると思ってたよ」
航は喜び、燗を振舞ってくれて祝杯を挙げた。そうしてその日のお勧めのカンパチの造りも奢ってくれた。
「航のほうはどうだい?」
「ああ、ブログの読者数は安定しているね。あと、タウン誌の原稿執筆だね」
「うらやましい」
「そんなに儲からないぜ」
航は笑った。そうして、
「まあ好きなラーメンを好きなだけ食べられるから」
「幸せ者だ」
「ああ」
航はしばらく沈黙したあと、
「東京に出ようかと迷ってるんだ」
「遠征かい?」
「いや、東京で勝負しようかと思って」
「そりゃいい。けど寂しくなるね」
「あんたも一緒に東京に行かないか?」
「……。俺は奈良を離れる気はないんだ」
「そう。でもまだ決めたわけじゃないんだ」
出版された小説はそこそこ売れ、まずまずのデビューとなった。僕のエンタメ小説をネットで読んでくれていた若者たちがよく買ってくれている様子だった。
編集者が、僕が小説投稿サイトに掲載していたエンタメ小説のいくつかも出版しないかと打診し、それらもぼちぼち売れた。
文学賞への応募を勧めてくれた学生時代の友人と、報告を兼ねて食事をした。
デビュー作となった著書を渡すと友人はぱらぱらと読み、
「そうかよかった、お前ならやれると思っていた」
「運が良かったのさ」
「いや実力だ。面白そうな小説だな。すぐ読むよ」
友人は褒め、そうして、
「東京には出ないのか?」
「どこででもできる仕事だからさ。奈良にいようと思って」
「それもそうだな。じゃあそうしろ」
友人はそうして、
「結婚はしないのか?」
「しない」
「そうか。それもいい」
友人はお祝いに勘定を持つと言ったが、僕は著書の初めてとなる印税から持つと答えた。
友人は別れ際に、
「ご馳走になったな。小説頑張れ。いい小説を書いてくれ」
「うん」
航が東京に向かう前日、魚河岸に向かった。航はいつものように燗で顔を赤くしていた。
「さびしくなるね」
僕が言うと、
「俺もさ」
「今日は俺のおごりだ」
「いいよそんなの」
「いやそうする」
大将が顔を出し、今日はお代は頂きませんと言って去っていった。
僕たちは握りをつまみ、しばらく沈黙した。
「ブログ、これからもずっと読むよ」
「ありがとう」続けて、
「もう向こうのタウン誌やローカルテレビと話が進んでいるんだ」
「そりゃよかった」
大将がアワビの造りをサービスしてくれたのでつまみながら、
「俺は好きなラーメンでどうやら一生しのげそうなことを幸せに思っているんだ。あんたは?」
「そうだね、俺もどうやら小説でしのいで行けそうなことに感謝している」
「じゃあ俺たちは幸せ者の二人だ」
「そうだね」
僕たちは大将に礼を言い、そうして別れた。
帰ると姪から手紙が着ていた。
“寺に出家をすることにしました。尼さんデビューですね。もうおじさんともお会いすることはないでしょう。おじさんとの最後のドライブ楽しかったです。お幸せに”
僕は冷蔵庫からビールを取り出し、煙草に火をつけてもう一度手紙を読み返した。
そうして諦めてウイスキーに切り替え、そうしてしばらく飲んでから寝た。
特に売れないがさっぱりとも言えない作家稼業を今も続けている。
名作を書きたいという思いはなく、そこそこの作家稼業を淡々と続けていこうと思っている。
航は東京での仕事が軌道に乗り、東京近郊のラーメン屋の紹介が中心になったブログは読者がずいぶん増えたらしい。
尼さんになった姪は音信不通だが、兄によると元気でやっているらしい。
今でも魚河岸にはたまに通う。
そうして航のいなくなったカウンターで、今日も一人燗を飲む。
京都の私大の大学院に通う姪が突然、休学してそこで修行したいと言い出したらしく、姪の父である京都の兄から電話があって、最寄りの駅から寺へ送り届けてやってほしいと連絡があった。
僕はネット小説家をしていて特に用事がある日というものもなく、いつでも大丈夫だよと兄に返事をした。
そうして間もなく兄から連絡があり、春のある晴れた日に、姪を車で寺まで送り届ける仕事を仰せつかったのだった。
「久しぶりだね」
駅前のロータリーで姪を拾い、最初の信号待ちで話しかけた。
「長らく奈良に顔を出さずすみません」
「いやいいんだよ」
