起立、礼、謎解き!

のこのこの木

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二時間目 曖昧なダイイングメッセージ

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第一章 起立
「えっ、いきなりどうしたの?」
 結婚を前提に同棲中の彼女……桜崎凛は振り向きざまに僕に尋ねた。インスタントコーヒーの入ったカップにお湯を入れている最中だったらしい。
 振り向くときに、後ろに束ねた黒髪が優雅に揺れる。朝からいいものを見せてもらった気分だ。
「どうしてその事件のことを?」
「あ、いや、ちょっと色々あってね……」
 僕は凛への照れを隠しながらお茶を濁した。

 僕、堺町友介はI県のとある市にある時任中学校に勤める新人教師だ。三年四組の担任と三年生の数学担任の役目を担っている。
 僕の担任する三年四組は良い子たちが集まっている。でも、普通のクラスとは大きく違った点があったのだ。
 それは学級委員長の森田真をはじめとする六人のことだ。
 そのことについて僕が初めて知ったのは、時任中学校の教務主任・峰形先生からとある話をされた時だった。峰形先生は僕を給湯室へ連れ出すなり、世にも奇妙な話を聞かせてきたのだ。
 それは、その三年四組の六人が、探偵のような推理力を持っているという話だったのだ……。

「もう、焦らさないで教えてよ」
「あ、いや、その……」
「隠し事はしないっていう約束でしょ」
 湯気を立てるカップを持ってきて僕の目の前に置いた凛は、食い気味に聞いてきた。『隠し事はしないっていう約束』という若いカップルにありがちな文句を引っさげて。
 僕の恋人・桜崎凛は県警の捜査一課に属する立派な警官である。ある事件ででくわし、僕が一目惚れしたのである。そして、玉砕覚悟で事件後にアタックし、見事「友達から」という返事を勝ち取り、順調にお付き合いを続け、今こうして両家公認のカップルになったのである。
「それはよくわかってるんだけど……」
「わかってるなら教えてよ」
「でも……ちょっとね……」
「友介!」
 ちなみに凛は僕のことを友介と呼んでいる。初めて会った時よりも後に知ったのだが、凛は僕より二つ年上だから。
 そんな凛だが、怒った顔も可愛いことといったら!、このままずっと見つめていたい……のだが、流石にこれ以上焦らすのは危険なので、
「実はさ……」
 僕は話を切り出した。

 峰形先生からその話を聞いた僕は、その真偽を確かめるために六人のうちの一人、森田真にある事件のことを話した。それは、僕が教育実習生時代に遭遇した殺人事件のことだった。
 その事件は、凶器には指紋なし・現場にはダイイングメッセージありの一筋縄ではいかない事件だった。警察もついには犯人の特定には至らず、結局、後日出頭した犯人の自供で終わったと聞いていた。ダイイングメッセージが何を示すのかはわからずじまいのはずだった。
 しかし、真は僕の口からその事件のことを聞いた途端に、電光石火の如く解決してしまったのだ。所々に、真お得意の毒舌で僕を小馬鹿にしながら。
 凛と出会った事件というのも、その事件のことである。

「ふーん」
 凛は僕から真の推理を聞くと、椅子に背を預けて踏ん反り返った。机の下を見ると、凛は足を組んでいる。刑事というイカつい職業に就いていれば、言動の一つや二つは男に似てくるものなのだろうか。まあ、そういうところも好きなのだが。
「どうかな」
 僕はコーヒを啜りながら尋ねた。
 今日は日曜日、今は朝食中。ちょうど僕も勤務予定はないし、凛も非番だという。中学教師&一課刑事の多忙カップルの僕達にとっては、コーヒーをゆっくり堪能できる時間は珍しいものだ。
「なるほどね」
 凛もコーヒーを一口飲んだ。真の推理のこと、大して驚いていないのだろうか。
「真の推理、当たってた?」
 僕は、その事件担当の刑事であって犯人も知っているであろう凛に聞いた。
 真に事件のことを話した時、初めは真の推理の間違いを見つけて、教師である僕に吐いた「先生って馬鹿なんですか?」の発言を後悔させてやろうと思っていた(実に大人気ない……)。
 けれど、真の完璧であろう推理を聞いた途端に、僕のその闘志は打ち砕かれたのだ。だからこの凛への質問は、正解と正解を照らし合わせるような、真に対する僕の敗北宣言行為なのである。
「うーん……」
 凛は相当悩んでいたが、
「ま、終わったヤマだしいいや」
 とあっさり話し出した。
「確かに、その真ってこの推理通り……」
 凛が説明した事件の真相は、僕が真から聞いたものとほぼ一致していた。もちろん、真は現場にいたわけでもないので少々粗はあったが、見聞きしただけで解いた分には完璧な推理だったと言えるだろう。
 真恐るべし……。どうやら、真が推理力を持っているという話は本当のようだ。
「そうだったんだね」
「それにしても、あのダイイングメッセージにはそんな意味があったのね」
 凛はまるで豆知識を耳に入れるかのようにつぶやいた。
「ダイイングメッセージのことは調書みたいなものに書かなくていいの?」
「大丈夫大丈夫。だって犯人の自供も証拠も、もう揃ってるもん。今更ダイイングメッセージの謎を赤しても意味ないよ」
 凛は迷う様子もなく言い切った。
 少なからずダイイングメッセージのことを気にしている人はいると思うけどな。一緒に容疑者になった人とか、凛と一緒にいた刑事さんとか……。
 この凛は、初めて会った時には気づかなかったけど、かなりの面倒くさがり屋なのだ。
「でもね」
 コーヒーを一気に飲み干してから、凛が改まった顔で言った。
「ちょっといただけないわよ、事件のことをそこまで話しちゃうなんて。事件のことは他言無用なの。まだ刑事の私に報告してくれたから良かったけど」
「そうだよね……」
 流石にダメだったようだ。峰形先生の話が本当だということはわかったけど、事件のことを話すなんてやりすぎてしまったようだ。
「ごめん」
「それはそうと…」
 僕はちゃんと謝ったが、凛は全く気にしていない様子。
「その推理力を無駄にするのも惜しいわね」
「え」
「私ね、その子たちに頼りたい事件があるのよ」
「は⁉︎」
 おいおい、さっき僕に言ったことを忘れたのか。僕の戸惑いなんてつゆ知らず、凛はスラスラ話し続ける。
「あなたが推理力があるのを確かめられたのは、その森田真って子だけなんでしょ。きっと他の子たちも確かめたいんだよね。
 それなら、警察の協力ってことで私が事件のことを伝えるから、友介はそれをその子たちに伝えて推理してもらって。それで、その推理を私に教えるの。
 そうすればきっと、その子たちは推理を楽しめる、あなたもスッキリする、渡したし警察は事件を解決できる可能性が上がる。
 三方が一度に得するの。良いアイデアだと思わない?」
 思いません。
「え、何言ってるの?」
「日本語に決まってるじゃない」
「違う違うそうじゃなくて」
「良いアイデアでしょ?」
 これが現役刑事の言うことだろうか。僕は凛のことが末恐ろしくなった。
「それ大丈夫なの?」
「大丈夫よ。私がいえばみんなも納得してくれるわ。これでも部署の中じゃアイドル的存在だもん」
 え、それ自分で言うの?
「私がちゃんとみんなには話しておくから」
「でも、もしその六人から情報が漏れちゃったら?」
「その時はその時よ」
「え」
 空いた口が塞がらないとはこのことだ。
「もしそうなったら、凛は大変なことになるかもしれないし、僕だって何もなしに学校に居られないし、それに生徒たちだって履歴書に影響が出るかも……。もしそうなったら、僕は、僕達は…」
〝バンッ!〟
 僕が懸命に不安材料を吐き出していると、凛が目の前のテーブルを叩いた。犯人を追い詰める時の刑事のような(そういえば本物の刑事だっけ)顔をしている。
「友介!、しっかりしろ! お前は教師だ。教師が生徒を信じられなくてどうする!」
「はっ‼︎」
 ありきたりな表現だけど、まるでトンカチで頭を殴られたような衝撃だった。僕が目を見開いているのを見て、凛は微笑みながら続けた。
「わかった? あなたは教師なのよ。生徒を信じないと」
 洗脳のように頭の中で凛の言葉を反芻する。
「そうだよね」
 僕は凛に頷いた。途端に凛は笑顔に戻り、
「じゃ、さっきの話、了承ってことね」
「う、うん?、ん…?、あれ…?」
 それとこれとは話が別なような気がするのだが……。凛はコーヒーのカップをさっさとキッチンの流しへ持っていく。
「ちょっと凛!」
「友介、今日は私がご飯作るね」
「あ、うん、ありがとう。そうじゃなくて」
「楽しみにしててね」
 凛は振り向いて笑った。明るく可愛らしい笑顔で。
「……」
 もう何も言えなかった。

