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第十五話 忍び寄る不穏な2

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 昼下がりの裏庭を、薬術の本を片手にミュリエルは歩いている。
 今日はメルヒオルの授業がないため、自習するしかない。
 朝食の席でハインツから、今日はメルヒオルの体調が優れないと聞かされた。だから、どうせなら彼に薬を作ってやろうと考えたのだ。

「ミュリエル、どうしたの?」
「薬草を採りに来たの。メルヒ先生に薬を作ろうと思って」

 声をかけてきたのはリカだった。お仕着せを着崩しているところを見ると、今日もきっと樹妖相手に鍛錬をしていたのだろう。懲りないなあと、ミュリエルは苦笑する。

「薬って、ノミ取りとか?」
「そんなわけないでしょ」
「でも、頭が獣だからノミとかダニに噛まれたりするんじゃないかなって」
「……じゃあ、一応作ってみる」

 リカのことだからてっきり意地悪やふざけて言っているのかと思ったが、意外なことに真面目な顔だ。そんな顔で言われると心配になって、ミュリエルはあわてて手元の本をめくる。

「今日、メルヒの授業ないんだな」
「そうなの。ハインツが言うには、あまり眠れなくて体調が優れないらしくて」

 ミュリエルの隣に腰をおろして見様見真似で草を摘んでいるリカが、ふと考え込むような表情になった。

「……そっか。たまにうなされたりとか眠れなかったりとか、そういうことがあるんだって。そういう日は大抵、部屋で落ち込んでる。夢の中で怖いもの・・・・に追い回されて、憂鬱な気分が抜けないらしいよ」
「怖いもの……」

 リカの口から“怖いもの”という言葉が発せられたのが、ミュリエルは気になった。もう立派な大人であるメルヒオルに怖いものがあるというのも不思議だったのだが、リカの言い方も気にかかったのだ。
 きっと、リカはその“怖いもの”について知っているのだろう。

「あの、リカ」
「ノミ取りの薬と元気になる薬でもつくって持っていってやったら? メルヒ、ミュリエルの顔を見たら、少しはマシになるかも」

 “怖いもの”について尋ねようとすると、リカはパッとミュリエルの手から本を奪った。それからパラパラとめくって、「これこれ」とあるページを指差す。

「風邪薬とか疲労回復の薬とかじゃなくて、この薬がいいと思う。じゃあな」

 言うだけ言うと再び本を押しつけて、リカはそそくさと去っていった。尋ねられたくなかったのだろうと引っかかったが、薬のことも気になった。

「これを作ればいいのね……?」

 名前からして、何だか元気になりそうな薬だった。
 使う材料が特殊だし、少しおっかないものが含まれているが、頑張ってみようとミュリエルは決めた。


 作りたい薬に必要な材料は、とある根菜、油の取れる小さな種、スパイスの一種である球根、毒蛇の内臓だった。
 最後のひとつだけどうしても庭でも森でも発見できず、ハインツに尋ねてみたが入手できなかった。だから仕方なく、入手できたものだけで試みてみた。
 少しずつ様々な薬を作る練習をしているミュリエルだったが、今回作ったものは扱い慣れない材料ばかりで、その予測外のにおいに心が折れかけた。それでも、メルヒオルに元気になってもらいたい一心で、決められた色になるまで鍋をかきまぜ続けた。
 そうして薬ができあがったのは、すっかり日の落ちた夜になってからだ。

「メルヒ先生」
「……ミュリエルかい?」
「はい」

 もしかしたら夕食にも降りてこないのではと思い部屋を訪ねると、メルヒオル自らドアを開けて迎えたくれた。
(……こういうとき、顔色がわかりにくいから獣頭は困るわ)
 弱々しくも微笑みかけてくれる彼を見て、ミュリエルはそんなことを思った。

「先生のお加減が優れないからとハインツから聞いたので、お薬を作ってきたんです。ノミ取りと、元気になる薬です」
「ありがとう」

 クスッと笑ってから、メルヒオルは渡された瓶をしげしげ眺めた。てっきり、ノミ取りの薬に対して反応があると思ったのに、眉間に皺が寄ったのはもうひとつの薬のほうだった。

「ミュリエル、これが何の薬か知ってる?」
「元気になる薬ではないんですか?」
「……まあ、言ってみればそうだが。名前は何と書いてあった?」
「精力増強剤と……」

 ミュリエルが答えると、メルヒオルは深々と溜息をついた。「ミュリエルは知らなくて当然か」とか「こんなことを教えたらリトヴィッツ卿に叱られるんじゃ……」などとブツブツ呟いている。

「あのさ、ミュリエル。精力増強剤っていうのは、その……男の人が元気になるための薬なんだ」
「男の人が?」
「そう……主に夜に、ベッドの上で必要になると言えば、わかるかな……?」
「あ……!」

 メルヒオルの説明で、ようやくミュリエルは理解したらしい。理解した途端、顔を真っ赤にする。

「わたくし、何てものを……! 庭でリカと会ったときにこれがいいんじゃないかと言われて、よく効能を読みもせずに……」
「あいつか」

 あわてるミュリエルに、メルヒオルは苦笑しただけだった。元から、ミュリエルがきちんと薬の効能を理解していたなどとは思っていない。だから、ただ困って、おかしくて笑っている。
 だが、ミュリエルのほうはすっかりしょげでしまっている。せっかくメルヒオルを元気にしようと薬を作ったのに、これでは何の役にも立てない。

「怖いものに追われる夢を見たんじゃないかとリカから聞いて、せめて薬を作りたかったんです。わたくしでは、怖いものをやっつけて差し上げることができませんから……」

 しょんぼりと言うミュリエルに、一瞬メルヒオルはハッとなった。だが、すぐに表情を引き締めてミュリエルの髪を撫でる。

「その気持ちだけで、十分だよ。……私の“怖いもの”は悪いものだから、絶対にミュリエルには近づいてほしくないんだ」
「先生……」
「じゃあ、私はそろそろ眠るよ。明日の授業は、いつも通りできるから」
「はい」

 言外に帰るよう促されているとわかって、ミュリエルは素直に引き下がるしかなかった。
 本当はもっと話したいし顔を見ていたいが、体調の悪い人に無理強いはできない。


「どうだった?」

 寂しい気持ちで夕食の席につくと、リカが面白がるように尋ねてきた。この顔は間違いなく、薬の効能を知っていたのだ。

「……恥ずかしい思いをしたわ。ひどいじゃない」
「ふたりの仲がいい感じになればいいと思ったんだよ」
「よ、余計なお世話よ……」

 リカに冷やかされ、ミュリエルはまた顔を赤くした。そんなふうに言われるとメルヒオルの顔が頭に浮かび、ドキドキして仕方なくなる。しかも、それがどうしてなのかわからない。

「あのさ、その薬なんだけど、俺がもらっていい?」

 赤くなっていると、真剣な顔でリカが言う。

「何に使うの? あの、これ……あれな薬なんだけどだよ!?」
「俺が使うんじゃない。……この薬があれば、メルヒの“怖いもの”を退治できるかもしれないんだ」
「そうなの……?」

 ふざけている様子もからかっているふうもなく、リカは真面目に言う。
 だから、ミュリエルは不思議に思いながらも瓶を手渡したのだった。
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