最後に顔を合わせたのは姪が大学生になったころだっけと思い返した。
「おじさん、年を取ったかな?」
僕がおどけると、
「全然」
姪は笑った。
「おじさん、小説書いてるんですって?」
「大学を出てから会社で失敗したんだよ。それでしかたなく」
「でも成功しているんでしょう」
「ぼちぼちだよ」
失敗というわけではないが大成功とも言えず、ぼちぼちやっている。
僕はあまり勤めに向かないようで、勤めが苦になり三年で退職し、今は小説投稿サイトに若者向けのエンターテイメント小説を書いて、その広告料収入で糊口をしのいでいる。
「大学時代は楽しかったかい? 今は大学院なんだろう」
「ダンスサークルが楽しくって。創作ダンスを学園祭で踊るの。私の人生で一番の思い出」
「そりゃ楽しそうだ。僕の大学でもそうだったな。ダンスサークルの学生が学園祭のステージで踊ってた」
「どこもそうなんですね」
僕もそれを見てダンスサークルに入りたいと思ったのだが、結局入らずじまいだった。
「ダンスをしていたらよかった。ヒップホップとかいうのかな」
「そう、男の子はヒップホップでした」
遠い思い出だ。ぶかぶかの衣装を着るんだっけ。今もそうなんだろうか。
「結局、散策サークルに入って辺りを遠足していた」
「女の子が目当てだったんでしょう、おじさん」
「そういやそうだったかな」
笑って答えた。
「おじさん、いまだに親と三人暮らしの身だよ」
おどけると姪は笑った。
「おじさん、結婚しようと思ったらいつでもできるんでしょう?」
「稼ぎが悪くてとうてい無理さ」
そうでもなかったが答えた。姪は何も言わなかった。結婚は、サークル時代の恋人と別れて以来、しないと決めている。
駅から寺までは一時間ほどだろうと見計らっていたが、観光シーズンに入り、道は若干混んでいた。
僕たちはしばらく黙って車を走らせたが、僕はやはり訊かない訳にもいかないと思い、
「ところでどうして修行に?」
姪はしばらく黙り、そうして、
「男の人」
「そうなの?」
「うん。いっぱいひどいこともしたしされたし」
「若い頃にはよくあることさ」
「そう? おじさんにもあった?」
「あったとも」
あまり思い出しもしないが、なかったとも言えない。
「一度いろんなことを遠くから見て整理したくって」
「そりゃいいことだ」
「本当にそう思う?」
「うん」
尼さん修行なら剃髪するのだろうか? 僕も三十歳を過ぎてからはなんとなく頭は丸めている。
「おじさん、坊主頭がわりあい似合ってるわよ」
「ありがとう」
二人して笑った。
「修行は何年?」
「三年の予定」
「長いね」
「途中で逃げ出すかも」
「辛抱しなきゃ」
尼さん修行というものは身近に聞かない話だった。
寺に着くと庭にいた尼さんが近づいてきて、ようこそお越しくださいました、男性は入寺禁止ですので、ここでお帰り下さいと話して姪を引き取り、僕は寺を去った。
帰って夕食を終えると僕は机に向かい、通算五作目となるエンタメ小説の続きに取りかかった。
ネット小説家稼業はかれこれ五年になる。
文学小説を書いて文学賞に応募したものの落選した小説を小説投稿サイトに載せたのが取っ掛かりで、賞の不本意な落選が続いてからはもう応募するのも面倒くさくなり、書いた小説は片っ端からサイトにあげ、そのうち若者向けのエンターテイメント小説のほうがずっと反響があるとわかってからは、そっちの方に専念するようになった。
そのうち慣れてきて腕も上がり、まあまあの収入が入るようになった。
おおかたが手堅い人気のある学園物で、読者が一人でも多くつく作品作りに専念していた。
300枚ほどの中編を脱稿した日の夕方、久々に馴染みの寿司屋、魚河岸(うおがし)に向かった。
自宅暮らしで、受け取った報酬を煙草と酒以外に使うのは、魚河岸通いと本代くらいだ。
店に入るといつものように航がカウンターで、燗で顔を赤くしていた。
「まいど! いらっしゃい」
大将が元気よく声をかける。
「まいど!」
僕も大きく答え、黙って航の隣に座った。
「いつもの。あと生中」
「はいよ」
僕はいつもまず、その日のおまかせ握りを注文する。
「今日の店はどうだった?」
航に尋ねた。