 はぁ~、久々に食った食った。僕はお腹をさすりながら椅子に深々と座った。
 僕が勤める時任中学校では今月、給食委員会と給食センターが共同で【残しゼロキャンペーン】と称して、各クラスの残し量を集計している。だから、今月はできるだけ残しの量を減らすよう努力しなければならない。
 そこにきて今日の給食のメニューだ。切り干し大根の煮物に焼き魚、菜葉の和物……と最近の中学生にはちょっと渋すぎるものばかり。僕のクラスでもいつもよりかは残しの量が多く、これでは大変だということで久々に僕が張り切ったのである。
 張り切った……つまり三人分くらいの量を平らげた僕は、教室の中を眺め回した。給食が終わり昼休みである。
 男子のほとんどは外へ遊びに行っている。そして昼休みに教室の中にいるのはほとんど女子だった。教室の、一際ワイワイしている一画の真ん中に、僕が今回目当てとする女子はいた。
 自然とグループ分けがされてしまう女子たちを、時々他のグループに声をかけながらうまく一つにまとめている。みんなの中心にいながらそれでいて優しさを忘れず、しつこくもしない。
 校則ギリギリであろう長髪を揺らしてハツラツとした笑顔を見せている。顔、立ち姿ともにモデル顔負けで、話によれば読者モデルとして雑誌に載ったこともあるそうだ。
 その名は、広末美琴。三年四組の学級副委員長である。初めてその姿を見たときは、かつて同じ苗字のアイドルがいたなとか思いながら少々見惚れてしまった。もちろん、僕は凛に一筋だから変な考えは絶対にないことを誓う。
 美琴は時任中学校全員、男子も女子も憧れの的だが、当の本人はそんなこと一切気にしていない。次々と言い寄ってくる男子たちの告白も全てNGらしい。
 ただ、生徒の交友関係に詳しい先生から聞いた噂によれば、美琴の好きな人は学級委員長の森田真らしい。美男美女でお似合いだとは思うが……。
「先生」
 目の前に美琴がいた。ついぼーっとしてしまっていたらしい。
「何ですか?」
「あ、いや……。ちょっと放課後、美琴に話があるのを思い出してな、ちょっと考えてたんだ」
「そうですか。放課後ですね、わかりました」
 美琴はまた女子の輪の中に戻っていった。
 もちろん、放課後に美琴に話すこととは、凛から聞いたある事件のことだ……。

「はいこれ」
 凛はちょっと出てくると言って部屋を出ていったと思うと、五分後くらいに紙の束を持って帰ってきた。どうやら近くのコンビニで印刷してきたらしい。
 僕はそれを受け取ってペラペラと見てみた。
「なにこれ」
 被害者、死因、凶器、遺留品……。並んでいる文字たちに僕は慄く。
「これって……捜査資料じゃないの‼︎」
「そうだよ」
 僕は驚いて大声を出してしまったが、凛はあっけらかんとしている。
「そうだよ、ってこれは流石にダメでしょぉ」
 警察でありながら一般人に捜査資料を渡してしまうなんで、我が恋人ながらどうかしている。
「そんな慌てないで。よく見てよ、被害者と容姿者の名前以外の個人情報は伏せてるから」
 確かに、被害者と容疑者の個人情報の欄で名前以外の情報は黒く塗りつぶされているようだが…
「いやいやだからって、捜査情報を流しちゃダメでしょ。そもそも名前すら危ないから消さないと…」
「だめよ、名前は」
 そこまでいった僕の口を、凛の人差し指が塞いだ。
「事件を解くのに、名前はおそらく必要になるから」
 凛のて、いい匂いするなぁ……って今はそんなこと考えてる時じゃない。僕は我を取り戻した。
「名前が必要になるってどういうこと?」
 僕が聞くと、凛は手をこめ亀に当ててため息をつきながら言った。
「ダイイングメッセージがあったの。
 それも〝目に見えて曖昧な〟ダイイングメッセージがね」
 〝目に見えて曖昧〟って……どゆこと⁇


 遅い。もう十五分も過ぎている。
 昼休みの後、僕は改めて、放課後の第一音楽室に美琴を呼んだ。ただ、掃除まで終わって放課後に入ったのに、十五分も来ないあたり、どうやら美琴は忘れているようだ。
 広末美琴は、ああ見えて天然が入っているようで、昼休みに美琴に放課後の伝えた後、他の女子がこっそりと『約束しても忘れますよ』と僕に言った。美琴が天然であることは誰もが知るところらしい。
「……どうしよっかな」
 僕は一人だけの教室でつぶやいた。別に急ぎの要件でもないから、今日じゃなくたっていいのだ。
 やっぱり凛の提案から間違っていたのだろう。一般人しかも中学生女子に、警察で扱う事件の謎を解かせようなんて。
 帰ろうと思って、音楽室の鍵を手に扉へ歩き出した時だった。
「忘れてた!、ごめんなさい!」
 美琴が走ってやってきた。
「明美が教えてくれて思い出しました!」
 美琴は部屋に入るなり背負っていた荷物はドアの周りに置いた。どうやら本当に帰ろうとしていたらしい。明美グッジョブ‼︎
 僕は帰るのを思いとどまり、美琴の椅子を出してやった。
 美琴はその椅子に座ると、
「なんですか、先生」
 と真っ直ぐに僕を見つめながら聞いた。
 どうやって事件の話を持ち出そうか……僕が悩んでいるのを見て、美琴の顔が不思議そうなものに変わった。
「あのな……美琴」
 僕が恐る恐る話しだすと、
「え、もしかして進路のことですか‼︎」
「へ⁉︎」
「うわー…やっぱり判定やばかったんですね……。やっぱ時一は無理かな」
 勝手に勘違いして勝手に騒ぎだす美琴。
 ちなみに、時一というのはこの辺りの区で一、二を争う人気高・時任第一高校のこと。美琴の成績は中の上くらいなので美琴の合否は五分五分なのだ。
 さらにいうと、同じく人気高の馬靴毛第一高校は同名の馬靴毛という変わった名前の市にあるのだが、殺人などの犯罪が多いところだという。一方でその検挙率もほぼ100パーセントらしい。よほど優秀な警察がいるようだ。
「進路のことじゃないから!、とりあえず落ち着け」
「違うんですね、よかった」
 美琴はあっさり静かになった。……じゃあ、気を取り直して
「美琴は、その……推理って興味あるか?」
 一旦あんなに騒がれたあとだと、意外とすんなり話を切り出せた。
 当の本人、美琴は僕の質問にポカンとしている。
 まあそりゃそうだろうな。進路について話されると思ってドキドキしてたら、いきなり〝推理〟なんて言い出されたんだから。
 美琴はしばらくポカンとしていたが、突然ふふふと笑い出した。
 そして、顔を上げてにっこり笑うと……
「推理、してほしいんですね」
 ……僕が思わずドキッとしてしまったのは、ナイショの話だ。

