降る、ふる、かれる。

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第二章 歌い手

大学生

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無機質な音が脳みそを揺らした。

瞼は閉じたまま、熱を持った布の狭間で音の元を探る。5回同じ音をループし終えた時、コツリと固い物質が手に当たった。それを顔前まで引き寄せ、何とか目を開ける。

13:16。四つの数字の羅列が成す意味を理解すると、一瞬にして眠気が吹き飛んだ。必修科目である一限目と二限目はすっかり過ぎ去っている。あぁ、とうなだれながらブランケットを頭からかぶった。もうこのまま寝てしまおうと思ったが、4限目の講義をすでに3回休んでいることを思い出した。せめて四限目には出なければ、と僕は体を起こし、のそのそと準備を始めた。

 高校生の頃から使っている黒のリュックサックにルーズルーフとボールペンを一本、スマホ、財布、教科書を一冊といままでのレジュメが入ったファイルを入れた。顔を水で洗い、手に残った水分で髪の毛を撫でつけた。クローゼット前に積み上がる服の山からズボンとシャツを引き抜き、すばやく着替えると僕はドアノブに手をかけた。

 外は理科の教科書に載っているかのような晴天であった。

 僕は吊革に手をかけ、ぼーっと外を眺めていた。右へ右へと流れる景色は灰色の建物が見渡す限り続いている。

その中に、僕は脳内でいつもの黒ずくめの忍者を生み出した。忍者は軽い身のこなしで、電車と並走する。ビルの屋上を風をきりながら走り、広告の縁を疾走し、電柱の上を駆けてゆく。建物が途切れて駐車場に落ちる、と思ったものの忍者は近くの木に乗り移った。そして大きく跳ねると、ガラス張りのビルの上へと飛んでいった。

 ふいにクスクス声が聞こえてきた。大きく自分の心臓が跳ね上がる。できるだけ顔の角度を変えずに笑い声の根源を探した。自分のことだろうか。近くの女子高生がちらちらと僕の方を見ながらこそこそと何かを喋り、何か意味を含んだ笑いを漏らした。

 僕は忍者の存在を跡形もなく消し、バッグの中からイヤホンを取り出した。無駄に早まる鼓動を無視して、強く耳奥に押し込む。それから、動画アップロードサイト「ユーチューブ」を開き、ボカロ曲と書かれた再生リストをタップした。

静止画の綺麗な絵に無機質な音楽が流れてくる。人間臭さがないニュートラルな機械音が、かっこいい歌詞と中毒性のある音と共に、脳みその溝にはまってゆく。

車体が大きく揺れ、吊革をギュっと握りなおした。イヤホンの隙間から、再び笑い声が聞こえてきた。音楽の音量を上げ、できるだけ顔が見えないように長い前髪で目を隠し、うつむいた。くたびれたスポーツシューズだけが目の前いっぱいに埋まった。

無駄に広い大学の敷地には溶けてしまうほどの光がめいっぱい降り注いでいる。すっかり葉桜に変わった木々が道沿いにずらりと並んでいる。その陰に潜むように男女が何やら楽しそうに笑っていた。踏みしめるたびに暑さで道が揺らいだ。話し声と共に自転車が通り過ぎる。

スマホで時間を確認すると、授業が始まるまでまだ時間があった。暇つぶしのためにと僕は図書館へ向かった。

ゲートに学生証をかざし、内部へと進む。心地の良い風が肌をなぞった。階段を使って二回まで上がり、近くの棚から目についた本を手に取った。

窓際の空いていた閲覧席に座り、面白みのない硬い文章を目で追う。アフリカの歴史の話で、奴隷制度やモノカルチャー経済の話が続いていた。

「アフリカ分割、独立維持はエチオピアだけ」の章を読み始めた時、パーテーションで仕切られた向こう側のトークプレイスから話し声が聞こえてきた。

「今の日本の非正規雇用率知ってる?他の先進国と比べて、圧倒的に多いの。ありえないくらいに」
「それってさ、会社や社会が目先の利益ばかりを考えた結果が現状の日本なわけじゃん。利益とか効率とかよりも社会全体の幸福をもっと考えるべきなんだよ」
「日本で自殺率が多いのもさ、そこらへんに関係してくるんじゃない?」
「例えばなんだけどさー」

議論はどんどんと熱を帯び、本気の言い合いになっている。僕は空気に圧倒された。現代の日本を案じ、将来を背負う若者の熱気に押されて非常に居心地が悪くなった。何かを言われたわけではないのに、何も考えていないお前は駄目だと言われているような気分になった。

 僕は逃げるようにして図書館から出た。

スポーツウェアに身を包み、ラケットを背負った女の子が通りすぎた。図書館の入り口近くのベンチに座り、ゲームでもして時間をつぶそうとスマホを取り出し、足を組んだ。

隣の方から異様なエンターキーを押す音が聞こえてくる。

 そろりと視線を横にずらすと、肌はしっかりと焼け、上はジャケットなのに下は短パンを着た男が、肩と耳に電話を挟みながらパソコンを打っていた。胸元にはサングラスが掛けられている。

「えぇ、えぇ。そうですね。僕としましては大学生実業家という肩書で売っていきたいと思っているんです。えぇ、そのプロジェクトと並行して、来年の六月には、イベント打とうと思っているんです。はい。はい」男は耳に挟んだ電話を反対側の耳に挟みなおし、大げさにキーボードを叩いた。
「いえいえいえ、いや、そんなことないですよ。まぁ、人脈の広さならそこら辺のベンチャーの社長には負けませんけど。あははは」大きな笑い声だ。歩行者も怪訝な顔をしている。耳にイヤホンをつけても、男の声は貫通してくる。

「あー、そういえば八木沢さんのパーティーいかれます?あー。そうなんですね。それじゃー」

 わざわざこんな場所じゃなくて、カフェにでも行けばいいと思う。

人に自分の存在を見せつけるような態度に辟易し、僕はその場を立ち去った。

校内に立ち並ぶヤシの木が騒めいている。

時計をみる。少し早いが、四限目の教室に向かうことにした。
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