「御所(ごせ)に鳥白湯の新店ができてさっそく見に行った。まあまあだった」
「悪くないじゃないか。御所にラーメン屋なんて少ないんだろう」
「そうだね。まだ底上げもできそうなスープで、今後に期待するとしておいたよ」
航は、職業としては珍しいラーメンブロガーで、毎日一店舗はラーメン屋を巡ってレビューを書く。ブログ運営サイトからの広告料収入が主な稼ぎで、あとはタウン誌に寄せるラーメン記事の原稿料収入でやっている。
魚河岸で出会うまで航のことは知らなかったが、知り合って以来、僕は毎日アップされる航のラーメンレビューを読んで、県下やその他、全国各地のラーメン屋に思いを馳せるようになった。
「乾杯!」
生中とお猪口で乾杯し、
「今月も何とかしのげたよ」
僕が言う。
「ずいぶん儲けてるくせに」
「人気ラーメンブロガーほどじゃないぜ」
「俺こそブログ読者は頭打ちさ」
「高位安定だろう」
「だったらいいんだけど」
僕はすぐにビールを飲み干してもう一杯注文した。脱稿後のビールはうまい。
「このあいだ、東京遠征に行ってね」と航。
「東京のラーメンはどうなの?」
「やっぱり首都だけあって競争が激しいのか、レベルが他府県とは段違いだよ」
「そういうものなの? 東京人は幸せだね」
「でも淘汰が激しくて。まあまあくらいのラーメン屋がすぐ潰れていたりする」
「厳しいんだね、東京」
二杯目の生中に口をつける。そうして握りに箸を伸ばした。
客の入りは上々だが、テーブル客が多くてカウンターは僕たち二人だけだった。これも僕たちがこの店を好む理由の一つだった。
握りを食べたあと、その日のお勧めのマグロの造りをつついていると、大将があん肝をサービスしてくれたので口にするとうまかった。
「大将、これも注文させて」
「はいよ」
燗で造りを楽しんだあと、僕たちは再会を約して店を出た。
文学小説はしばらく読んでいないしもちろん書いてもいない。読者の多いエンターテイメント小説のほうが小説の今の王道なのではないかと思うようになっていた。
たまに近くの書店で文芸誌をパラパラとめくるものの気が進まず戻し、結局はエンターテイメント小説誌を買って参考にすることが多い。
売れっ子エンターテイメント作家という人たちがいる。次々ヒット作を生み出し、こうありたいものだと尊敬すらする。こういう人たちは文学小説を書かせても一流になるのではないかと思うが、ポリシーがあるのだろう。
僕も習って、そうしてエンターテイメント小説業界の末席を汚しているのだった。
時折京都の大型書店に出かけ、時間をかけて小説を物色する。ネット書店ですませる人も多いのだが、僕は自分の目で確かめながら棚を回るのが好きなのだった。
エンタメ小説の新作を物色する。大御所に加えて新人の小説がパラパラと棚を飾っていた。
買い物を終えるとひいきのラーメン屋に向かう。行列のできる時間を外し、そうしてチャーシュー麺の大盛とビールを頼む。そうして気分よく駅に向かうのだった。
思いついて大きなエンターテイメント小説の賞に挑戦することに決め、いつもの学園物の執筆に取りかかった。だが、書き始めてああ駄目だ、これじゃあ前作の焼き直しだなどと書き直しているうちに、以前読んだ高校生の部活を舞台にした文学小説を思い出し、それじゃあエンタメにならないと思ったが、こういう感じで昔入っていた小学生の頃のバレーボール部を舞台にした小説を書こうと思い立ち、取りかかった。
恋愛要素は入れようか? 小学生にも恋愛感情はある、女子のバレーボール部員や同級生、あるいは教育実習に来る大学生を好きになることもあるだろう、いずれかで取り入れて、かつて鍛えられたスパルタ強豪バレーボール部の二年間を描こうと決意した。
150枚を目途にしたが、30枚ほどで筆が止まり、魚河岸に出かけることにした。航は今日も燗で顔を赤らませていた。
「どうだい小説のほうは?」
航が尋ねる。
「新作を書き始めたよ」
「エンタメ?」
「文学寄りかな、あれじゃあ」
「舞台は?」
「小学校のバレー部。昔やってたんだ」
「小学生の小説でも読まれるの?」
「エンタメじゃあ苦しいかもね。文学賞にでも応募しようかと思ってさ。ポリシーには反するんだけど」
「そりゃいい。文学、結構じゃないか」