「オマルね……知らないな」
 僕はすっかり凛の口車に乗せられて、捜査資料を読み込んでいた。
 とりあえず読み取れた情報によれば、被害者は円谷留美さん三十八歳。仕事はモデル・タレント。モデル出身のギャルタレントの彼女は、オマルという芸名で、ある程度(ほんの少しだけ)売れていたらしい。
「昔まではね」
 と凛は付け足した。
 今はもう三十路も後半に突入し、ギャルとは言えない年齢になってしまった。その途端に仕事も激減。多少の美貌はなんとか残していたため、安い雑誌のモデルや地方のローカル番組で、なんとか〝モデル・タレント〟として生き残っていたらしい。
 確かに資料に載っている写真も、見た感じかわいい女性に見えなくもない(やっぱ見えない)が、よく見れば男の僕だってわかるほど厚化粧や小じわが目立つ。
「オマルって名前もだいぶダサいわよね」
「まあ…確かにね」
「幼稚園児の必須品よ」
「はは…」
 僕は苦笑いしながら、捜査資料に目を落とした。
 被害者の死因は後頭部座礁に失血多量。後ろから鈍器で思い切り殴られたらしい。鈍器となった凶器は、現場にあったパイプ椅子。
 犯行現場は被害者の円谷さんがモデルを務めていた【月刊ミソジファッション】の本社ビル。といっても、ローカルの小さな雑誌会社のようで、そこまで有名な雑誌会社でもないらしい。
 本社ビルも小さな二階建てのビルで、部屋数はわずか四つ。一階全体が編集部のスペースになっていて、二階に社長室と小さな撮影部屋、そして楽屋が一つだけあるそうだ。
「……それで、犯行現場は楽屋だったってわけね」
「そう」
「なるほどね」
「なーに刑事らしく言ってんのよ」
 ちょっとかっこつけて言ってみた僕の背中を、凛が笑い飛ばしながら叩いた。……ちょっと強いよ…苦笑。
「ともかく、捜査資料の一、二ページからわかるのはそれくらいだね。
 それでさっき言ってた〝目に見えて曖昧な〟ダイイングメッセージってなんだよ」
「それなら、もうちょっとめくると載ってるよ」
 僕はまた捜査資料をめくった。

「オマルさん…ですか」
 捜査資料の一枚目を読んだ美琴はつぶやいた。まるで、女子高校生が美味しそうなスイーツ店のメニューを見ているような目をしている。
「知ってる?」
「知ってますよ。ちょっと昔に流行ってた人ですよね。最近もちょっと話題なんですよ……まあ悪い話題なんですけどね」
「どんな?」
「三十路になっても若作りを頑張って結局失敗してる年増女、って」
 よくもまあ、そんな恐ろしい言葉が人気のあるその顔から出てくるもんだ。まあ、最近のネット社会を見ていれば、中学生にもそんな言葉が浸透してしまうのも仕方がないのかもしれないけど。
「今時の若い女子が買ってる食べ物とか服とかコスメとか、いろんなものを使って写真をネットにアップしてるんですけど。やっぱいろんなところでお年が出ちゃってるんですよね~」
 典型的な若作り女、ということだな。
「ともかく最近はそういう意味で話題なんです。
 じゃあ、早くその事件のこと聞かせてくださいよ」
「うん、そうだな」
 僕は捜査資料を美琴に預けて、僕は撮っておいたその写真をスマホで見ながら、
「確か、その知り合いの刑事がいう〝目に見えて曖昧な〟ダイイングメッセージなんだけどな……」
 凛の話を思い出していた。

第二章 礼
「ここ…ですよね」
「そのはずだ。編集会社とは聞いていたが、規模が小さいようだな」
 私こと桜崎凛と、私の上司でありバディの大倉亮輔警部は殺人事件が起きた現場に来ていた。
 大倉さんはつい最近、私の上司になった。その理由は私の前の上司にある。
 前の上司、柳沢邦夫警部。彼は不祥事を起こしたわけではなく、ある事件の最中に殉職してしまったのである。凶悪犯を追いかけて格闘した末のことだった。深い傷を負ったことで、救急車が駆けつけたのも虚しくその場で亡くなってしまったのだ。
 私はその時非番だったから、柳沢警部の最後には立ち会えなかった。その事は今でも心の中で悔やんでいる。
 けれど、新しい上司の大倉さんは、性格や風貌もどことなく柳沢さんに似ている。どうやら警察学校からの腐れ縁で無二の親友同士だったらしい。
 だから、柳沢さんのそれに似た大倉さんの背中を前に、私は今日も事件に挑むだけだ。かつての上司のように、全力で。

「この建物の二階だったか?」
「確かそうです」
 大倉さんの声で我にかえる。
 現場は【月刊ミソジファッション】という雑誌を編集・出版している会社の本社ビル。しかし、それはとても小さかった。
 かろうじて二階立てと言えるビルだったが、それを囲む周りのビルのほとんどは三階建てなので、その中では全くと言っていいほど目立たない。その上ビルの前の道もとても細いので、パトカー二台くらいのスペースしかなく、私と大倉さんも近くの有料駐車場に停めてここまで歩いてきたのだった。
 私たちはビルの玄関に立っている警官たちに礼して中に入って行った。
 玄関に入ると、机と椅子、書類やコピー機が所狭しと並べられていた。一階全体が雑誌を編集するスペースになっているらしい。しかし、現場はここではない。
 私たちは机の間を抜けて奥に見える階段へと向かった。階段の隣にトイレのドアがあるのを確認しながら、二階へ上がる。
 階段の途中や踊り場にはブルーシートがかけられていた。リフォームか何かしているのだろうか。
 階段を登り終えると、足元から伸びる廊下の左右に二つずつドアあった。そのうち左手前のドアの前に警官が立っていて、さっきから数人の捜査員たちが出入りしている。
「先に来ていた刑事から、現場に入る時は足元に気をつけろ、と言われていたんだがどういうことだろうな」
「さあ……」
 私と大倉さんはそのまま左手前の部屋まで歩いて行った。警官に敬礼し、少し緊張しながらドアを開ける。
「何なんだ、これは……⁉︎」
 驚きの声を上げる大倉さんの背中から部屋の中を覗き込んで、私も言葉を失った。
「……⁉︎」
 部屋の真ん中には髪の分け目から血が流れ出た女性が倒れていた。露出している手首や足からは、もう血の気が完全に失っていた。
 そして、その女性の体の周りには無数のカラフルな棒が転がっていたのである。

「何これ……」
「目に悪いな。この現場は」
 足元にまで広がるカラフルな棒を目の前にして、大倉さんが目の不調を訴える。確かにこの光景は、大倉さんのような初老の目には厳しいだろう。
「というかこれ、よく見たらペンですかね」
 チカチカする目をこすりながらよく見ると、カラフルな棒の先に突起した部分が見える。
 どうやら、ペンの周りに、カラフルに彩ったゴム製のラバーを巻き付けているらしい。手で持つところはどこもゴムだらけだ。
「にしても多すぎるな」
 大倉さんの言うとおり、その数は異常だった。

「……ん?」
 そんな中で一つ、私の脳裏に印象に残ったものがあった。
 一本だけカラフルではない普通のペンが、被害者から一番遠いドアの近くに転がっていたのだ。
「どうして、あのペンだけ……」

「お疲れ様です。ちょっと片付けさせてもらいますね」
 中にいた捜査員が私たちに声をかける。

 数分後、中から呼ばれたので部屋に戻る。
 現場となったこの部屋はビルの中に一つだけある楽屋。三面鏡と長テーブル、パイプ椅子があるだけだ。かなり狭い部屋だから、女性が一人倒れている中でそれを避けて動くなると、人が五、六人入るだけでもかなりきつめになる。
 だから、今この部屋にいるのは、私と大倉さんに、私の同期・原田俊くん、そして検視官と鑑識の捜査員が一人ずつだけだ。