「そうだね」
僕はビールを飲み干すと燗を頼み、握りに取りかかって、
「久しぶりに京都に出たら外国人だらけだったよ」
「俺もびっくりした。それでラーメン屋には寄ったかい?」
「寄った。いつも通りうまかった」
「日本にはまだまだうまいラーメン屋がある」
「俺もやってみたいな、ラーメン屋巡り」
「毎日ラーメンばっかり食べるのは、わりあい大変なんだぞ」
「それはそうだろうね」
好物のはまちの造りを二皿頼んで航にも振る舞った。
「こりゃありがたい。小説うまくいくといいな」
「賞は無理だろうけど」
「そんなことないさ」
姪から手紙が着た。
“先日はお寺まで送っていただいてありがとうございました。毎日が修行の日々で充実しています。学生時代や幼少期に渡り、いろんなことを思い出して整理しています。頭はもちろん丸めました。修行が終わった日に、またお寺から駅まで送ってください。楽しみにしています”
とあった。
僕は、それは良かった、大変だろうけど頑張って、送りの件は了解です、三年後に再会できることを楽しみにしていますと返事を書いた。
僕が送っているのは作家修業の日々というものなんだろうけど、姪の人生修行というものはどういうものなのだろうかと気になったが、訊かなかった。そうして書きかけの小説の筆を進めた。
一日の始まりは、小説投稿サイトに掲載してある小説の、前日の閲読者数のチェックから始まる。たくさん読まれているとうれしいし、少ないとがっかりする。要因を考え、小説の続きや次の小説に反映させる。
対象が若者なのであまりお金を使わせたくなく、彼らが無料で読める今のネット小説家という職業を好ましく思っていた。
エンタメ小説はわりあい早く書き進められるが、文学寄りとなるとそうも行かずに難渋することが多い。が、ようやく小説を書く筆が少しずつ進み始めた。
僕のバレーボール部では監督やコーチによるビンタが横行していたが、それを書くのは今の世の中まずいのではないかと思われ、なにより暴力シーンは極力書かないポリシーで今までやって来たのだが、やはり今回は入れておくべきではないかと思われて、エースの少年がスパイクの失敗を続けて試合中に涙ぐみ、それを監督が怒って試合後にビンタしたという実話に基づくシーンを入れた。
100枚を越えたところで魚河岸に向かうと航は珍しくおらず、カウンターに他の客もいなかった。
「大将、最近お客さんはどう?」
「増えてきてますね。最近はインターネットの口コミを見て遠くから来て下さる方が多くて」
「僕も一度、褒める記事を投稿したよ。あんなのが関係するんだね」
「ありがとうございます。わりに褒めてくださるお客さんが多くて」
「この店は僕の憩いの場だよ。それで航は?」
「四国を回るとか言ってました」
「そう。またレビューが楽しみだね」
「私もあれ、楽しみにしてるんですよ」
握りのあと、豊漁だというカツオの造りで燗を飲み、そうして店を出た。
100枚からパタリと筆が止まった。思い出がそこいらで枯渇してしまい、想像でしか書くことができなくなった。
姪のことが思い出され、尼さん修行というものは辛いだろうか、たぶん辛くない修行というものはないだろう、兄や兄嫁はどういう思いで姪を送り出したろう、反対したのではないか? のちの就職活動に悪い影響を与えないだろうか、与えるに決まっている、まあ僕も新卒の会社をすぐに辞めた身だから人のことは言えない、そんなことを考えていると、ちょうど練習試合でミスを重ねて監督にビンタされた思い出がよぎり、やはりそれもひとつ書いておこうと、そこから作品を書く筆が進みだした。
航の四国遠征の記事が載り始めた。
“四県をもれなく回る長旅だが、二年前の遠征時より格段に各店の味は上向いており、四国ラーメン界の未来は明るい”などと、いくぶん興奮した様子で書かれてあった。
以前航が、ラーメンの質は都会度にほぼ比例すると話していたことを思い出し、四国よかったな、そのジンクスを破れればいいなとささやかに喜んだ。
俺もいずれ航の遠征に同行させてもらおうか日本中のラーメン屋巡り、いや航は、遠征中は最低、昼と夜の二食はラーメンだ、朝からやっている店があれば三食ともラーメンだと話していたことがあり、それはさすがにと思ったところで小説投稿サイトを開いた。
掲載してある小説の閲読者数は時間と共に減っていく。しばらく新作をアップしていない。読者が減っている、いけない早くバレー小説を終わらせて次のエンタメ小説を書かなくてはならないと焦り、魚河岸に言って気分転換しようか、いや航もいないことだしここで踏ん張ろうと机に向かった。
学生時代の友人と久しぶりに食事をした。友人は会社員をしている。
「小説は順調か?」
「ああ。エンタメ小説が若い子に読まれて収入もぼちぼちさ」
「そりゃいい。普通の小説は書かないのか?」
「エンタメの方がよく読まれるんだ」
「普通の小説も合間に書いて、文学賞に応募してみなよ」
友人は勧めた。
「今書いている最中のがあって。小学校のバレー部の話」
「そりゃいい。受賞を狙え」
「いや別にそんなもの今更どうでもいいんだよ、糊口さえしのげれば」
「そんなこと言うな」
友人は、早くに係長になれたので今日は俺の奢りだと振舞ってくれた。
「受賞楽しみにしているぞ。その時はもっと高い食事をご馳走するさ」
「いやはや」
バレーボール小説を無事脱稿し、応募する文学賞をネットで吟味したあと魚河岸に向かった。航は四国遠征から帰って今日も燗を飲んでいた。
「四国ラーメン、上々だったみたいだね」
「ブログ読んでくれたかい。味は大幅に上がっていたんだ」
「どうしてだろうね?」
「もちろん職人が味を見直して改良したんだろうが、どうして四国なのだかはわからない」
「何だか意識を高く持っているんだろうね」
「そういうことさ」
帰還祝いに燗を振舞い、乾杯をした。
「バレー小説、順調かい?」
「さっき脱稿したばかりなんだ」
「そりゃよかった。賞に応募するんだろう」
「一応」
「どうして一応?」
「いまさら賞なんて欲しくもないし、貰える見込みもないし」
「そんなこと言うな」
「まあそうだね」
今日はてっさがあるというので、航は二人分注文して振舞ってくれた。
「今日は前祝だ。きっと賞は獲れるさ」
「だといいね」
帰宅してから、見繕った文学賞にネットで応募し、疲れがたまっていたかすぐに布団に入って寝た。
結果が出て、佳作入賞だった。授賞式をやるから東京に出てこいとあり、僕は会社員時代のスーツや革靴を準備した。
会場で受賞者は壇上に並んで座り、表彰状授与のあと順番にスピーチをした。僕は、普段はエンタメ小説しか書かないので久しぶりの文学小説で受賞できたのは僥倖ですなどとあいさつをした。
佳作入賞の一人は大学生の女の子で京都の人だったので、帰りの新幹線の隣に座り、多少の身の上話をしてメールアドレスを交換した。
そうして駅で別れ、僕は帰ってすぐに寝た。
次の魚河岸で航に結果を報告すると航は喜び、燗をごちそうしてくれた。
「よかった、あんたなら獲れると思ってた」
「佳作止まりなんだけど」
「いや充分だよ。これで文壇デビューだ」
「そこまでは」
僕は賞金の十万円から航に、ふぐの唐揚げをご馳走した。
「航が勧めてくれたおかげさ」
「あんたなら文学の世界でもどこでもやっていけると思ったからさ」
帰ると、例の女子大生からメールが入っていた。
僕たちはメールで食事の約束をし、そうしてすぐに寝た。
それからしばらく僕は、次は何を書こうかと思案した。やはりスパルタだったがり勉高校時代を少し思い出したが、小説にはならないだろうと思った。
思えば学園物中心のエンタメも五作を越え、ややマンネリ気味になっていた。さりとて僕は、自分はエンタメ小説家だと自負していたところなので、ここで文学作家志望に舵を切るのは抵抗がある。まあ思いつく題材によりけりだとしばらく休養することにした。
女子大生と映画を見に行き、レストランで食事をした。彼女は唯といって女子大の三回生だった。
「そろそろ就職活動だね」
「私、作家を目指すのでやらないんです」
「そうなの」
「駿さんはこれから何を書くんですか?」
「手詰まりでね。なにか浮かぶのを待っているところ」
「一緒に今度は大賞を目指して頑張りません?」
「…‥。そうだね」