 部屋に入ったところで、部屋の隙間を縫うようにしながらご遺体が運び出された。私たちは端によって、手を合わせて見送った。
 そして改めて現場を見回す。
 テーブルの上には、床に散乱していたたくさんのカラフルなペン、そして被害者の持ち物が並べられていた。もちろん現場の写真はすでに撮影済みだ。
「これ全部、被害者・円谷さんのマイペンだったらしいっす」
 原田くんが手帳を見ながら話す。
「全部で二十本もありました」
 原田くんは散乱していたペンの写真を私たちに見せる。
 手を伸ばした状態で倒れている被害者、その体の周りにカラフルなペンが散らばっている様子はまさに異様だった。

「そのカラフルなやつは、若者向けの店で売ってるらしいっすよ」
 ほらヴィレ○○ンっすよ、と付け足す原田くん。
「ま、しょせん一本何百円とかの安物なんで、周りのゴムは暑いところに置いとけばすぐにベタベタになるし、中のペンの書き心地も悪いし。
 ってことで、買った人たちもみんな、可愛いってもてはやすくらいで実際にはあまり使わないらしいっす」
 私たちは手袋をつけた手でペンを触ってみる。
 確かに巻きついているゴムはどこもベタベタする。それにどうやら、中の芯を交換できない一回キリの使い捨てのペンらしい。
「そんなペンを使ってたなんて、ま、若作り失敗してるなんて言われても仕方ないわね」
 私はスマホを取り出し、インスタグラムを見ながら言った。
 被害者が、濃い化粧をして露出の多い服を着ている写真がいくつも投稿されている。
「しかし、いい大人がこんなペンしか持っていなかったのかね」
 大倉さんがため息をつきながら言った。
「いや、流石の被害者もそれはなくて。一本だけは、書きやすいって評判の〝サラン〟ってペンを持ってたらしいっす」
 ほらね、と原田くんがテーブルの上のペンを取って私たちに見せた。プラスチック製のペンで、中の芯を取り替えられるタイプのものだ。
 私はハッとする。そのペンは、一本だけ不自然に転がっていたあのペンだった。

 被害者の持ち物捜査は続く。
 〝元〟モデルというだけあって、化粧品はたくさんあった。現場の写真を見る限り、事件当時、化粧品の数々がテーブルの上に並べられていたようだ。
 そのほかは気になるものもなく、素通りしていたが、
「なんだこれ」
 大倉さんは手帳のようなものを手に取った。
「あ、それ私知ってます」
 今度は私が声をあげて、スマホの検索アプリの画面に【スマホ手帳】と打ち込んだ。出てきたのは、大倉さんの手にあるものと同じものの画像だ。
「それ、今若い子達に人気なんです。スマホケースでもあるし、手帳でもあるし、家計簿として使えるページもあるし、手鏡もついてるし、カレンダーもついてるし。
 いろんなことに使えるだけじゃなくて、デザインもシンプルで可愛いからOLとかに人気なんです」
 大倉さんは興味深そうにスマホ手帳を回し見ている。
 表紙の裏にスマホをしまえるケースが付いていて、その次から手帳になっている。手帳の中には、カレンダーやメモ帳に、簡易版ではあるが家計簿もついていて、背面の裏には鏡もついている。この【スマホ手帳】は、手帳・家計簿・鏡・スマホケースの機能を併せ持つ多機能手帳なのだ。
「あ、それ、被害者のスマホっすね」
 大倉さんの背後から原田くんが言う。確かに、スマホは手帳のケースの部分にしまわれたままだった。
「使いやすそうな手帳だなあ」
 舐め回すようにそれを見ていた大倉さんがポロッと呟く。
 意外な一面だな、と私と原田くんが大倉さんを見ていると、「別に欲しくはないがな」と恥ずかしそうに言ってスマホ手帳を机に戻した。
「よし、荷物調べは十分だ」
 大倉さんはそう言って、ずっと待っていた検死官に目配せした。
「は、はい! 被害者について、ほ、報告いたします!」
 その検死官は新人のようで、緊張のあまり声がうらがっている。
「おう、よろしくな」
 大倉さんが優しく声をかけると、多少は落ち着いたようで話し出した。
「被害者は円谷留美さん、三十八歳です。死因は失血多量ですが、後頭部に挫傷が見られるため、後頭部を殴られたことが原因と思われます。
 被害者を殴ったと思われる凶器も特定済みです。現場にあったパイプ椅子の一つに血痕が付着していました」
「パイプ椅子か。なら計画的殺人の線はうすそうだな」
「へ? 計画的ですか?」
 検死官は大倉さんの言葉の意味がわからずポカンとしている。
「計画的って言うのはな、前からずっと事件の計画を立てること。だから凶器も予め用意しておくのが普通なんだ。
 一方、計画的の逆は衝動的。その場の気の昂りで咄嗟に罪を犯すこと。だから衝動的の場合、その場にあるものを凶器にしてしまうことが多い。
 もちろん、どちらにも例外はあるがな」
 大倉さんの説明で私たちも納得する。
 つまり今回の事件は、現場にあったパイプ椅子を使っているところを見ると、衝動的殺人の可能性が高いと言うわけだ。
 検死官はなるほどと頷いてから、報告を続ける。
「ご遺体の第一発見者は、この会社の階段をリフォームするために来ていた作業員たちだそうです。四人いたのですが、作業開始の十時半に集合してからはずっと一緒にいたそうなので、容疑者からは除名すべきですね。
 どうやら、十二時半ごろ、二階付近のリフォームをするときに最終確認で見回っていた際、ご遺体を見つけたようです」
「なるほどね」
「話を聞いて、一応まだこのビルに留まるよう言ってあります」と原田くんが付け足す。
 検死官は続ける。
「被害者ですが、パイプ椅子で殴られた後も、十数秒程度、意識が残っていた時間があったと見られます。少なくとも即死ではないかと」
 私はその言い方に疑問を持った。殴られた後に意識があったことを報告するってことは、何かダイイングメッセージのようなものがあったのだろうか。
 その疑問を解消するように、
「実は、ダイイングメッセージと思われるものがあったのです。それについては鑑識のトメさんにお聞きください」
 と検死官は言った。
「ダイイングメッセージ⁉︎」
 大倉さんが驚く。
「私からは以上です」
 検死官はそう言って一礼すると、部屋を出て行った。
 次に躍り出たのはトメさんと呼ばれた本名・梅田豊太郎先輩。鑑識の超ベテランで、今でもエースとして第一線を走っている。
「トメさん、お願いします」
 大倉さんから見てもトメさんはキャリアも歳もいくつも上だ。そもそも存在自体が歩く伝説なのである。
「こいつが残ってたんだ」
 トメさんは早速、一枚の紙が入った袋を取り出すと私たちの目の前に置いた。
 よくあるスーパーのチラシだった。折りたたまれているところを見ると被害者が手帳に挟んでいたらしい。
「マメですね。買いたいものに丸がつけてある」
 私は、いくつかの商品に黒丸がついてあるのに気づいた。チョコレート、ウインナー、コロッケ。被害者はお腹が減っていたのだろうか。
「問題は裏だ」
 トメさんはそう苦々しく言うと、袋を裏返した。
 それを見た途端、
「これは……」
「一体どう言うことでしょうか」
 私たちは思わず、トメさんの顔とその紙を何度も見てしまった。
「な?、〝曖昧〟だろ」
 トメさんがため息をつきながらそう問いかけるのに、私たちは首を縦に振るしかなかった。
 だってそこにはこんな文字があったのだから。



 ア、イ、マ、イ。
 何度読み返しても、カタカナで〝アイマイ〟と書いてあるようにしか見えない。
 目に見えて〝曖昧〟なダイイングメッセージを目の前にした私たちは、今回の事件が一筋縄ではいかないことを悟ったのだった。