家に帰って、授賞式で貰った、彼女の書いた小説を読んだ。若者の群像劇で、なかなかうまいものだと感心し、僕は学生時代に少し参加したツーリングサークルを次の小説の舞台にしようと思いつき、そうしてあらすじを考えながら寝た。
魚河岸に出かけた。航は東北遠征に出かけて不在だった。
握りをビールで食べたあと、
「大将、今日のお勧めは?」
「ブリですね」
「もらうよ」
「はいよ」
僕は握りを食べたあとに造りを食べる習慣だった。
「うまいね」
「ありがとうございます」
「豊漁なのかな?」
「ええ」
「航はどうしてた?」
「出発前日にお見えになってました。二年前から味が上がってたらいいなと」
「そりゃそうだ」
僕が燗で造りを食べて店を出る際、大将が、
「そうそう、いい小説を書いてほしいと言い残されましたよ」
「がんばるよ」
翌日からツーリングサークル小説に取り掛かった。学生が主人公の青春小説だ。
学生の背景や、ツーリングサークルの由来、活動の経緯、友情、恋愛、そういったものを少しずつ書き進める。時折筆が止まるとビールを飲みながら煙草を吸う。おおかた二、三本吸って、ビールを空けたところで筆が進みだす。それを毎日繰り返し、そうして小説は完成に近づく。いつもそういう執筆パターンだ。
そうして短いながら脱稿して読み直し、どうだろう、大賞は無理か、ならまた佳作止まりかなどと考えながらベッドに向かった。
航が遠征から帰って来た。燗で顔を赤らめている。
「どうだった東北?」
「そうだね、いい新店もいくつか開店していたし、前進は見られたよ」
「よかった」
僕はお疲れさまと燗を奢った。
「あんたは小説、どうだい?」
「一作書き上げたところさ」
「賞に応募するんだろう」
「そうだね」
「大賞がとれればいい」
「望むらくはね」
大将のその日のお勧めのホタテの造りを二人して食べ、そうして別れた。
帰ったら女子大生からメールが届いていた。
私は家族の話を思いついて書き進めている、あまり恵まれた生まれではないので書くのが辛いときもあるがなんとかしのいでいる、あなたはどうですかとあった。
僕は学生のツーリングサークルの小説を仕上げた、短編なのであまりいい評価は受けないだろうと思うがこれが今の僕の精一杯だ、さっそく応募するよと返事を書き、そうして応募した。
久しぶりに京都に出て本屋に向かうことにした。今度はエンタメ小説だけでなく、文学小説も回ることにした。大量の本を仕入れたあといつものラーメン屋に向かったが、昼食時を避けたのに長い行列ができていた。
諦めて京都駅でビールを買い、奈良行の特急に乗って飲んだ。
買った本を読もうかと思ったが気が進まず、つらつらと考えた。航のことや応募した作品のこと、姪のことや唯との今後のことだった。
どれもこれも考えが定まらず、二本目のビールを空けると眠たくなり、そうして少し眠ったあと帰宅した。
新しいエンタメ小説を書き始めた。双子の姉妹が主人公の学園物で、似たような小説があったような気もしたが、構わず書き進めた。
毎日少しずつアップする。反応は悪くない。読者層は若者で、彼らに好まれる話ならわきまえている。
魚河岸は、完成させるまで行かないことに決めた。航は今度は東海地方に出かけている。
愛知や静岡などのラーメンのレビューが毎日アップされる。味は東京や近畿に匹敵していると褒めてあり、よかったなと思った。
昼食に近くのラーメン屋に出かけた。大手チェーン店だ。航はやめとけあんなまずい店と言うのだが、僕は好きでたまに通う。
昼食時から少したった頃に出かけ、チャーシュー麺の大盛とビールを頼んだ。食後にチャーシュー盛り合わせで冷酒を飲みながら小説の出来を考え、まあ及第点だろう、いつも通りだ、すごいエンタメ小説というものは俺には書けないなどと考えた。
ツーリング小説は編集者たちにどう評価されるだろうかと考えた。自分ではそう悪くないものを書いたつもりだった。
唯はいい家族小説を書けているだろうか? あれっきり連絡を取っていない。
勘定をすませ、川べりの道を散歩がてらぶらぶらと歩いて帰った。
一か月ほどかけて小説を完成させ、その夜、魚河岸に出かけた。
航はいつも通り赤い顔をしてカウンターで冷酒を飲んでいた。
「東海遠征どうだった?」
「いつも通りうまかったよ。あの地域はいい店が多い」