 私たちは頭にはてなを浮かべたまま、現場の確認を終えて同じ二階の応接室へ向かった。応接室には、今日ビルの中にいた容疑者たちが集められている。
 ドアを開けると、中には三人の男女がソファに座って待っていた。
「この会社の社長と編集長、それと被害者のマネージャーです」
 三人の見張りを務めていた刑事が私たちに耳打ちする。
「初めまして。この事件の担当になった大倉です」
「同じく桜崎です」
 私たちは手帳を見せて挨拶する。
 そして私は手帳を開いてペンを構えた。大倉さんの質問が始まる。
「ではまず、改めて皆さんのお名前と役職を聞こうと思います」
 三人は顔を見合せたが、すぐに順番が決まったようだ。まずは、太った薄毛の男性から話し出した。
「今井吉樹。この【月刊ミソジ】の社長だよ」
 お次はメガネをかけたキリッとした美人。
「野間亜子と言います、【ミソジ】の編集長を務めています」
 最後は、さっきから手をいじってばかりいる気の弱そうな男性。
「の、能呂伊三です。円谷さんのマネージャーをしていました」
 なんともクセのありそうな人たちだ、と私はペンを動かしながら思った。
「それでははじめに、今井さんからお話をお聞きしましょうか」
「いいだろう」
「お手数ですが、厳正な事情聴取実行のために部屋の移動をお願いします」
「ここから動けと言うのか。全く、これだから警察はダメだ」
 今井さんは大倉さんの指示に、ぶつぶつ言いながら(本当に)重い腰を上げた。
「少々お待ちください」
 私は残った二人に声をかけて、大倉さんたちに続いて部屋を出た。

 一階の編集室の片隅に、椅子と長テーブルを並べたスペースがあった。取調室がわりに用意してもらったものだ。
 今井さんの「階段を下るのか」との文句を流しながら、椅子に座るよう誘導する。大倉さんが座ると、私はその後ろに立った。
「ではまず、なぜこのビルにいたのかお話願います」
 取り調べ開始。
「なぜも何も当たり前じゃないのかね。会社の社長が、自分の会社のビルに出勤するのは」
「承知しておりますが、社長にもなると、毎日のように出勤する必要もなくなるのでは」
「……貴様、【ミソジ】の現状を知っていて言ってるのか」
 大倉さんは丁寧に話したように思うが、今井さんはその趣旨を勘違いしたらしい。悪い方向に。
「今、この【ミソジ】の人気は右肩下がり。社長の私でさえ営業に回らなければこの危機は乗り切れないのだ。
 全国の書店を頭を下げて周り、編集室を歩き回って原稿をチェックし、いつもこの足を動かして走り回り……。
 そんなことまでしなくては会社を守れない、この社長の辛さを貴様たち警察はわかるのか。いやわからないだろうな。事件の捜査を語って、人様の外見にとどまらず、心の中身だけを土足で上がって引っ掻きまわす……」
「そこまで!」
 驚くほど長く嫌味たっぷりな愚痴を止めたのは、大倉さんだった。
「!」
 今井さんは一瞬ビクッと肩を振るわせたが、すぐに元の偉そうな顔に戻った。
 私も【ミソジ】の不評については知っていた。だが、あれだけ愚痴っぽく、ファッションになんて知識も興味もなさそうな今井さんが社長をしているような会社だ。正直に言って、未来は絶望的なのかもしれない。
「言いたいことがあるのはわかりますが、私は事件の捜査に来ております。
 被害者の円谷さんについてお聞かせ願いますか」
 大倉さんの丁寧な口調に、今井さんは大人しく話し出した。
「彼女のことかね。雑誌会社の社長と専属モデルという、なんの変哲もない関係だよ」
「そうですか。
 円谷さんの死亡推定時刻ですが、今から三、四時間ほど前、つまり午前十時ごろになります」
 私はそれを聞きながら腕時計で時間を確認した。今は午後一時半、昼食中に呼ばれてすぐにここに駆け付けたのを覚えている。
 今から三、四時間前ということは、簡単な計算で十時前後が死亡推定時刻ということだ。
「十時ごろ、今井さんは、どこで何をされていましたか」
「……!」
 疑われたような質問にまた怒ったのか、一瞬顔を赤くした今井さんだったが、さっきの愚痴に多少怒っている大倉さんが睨みを効かせると、すぐに顔を元に戻した。
 はじめの威厳はどこへ行ったのやら……(というか初めからなかった?)。私はすっかり縮こまった様子の今井さんへの笑いを懸命に堪えていた。
「……十時ごろならここにはいなかった。家にいたよ」
「それを証明できる人は?」
「いない。家内は昨日から旅行に行っている。
 ……いや、でもちょっと待て。証人はいないが、証明になるかもしれないことはあるぞ」
「ほお、それは」
 今井さんは携帯電話(ガラケーの方)を取り出し、ちまちまと指で動かした。一つの画像を見つけると、それを私たちに見せる。見覚えのある綺麗な女性の写真だった。
「この人、朝のワイドショーのお天気お姉さんですね」
 私が気づく。
「あぁそうだ。いいよなぁ、最近は。朝っぱらからこんなナイスバディな美人を拝めて……ドゥフドゥフフフフ」
「それで!」
 セクハラエロ親父の笑いを大倉さんが遮る。
「それの何が証明になるんです」
「ハプニングがあったんだ。生放送中に、散歩中の犬が乱入してお天気お姉さんにじゃれついたんだよ。
 俺はその時見てたから、時間や乱入した犬の種類も全て覚えている。
 ちなみに時間は、九時五十七分だ」
「ほぉ~」
 大倉さんが相槌を打つ。
「家からここまでは車で急いでも三十分。
 今日俺がここに来たのは十二時ちょっと前だ」
「なるほど」
 一応のアリバイはあり。私は手帳にそう書いてから一旦閉じた。
「個人情報について書き込みお願いします」
 私は用紙とペンを出した。今井さんは書き始めるが、少しすると顔を上げた。
「ここだけの話だがな……」
 目を細めて話し出す今井さん。私は急いでメモの用意をした。
「能呂くんが怪しいと思うんだ。彼は見た目通りに気が弱くってねぇ。散々円谷くんにはいじめられていたよ。何かといちゃもんをつけては罵倒して、ひどい時は手も出して。
 まあ彼もその仕事で食ってるわけだから、部屋なことは言わずに我慢していた。だが、いつかは爆発すると思っていたよ。
 今日いよいよそれが爆発して、彼女があの手帳みたいなやつでスマホいじりとか化粧とかしている時に、後ろから思いっきり……みたいなことだったんじゃないのかな」
 今井さんはそんなことを喋りながら、用紙を書き終えた。
「名前に〝のろい〟って入ってるだろ。だから変なあだ名をつけられていたよ。
 確か『マイマイ』とか言ったかな」
 今井さんはそう言って元の応接室へもどっていった。
 近くの警官に野間さんを呼ぶよう頼んでから、私は大倉さんに尋ねた。
「『マイマイ』ってなんですかね」
「あぁ、マイマイというのは関東地方の方言でカタツムリのことだ。
 まさに、能呂さんは〝のろい〟カタツムリってことだな」
「マイマイ、カタツムリ、能呂伊三……。能呂さんには失礼ですけど、あだ名としてはぴったりですね」
 そんなことを話していると、野間さんがやってきた。