「ジンクス通りだね」
「そうさ」
航は冷酒を注ぎながら、
「あんたはいい小説が書けたかい?」
「学生のツーリングサークルの話を書いたよ」
「文学賞に応募したかい?」
「ああ。でもたぶんだめさ」
「そんなことないさ」
僕は寿司をつまみながら、
「相談したいことがあるんだ」
「……。女の子?」
「ああ」
「俺は女のことはからっきしだめなんだ」
「じゃあやめておく」
「そうして。すまない」
僕は帰還祝いに、アワビの造りを二人前注文して航に振る舞った。
航は食べながら、
「女の子のこと、きっとうまくいくさ」
「だったらいいね」
大将が、二人の帰還祝いだとあん肝をサービスしてくれた。航は縁起がいいねと喜び、そうして僕たちは別れた。
しばらく次のアイデアが出るまで待とうと思い、小説投稿サイトを開いた。いろんな小説が上がっており、そのほとんどがエンタメ小説だ。
ランキング上位の小説をぱらぱらと読み、いいのも中にはあるなと感じた。
サイトの主催する小さな小説賞が毎月開かれ、入賞を目指して作家たちは切磋琢磨する。僕もかつては応募していたが、不本意な落選が続いてやめたのだった。
唯のことが思い出され、メールをしようかと思ったがやめた。そうしてビールを飲みながらうとうとし、そのうち寝た。
航が連載を持っている奈良のタウン誌を買って読んだ。
お勧めのラーメン屋が紹介されており、なるほど記事を読むと食べに行きたくなるのだった。暇つぶしに隣町のその店を訪ねることにした。
昼下がりに向かったが軽い行列ができており、航の記事の影響じゃないかと思った。
少し待って入店し、チャーシュー麺の大盛とビールを注文した。僕はラーメン屋では必ずそうするのだった。
うまくて、航が記事に取り上げるだけのことがあると感心した。
そうしてこれもいつも通り、ラーメンのあとチャーシュー盛り合わせと冷酒を注文して飲み、次の魚河岸で航に感想を話そうと思った。
学生時代に付き合った恋人の記憶が時折甦る。いやなものだ。
もう結婚はしまいと思っていたが、唯が現れて揺らぎ始めた。
唯は僕に好意をもってくれている様子だ。僕はそれに応えるべきだろうか。
出会わなければよかった、連絡先など交換しなければよかったと少し思い、打ち消した。
そうしてウイスキーの小瓶を買ってあったのを思い出して煽り、そうして寝た。
唯からメールが着た。
小説を完成させて応募した、大賞は獲れるかどうかわからないが、もう一度佳作に入るくらいはできると思う、編集者が、出来次第では前の作品と併せて出版すると言ってくれている、あなたとお会いできないかとあった。
僕は少し迷い、そうして返事は出さないことにした。
ウイスキーを煽り、そうして寝た。
魚河岸に向かうと航はいなかった。大将に訊くと、最近あまりお見えになりませんがどうかしたんでしょうかとのことだった。
僕は一人でカウンターに座り、ビールで握りをつまんだ。いつも通りテーブル席はほぼ埋まっている。
「大将、航はどうしてラーメンブロガーになったんだろうね」
「ラーメンが好きだったからだとおっしゃってましたよ」
「それだけ?」
「好きなだけラーメンを食べられるから、そうして日本中のラーメンを食べられるからと」
「ふうん」
「……。あと、人と口を利かなくてすむ仕事だからと」
「そうなの?」
いつも明るい航らしくないと思ったが、口にしなかった。
「いろいろあるんだね」
「そうみたいです」
「今日はあん肝ある?」
「ありますけど、サービスします」
「いいよそんなの」
「いえ結構です」
大将は大盛にしてくれ、そうして僕は冷酒と併せて食べた。
そうして一人きりのカウンターでつらつらと考えて、そうして切り上げて帰って寝た。
季節が進み文学賞の発表があって、僕の小説は大賞に選ばれ、編集者が出版を打診したのでもちろんお受けしますと答えた。打ち合わせの席で唯の小説について尋ねると編集者は、彼女は応募を取り消したと答えた。
僕は小説の改稿や打ち合わせで忙しくなった。
これから僕はどんな小説を書くんだろうと思った。文学作家デビューをしてしまった、多分文学小説を書くんだろうと思った。