 野間さんはスタスタ歩いてくると、大倉さんがおかけくださいという間もなく椅子に座った。体もしゃんと伸ばして。
「えっと……」
「何か書く書類があれば、先におかきします」
 大倉さんもたじろぐ気迫でハキハキと話してくる。私は用紙とペンを取り出して彼女に渡した。
 スラスラと達筆な字で用紙を埋めていく野間さん。大倉さんと私は思わず顔を見合わせた。
 野間さんが用紙を書き終えたところで取り調べ開始。まず、今井さんにしたのと同じ死亡推定時刻についての説明をした。
「それで十時ごろですが、野間さんはどこで何をされていましたか」
「私はデパートにいました。今度の雑誌に記事を載せようと、今人気のタピオカスイーツを実際に食べてきたのです。
 それとついでに、最近のファッションとか人気路線を見るために、デパートの店をいくつか回ってきました」
「なるほど。それでこの会社には何時ごろ出勤されたんですか」
「今日は、確か十一時半過ぎでした。
 調べて貰えばわかりますが、デパートからここまでは三十分ほどかかります。デパートの十一時の鐘が鳴った頃に建物を出たので覚えてましたよ」
「わかりました。
 申し訳ありませんですが、そのデパートにいたというアリバイを確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「えぇかまいません。△越デパートです」
 私はデパートの名前まで手帳にメモした。
 大倉さんの取り調べは続く。
「それでは少々踏み込んだ質問になりますが、あなたは被害者のこと、どう思っていましたか」
「……」
 野間さんの顔が一瞬曇った。大倉さんもそれを見逃さない。
「もちろんお話の内容は秘密にしますので」
 野間さんは目を泳がせていたが、だんだんと話し始めた。
「あまりこう言った会社の内輪のこと、それも個人的なことは外部の方に話したくないのですが、社長のことで……」
「お聞かせください」
「実は、社長とオマルさんの仲が最近噂されていたんです。
 もちろん今の時点では噂でしかないのですが、会社でもその……スキンシップがすぎると言いますか……。
 実際に、社長とオマルさんが抱き合っているところやキスをしているところを見たという社員が何人もいまして。それに、話しているのを聞いたという社員によれば、どうやらオマルさんが社長の奥様に話すと脅して、お金を強請っているとか……」
「なるほど」
 大倉さんが腕を組んで唸る。私も「金が絡んでいる様子」とメモに書き記した。
 それにしても、さっきまでハキハキとした印象の野間さんも、会社の裏事情を話す様子は弱々しく見える。彼女なりに会社のために尽力しているのだろう、しかしそれが社長と専属モデルのせいで裏切られつつあるのだ。
 野間さんも大変だな、と同じ働く女性として私は思った。
「大変ですな」
 大倉さんが優しく声をかける。
「はい……」
 野間さんも私たちの同情するような視線に安心したようで、堅苦しい感じもすっかりなくなった。というか、こうしてみるとやっぱり野間さん美人だな。
「とりあえず、今井さんにはオマルさんを殺す動機になりそうな事情があったということですね」
「まあ、そういうことになります」
 野間さんの聞き取りが終わった。

 最後は能呂伊三さん。
 私たち二人を目の前にし、さっきよりもオドオドしている。まるで、不思議の国のアリスが『ドリンク・ミー』を飲んだ時みたいだ。
 あれ、小さくなっちゃうのは『ドリンク・ミー』と『イート・ミー』のどちらだっけ……なんて私がどうでもいいことを考えているうちに、オドオド入ってきた能呂さんが椅子に座った。
「よろしくお願いします……。カツ丼とか、ないんですね……ハハ…ハハ…」
 テンションがおかしくなっているようで、面白くもないし笑えない変なジョークを口にし、一人で笑っている。
「カツ丼は実際には滅多に出されないんですよ。法的に見たら、有力証言を引き出すための賄賂だという判断をされてしまうらしいので」
 私は能呂さんに見かねてカツ丼のことを解説してあげた。
 大倉さんも苦笑いしながら、取り調べ開始。
「あなたのことを疑っているわけではありません。だから、どうか落ち着いてお答えくださいね」
「は、はい」
「ではまず、死亡推定時刻について……」
 他の二人のと同じ説明をする。
「その時の能呂さんのアリバイをお聞き」
「ヒィ」
 アリバイという言葉に反応して声を裏返す能呂さん。流石に厄介だなと私たちは顔を見合わせてため息をついた。
 なんとか落ち着かせて質問再開。
「では改めてお聞きしますね。犯行時刻の十時ごろ、あなたは何をされていましたか」
「特に何もしていませんでした……街の本屋を回っていたくらいです」
「なぜ」
「特に理由はありません……立ち読みしたり、面白そうなのがあれば買ったり、そんな感じです」
「なるほど。ちなみに、どこの本屋さんを回っていたのですか」
「えっと確か、〇〇市の〇〇書店、□□市の□□書房……」
 スラスラと本屋の名前を答える能呂さんについていけるよう、私も必死でペンを動かす。できすぎた証言のような気がするな、と思いながらもなんとか全てメモした。
「一応確認しますね。
 では、こちらに記入を」
 大倉さんはそれ以上は無理だと判断したようで、これまでの二人と同様に用紙を記入してもらうことにした。
「これにお願いします」
「はい」
 能呂さんは素直に書き始める。
 しかしそこで、大倉さんがハッとして思い出す。
「そういえば忘れていました。
 能呂さんは被害者のことを、どう思っていましたか」
 一瞬ビクッとする能呂さん。ただペンは止まっていない。
 大倉さんは少し険しい表情をしていた。何せ、今井さんが一番怪しいとして挙げた名前が能呂さんだったのだ。
 能呂さんは答え始める。
「誰かから聞いたんですよね。私がオマルさんにいじめられていた、って。
 それは確かです。だって、今日だって仕事なのに当人とマネージャーの私は別行動なんです。私みたいな男とは一緒にいたくないんですって。
 それにあの趣味の悪いペンだって、誰かのSNSを見て感化されて、それで僕に集めさせたんです。まだ返してもらってないお金もたくさんありました」
 能呂さんの手元のペンが震えていた。
「もはやマネージャーなんかじゃない。奴隷でしたよ、私の扱いは。
 でも、オマルさんに恨みを感じていたのは私だけじゃないと思いますけどね」
「それは一体」
「ここだけの話にしてくれますね」
 小声で聞く能呂さんに、大倉さんが頷いた。
「野間さんです。オマルさんは自分が一番でなくては嫌な性格なんです。だから、性格はきつそうだけど、美人で仕事もできる野間さんを目の敵にしていたんです。
 野間さんってこんな会社で働いてますけど、私から見ても彼女の能力はこんなところで燻ってるには勿体無いほどです。実際に、大手編集会社から引き抜きのオファーも来てましたから。
 けれどオマルさんは、野間さんのありもしない噂……パワハラで人を何人も追い込んでるとか、アイデアを盗んでるとか……を流して、そのオファーを潰したんです。
 まあこの話は、マネージャーとして酒の愚痴に付き合わされていた私しか知らないんですけど」
 そこまで話して能呂さんは用紙を書き終えた。
 最後の最後でこれまでの態度から想像もつかないほど話した能呂さんに私たちも驚いたが、一応三人の取り調べは終わった。