長いエンタメ小説家時代は終わりを告げるということだと悟った。そうして京都の書店に出かけ、文学小説をたくさん買い込んだあとラーメン屋に寄り、酒を飲みながら文学作家として大成できますようにと祈った。
魚河岸に向かうと、航がエイヒレをあてに燗を飲んでいた。
僕はいつもの通り隣に座り、おまかせ寿司とビールを注文した。
「小説の調子はどうだい?」
「それが進展があってね」
僕は事情を説明して、文学作家デビューを果たしたと話した。
「よかった。あんたならできると思ってたよ」
航は喜び、燗を振舞ってくれて祝杯を挙げた。そうしてその日のお勧めのカンパチの造りも奢ってくれた。
「航のほうはどうだい?」
「ああ、ブログの読者数は安定しているね。あと、タウン誌の原稿執筆だね」
「うらやましい」
「そんなに儲からないぜ」
航は笑った。そうして、
「まあ好きなラーメンを好きなだけ食べられるから」
「幸せ者だ」
「ああ」
航はしばらく沈黙したあと、
「東京に出ようかと迷ってるんだ」
「遠征かい?」
「いや、東京で勝負しようかと思って」
「そりゃいい。けど寂しくなるね」
「あんたも一緒に東京に行かないか?」
「……。俺は奈良を離れる気はないんだ」
「そう。でもまだ決めたわけじゃないんだ」
出版された小説はそこそこ売れ、まずまずのデビューとなった。僕のエンタメ小説をネットで読んでくれていた若者たちがよく買ってくれている様子だった。
編集者が、僕が小説投稿サイトに掲載していたエンタメ小説のいくつかも出版しないかと打診し、それらもぼちぼち売れた。
文学賞への応募を勧めてくれた学生時代の友人と、報告を兼ねて食事をした。
デビュー作となった著書を渡すと友人はぱらぱらと読み、
「そうかよかった、お前ならやれると思っていた」
「運が良かったのさ」
「いや実力だ。面白そうな小説だな。すぐ読むよ」
友人は褒め、そうして、
「東京には出ないのか?」
「どこででもできる仕事だからさ。奈良にいようと思って」
「それもそうだな。じゃあそうしろ」
友人はそうして、
「結婚はしないのか?」
「しない」
「そうか。それもいい」
友人はお祝いに勘定を持つと言ったが、僕は著書の初めてとなる印税から持つと答えた。
友人は別れ際に、
「ご馳走になったな。小説頑張れ。いい小説を書いてくれ」
「うん」
航が東京に向かう前日、魚河岸に向かった。航はいつものように燗で顔を赤くしていた。
「さびしくなるね」
僕が言うと、
「俺もさ」
「今日は俺のおごりだ」
「いいよそんなの」
「いやそうする」
大将が顔を出し、今日はお代は頂きませんと言って去っていった。
僕たちは握りをつまみ、しばらく沈黙した。
「ブログ、これからもずっと読むよ」
「ありがとう」続けて、
「もう向こうのタウン誌やローカルテレビと話が進んでいるんだ」
「そりゃよかった」
大将がアワビの造りをサービスしてくれたのでつまみながら、
「俺は好きなラーメンでどうやら一生しのげそうなことを幸せに思っているんだ。あんたは?」
「そうだね、俺もどうやら小説でしのいで行けそうなことに感謝している」
「じゃあ俺たちは幸せ者の二人だ」
「そうだね」
僕たちは大将に礼を言い、そうして別れた。
帰ると姪から手紙が着ていた。
“寺に出家をすることにしました。尼さんデビューですね。もうおじさんともお会いすることはないでしょう。おじさんとの最後のドライブ楽しかったです。お幸せに”
僕は冷蔵庫からビールを取り出し、煙草に火をつけてもう一度手紙を読み返した。
そうして諦めてウイスキーに切り替え、そうしてしばらく飲んでから寝た。
特に売れないがさっぱりとも言えない作家稼業を今も続けている。
名作を書きたいという思いはなく、そこそこの作家稼業を淡々と続けていこうと思っている。
航は東京での仕事が軌道に乗り、東京近郊のラーメン屋の紹介が中心になったブログは読者がずいぶん増えたらしい。
尼さんになった姪は音信不通だが、兄によると元気でやっているらしい。
今でも魚河岸にはたまに通う。
そうして航のいなくなったカウンターで、今日も一人燗を飲む。
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