 能呂さんが去って大倉さんと二人きりになった私は、大倉さんの目の前の椅子に座った。
「なんか嫌な会社ですね」
「あぁ、そうだな」
 私たちは顔を見合わせてため息をついた。
 何せ、話を聞いた三人が互いに誰かのことを容疑者として挙げているのだ。
 今井さんは能呂さんを、野間さんは今井さんを、能呂さんは野間さんを。皮肉にもまるで数珠つなぎのように、三人とも誰かを売っては誰かに売られているのだ。
「こんなにドロドロした会社なんて、私嫌です」
「俺たち捜査一課はそうならないようにしような」
「えぇ……あ、そうだ」
 私は思い出すようにスマホを取り出して、
「三人のアリバイを調べるよう、原田くんにお願いしておきますね」
「あぁ頼む」
 大倉さんの了承を得て、私は原田くんにアリバイ確認を頼む旨のメールを送った。
 送り終わって数秒もせずに、バイブが鳴って『オッケー 了解っす』との返信があった。軽い感じの原田くんに苦笑いしながらも、彼に任せることにした。
「頼んでおきました。けど……」
「けど?」
「原田くんに頼んでおいてなんですけど、三人とも、アリバイには自信がありそうでしたよね」
 私がそう考えを話すと、大倉さんも頷いた。
「だろうな」
 アリバイを堂々と話す三人を思い出しながら手帳を眺めていて私は、自分が使っていたペンがあの〝サラン〟のペンだったことに気づいた。
「そういえばこれですよ。被害者が一本だけ持ってた〝サラン〟って」
 プラスチック製のキャップタイプのペンで、先が特殊な作りになっているためとても書きやすいのだ。もちろん芯の取り替えも可能。
「これか。ちょっと書いてみたいな」
「どうぞ」
 私が大倉さんにペンと手帳を渡すと、大倉さんはサラサラと試し書きした。
「確かに書きやすいな」
「この事件終わったら、赤も青も黒も緑も全色そろえてあげますよ」
「自分で買えるよ、バカにするな」
 そんなことを話していると、そこへトメさんがやってきた。
「ちょっといいか」
「もちろん」
 私は急いで立ち上がって椅子を譲った。
 ごめんよ、と言って椅子に腰を下ろしたトメさんは、紙を取り出して私たちに見せた。どうやらさっきの間に新しいことがわかったらしい。
「実はな、あの変な文字だけどちょっとわかったことがあってな。
 何回も書き足されていたことがわかったんだ」
「書き足された、とは?」
「初めは『ノマ』のカタカナ二文字しか書かれてなかったんだ。
 だけどその後、カタカナの『イ』が書き足されて『イマイ』になったんだ」
「『イ』が書き足された?」
 私が思わず口にすると、トメさんも頷いて続いた。
「それだけじゃない。
 そのあとは『マ』が書き足されて『マイマイ』になった。
 そして最終的に『マ』のはらいの部分が伸ばされて、『アイマイ』って文字になったわけだ。
 筆跡鑑定したらすぐにわかったよ。文字ごとに筆跡も筆圧も違うし、ペンの乾き具合も違うから書かれた時間も違うし」
 トメさんが持ってきた筆跡鑑定の結果を見ると、その書き足されていったという文字がその順に書かれていた。



 それを見た瞬間、私と大倉さんは、
「なんと!」
「これは!」
 と声をあげて驚いた。
 ノマとイマイはそのまま、野間と今井に変換して読める。マイマイは能呂さんのあだ名のことだ。
 さっきまでの〝曖昧〟なメッセージとは違い、事件関係者の名前をはっきりと示しているダイイングメッセージを前に、私たちは開いた口が塞がらなかった。
 いや逆に、誰を表しているのか、もっと〝曖昧〟になったという方が正しいのかもしれない……。

「こりゃ驚いたもんだ」
 トメさんは私の手帳を見て、呆れたように笑った。
「それにしたって、どろっどろっした会社だな」
 私たちも苦笑いした。
「それにしたって、トメさんの調べ通りならこいつはもっと厄介なことになったな」
「俺の調査は正確だよ。天地がひっくりがえらない限りな」
 私はもう一度とめさんが持ってきてくれた調査書を見た。そして、ちょっとしたことに気づいてそれをトメさんに尋ねた。
「この『別インク』ってどういうことですか」
 一番目に描かれたと思われる文字のところに『別インク』と書かれていた。
「それはだな、一番初めに書かれただろう『ノマ』って文字だけペンのインクの成分が違ったんだ。なぜかは知らんが」
 いいか、とトメさんは前屈みになって調査書に顔を寄せた。
「一番初めのこの『ノマ』って文字を書くのには〝サラン〟のペンが使われたんだ。
 だけど、その後に書き足された文字は全部、あのカラフルなペンで書かれてたんだよ。
 安物のペンと書きやすいって評判のペンじゃインクから成分が違ってる。一目瞭然だったよ」
 なるほどね~、と大倉さんは肩のこりをほぐすように首を回してから、ため息をついた。
「本当に厄介なことになったなあ」
 私は、
「素直に考えればいいんじゃないんですか」
 と言った。大倉さんとトメさんの視線が私に集まる。
「だってこれ、一番初めに書かれた文字は『ノマ』なんですよね。ということは素直に考えて、野間さんのことを表しているってことなんじゃないんですか」
 大倉さんが一瞬納得したような顔をしたが、また元の難しい顔に戻った。
「いや、まだそうは言い切れない。野間さんにはアリバイがある。
 まだ確定はしていないが、もしアリバイに間違いがなければデパートからここまでの移動時間を考えて犯行は不可能だ」
「アリバイ……ですか」
 三人のアリバイは確実だろう、とさっき大倉さんと話したのを思い出して、私は考えを改めた。
「じゃあ一体誰が……そもそも、なぜ何回も書き足されたんでしょうか。
 一体、なぜ……」
 私はそう呟いたが、答えは出なかった。

 私たちはトメさんに礼を言って、容疑者三人が待つ社長室へ戻ることにした。
 すると、
「まだ帰っちゃダメですか」
 と声がした。
 私たちが会社の広くはない玄関ロビーを見ると、作業服を着た四人の男性たちが外の警官たちに話している。
「もしかして彼らが第一発見者の四人組でしょうか」
「そのようだな」
 私と大倉さんは目配せしてその男性たちのところへ向かった。男性たちを建物の中に誘導して話を聞きたいと伝える。
 中年の男性、メガネをかけた男性、体つきのいい男性、そして一番若い男性。四人の作業員の服の袖にはそれぞれ順に、田口、坂場、井上、高地と名札がついていた。
「まだ帰っちゃダメなんですか」
「すいませんもう少々……」
 四人のうちのリーダー格と見える田口さんが大倉さんに尋ねる。
「この事件を担当する大倉と桜崎です。改めてお話をお聞きしたいんですがいいでしょうか」
 大倉さんがいうと、四人は顔を見合わせてから、メガネの坂場さんが話し出した。
「僕たちはこの会社のリフォームの作業をしにきたんです。
 階段が劣化してきたと連絡いただいたんで、階段周辺のリフォームがてら手すりの付け替えとか色々」
「なるほど。じゃあ次に、被害者のオマルさんのことをどう考えていたかお聞きしたいのですが」
 大倉さんがそう言った途端に、四人は口々に話し始めた。

井上「よくは知らねえけど、俺からみたら恨まれるような人には見えなかったぜ」
坂場「確かに。仲良く話すほどの仲でもなかったですし」
高地「でも会社の人たちからは良い噂聞きませんでしたよ」
田口「確かに。俺がみてる限り、あの気弱そうなマネージャへの当たりは強かったな。能呂さんって言ったっけ」
高地「野間さんでしたっけ、編集長の女の人。その人の愚痴言ってるの聞きましたよ」
井上「俺なんか、オマルさんと今井社長が抱き合ってるとこ見ちまったよ」
坂場「まあ、オマルさんの横暴ぶりは酷かったですね」
田口「俺はああいう女苦手というか嫌いだな」
高地「もしかすると、楽屋で家計簿チェックしてる時に後ろから襲われたんじゃないんですか」
井上「あーありそうありそう。日頃の恨み晴らさでおくべきか~って」
坂場「流石に不謹慎だぞ」

 私はなんとかメモを取り終えた。大倉さんと話して、とりあえず四人には簡単な身元証明を掻き取ってもらうことにした。
「まあこの四人は関係ないだろうから、今日のところは帰していいだろう」
 と大倉さんも言った。
 用紙を取り出して四人に配った時、井上さんが作業服のポケットからペンを取り出した。
 それをみて私は驚く。
「あ! それ、あのペンだ!」
 井上さんの手にあったのは、被害者がたくさん持っていたカラフルなペンと同じものだったのだ。
「え、何」と驚かれた井上さんが焦る。
「それ一体どうしたんですか」
 大倉さんが顔を近づけて尋ねる。
「い、いや違いますよ。これもらっただけです!」
 井上さんは疑われていると思ったのか、大きく首を振って答えた。
「本当ですよ、刑事さん」
 そこへ田口さんと坂場さんも声をあげて、同じカラフルなペンを取り出した。
「どういうことですか」
「もらったんですよ、オマルさんから」
 私の問いに田口さんが答えた。それを皮切りにまた口々に話し出す。

田口「刑事さんたちもみたでしょ、このカラフルなペン。オマルさん、これと同じのめっちゃ持ってたでしょ」
坂場「僕たちもオマルさんからもらったんですよ。お近づきの印に、ってね」
井上「まぁどうせ、処分に困ってポンポンあげまくってたんだろうよ」
田口「俺たちも、もったいない症が抜けないから、もらったからにはインクがなくなるまで使おうってだけだし」
井上「ほんとほんと。でもこんなところでしか使わないっすよ」
坂場「ちょっと暑いとすぐにベタベタして使いづらいですからね」

「なるほど」
 私はメモを取り終えると、高地さんの方を見て尋ねた。
「あれ?、高地さんは?」
「あ、僕は持ってないんですよ」
 急に振られた高地さんは少し驚きつつも答えた。
「そういやお前はもらってなかったな」
 井上さんも不思議そうに言う。高地さんは一人気まずそうに、
「いや僕は貰わなかったというか……貰えなかったんすよね……ハハ……」
 たまたまオマルさんに会えなかったのかな。私がそう考えた時、
「大倉さん!」
 話を区切るように、階段の上から刑事が降りてきた。
「まだ帰れないのかって今井さんがゴネ始めました。手がつけられません。応援要請です!」
「はー、全く」
 大倉さんは腰を上げて刑事を追う。今井さんの相手は厄介だが、それでも部下に頼られて嬉しかったようだ。
「今いく」
 大倉さんはさっさと上がっていく。
「すぐ行きます」
 私は大倉さんの背中にそう言って、四人が用紙に書き込むのを眺めていた。
 曖昧すぎるダイイングメッセージ、カラフルなペン、罪をなすりつけあう容疑者たち……。
 私は心の中で、この事件に暗雲が立ち込めるのを感じていた。


 僕は、手に持っていたボイスレコーダーを切った。これは、凛から預かっていたものだ。
 驚くことに凛は、現場についてからずっとボイスレコーダーの録音機能をオンにしていた。その録音を僕に預けてきたのである。だから、容疑者の取調べの様子やトメさんという鑑識との会話も、全てそのままに残っていた。
『探偵って、ほら、犯人の言葉の小さなほころびから証拠とか見つけるでしょ。だからこの録音データも必要だと思って』
 とか言っていたが、まあおかげで、美琴には事件関係者たちの会話を一言一句逃さず聞かせてやれたはずだ。
「ちなみに、後付けの情報だけど、容疑者たちのアリバイは確実だったらしい」
 僕は凛から後付けで送られたメールを読んだ。
「今井さんの言うとおり、九時五十七分に生放送に犬が飛び込むハプニングがあった。だけど大したものではなかったので、テレビ局側もよく覚えてなかったらしいよ。
 次は野間さん。野間さんのが一番確実っぽくて、お客さんの誰かが落とした財布を野間さんが拾ってくれたらしい。その様子が十時十分に監視カメラに映ってたって言うから、死亡推定時刻に現場にいることは無理だからね。
 最後は能呂さん。監視カメラとかの明確な記録が残ってたわけじゃないけど、能呂さんが提出してくれたレシートと本屋側の記録が一致したらしい。買った本とか時間とかね」
 僕はそこまで話すと、
「以上のことから、警察は三人のアリバイは確実だって考えてるらしい」
 顔を上げて美琴の方を見た。
 僕が凛から聞いた事件のことを話している間、美琴は目を瞑ったまま黙り込んでいた。話し終えた今もそのままだ。
 僕の頭のなかに疑問が浮かんでいた。これは前回の真の時にも考えたことだが、美琴は本当にこの事件の謎を解けるのだろうか。
 恥ずかしながら、僕はこれほど現場の警察を同じ情報を与えられているのに、全くわからなかった。凛が言っていた〝曖昧なダイイングメッセージ〟と言う言葉の意味を痛感したのだ。
 時計を見ると、すでに完全下校時刻の十分前だった。事件の内容を詳しく話すのにはとても時間がかかる(普通はありえないことだが)。それでも下校時刻を破るのは御法度、だからこれ以上時間がかかるようなら美琴を帰らせなくてはいけない。
「美琴、わからないならいいぞ。解けなくたって良いんだ」
 そうかけても美琴は何も言わない。
「おーい……」
 僕がそう美琴の顔を覗き込んだ時、
「いや、」
 と美琴が声をあげた。そして、
「事件の謎はとっくにわかってるんですけど、」
 とあっけらかんとして突拍子もないことを言い出した。
 えっ今なんて⁉︎
 僕がポカンとしていると、美琴はその後に言葉を続けた。

「初めっから言ってる〝曖昧〟ってどう言う意味なんですか?」

 へ?

第三章 謎解き
「……美琴、お前それ本気で言ってるのか」
 美琴の言葉に、真の時とは違う驚き(というか呆れ?)を感じた。
 事件の謎はすぐわかったのに〝曖昧〟と言う言葉の意味がわからず、それでずっと悩んでいたって?
 というか〝曖昧〟の意味がわからないなんんて語彙が少なすぎだろう。美琴の受験合格も危うくなってきたぞ。
 とは言うものの、僕もぼんやりとしたイメージしかわからないので、スマホで〝曖昧〟の意味を調べた。
「『内容がしっくりとらえにくいこと』だって。簡単に言えば、はっきりしないこと、ってことだ」
「なるほど、納得納得」
 それを聞いた美琴は合点が言ったように頷いた。そして改まった口ぶりで、
「それじゃ、謎解きを始めましょうか」
 まるで、小洒落た教師のように微笑んだ。

 美琴は黒板の前に立って僕は椅子に座った。先生と生徒の立場が逆転した形だ。
 美琴は格好つけて一礼すると話し始めた。
「まずは、この事件で一番〝アイマイ〟な謎、ダイイングメッセージについて片付けちゃいましょうか」
 美琴は黒板に『ノマ』と書いた。
「私の推理でも、一番初めに書かれた文字は『ノマ』だったと考えて間違い無いと思います。でも問題は、この『ノマ』を、誰が書いたのかと言う点です」
 美琴の意外な問いに、僕は思わず「へっ」と間抜けな声を出してしまった。
「被害者のオマルさんに決まってるじゃないか」
「違います」
 美琴は人差し指を口元で振った。
「真から聞きました。先生が教育実習してた時に遭遇した事件のこと。
 覚えていませんか? あの事件のダイイングメッセージが、犯人によって偽装された偽物だったこと」
 僕はかつて遭遇した事件を思い出した。ダイイングメッセージがあった事件で、つい先日、真に謎解きしてもらったものだ。真の推理によれば、ダイイングメッセージは犯人によって偽装されていたのだ。
「まさか……」
「そう、そのまさかなんです。
 今回のダイイングメッセージも、犯人が偽装した偽物だったんです。
 だから、この『ノマ』は犯人が書いたもの」
「ちょっと待て。どうして、その『ノマ』が犯人が書いたものだってわかるんだ。一体何を根拠に」
「だって、字を書くのに〝サラン〟を使ってるからです」
 美琴は即答するが、僕は意味がわからずポカンとしてしまった。
「サランを使ったからって、なんだって言うんだ」
「よく思い出して見てください」
 美琴はそう言って、捜査資料の中の現場写真を指差した。
「現場に、ペンはどんなふうに散らばっていましたか」
 僕は凛の話を思いだす。
 被害者の体の周りにはカラフルなペンがたくさん散らばっていて、サランのペンは被害者から一番遠いドアノ近くに……ん?、何か違和感を感じたような……。
 僕が何か気づいたようなそぶりを見せると、美琴がヒントをくれた。
「意識が途切れそうになってる被害者目線になってみてください」
 美琴のヒントを聞いて、僕は頭の中で殴られた被害者になり切ってみた。
 後ろから突然殴られて、前に倒れる。うつ伏せで息は途切れ途切れ。どうやって自分を殴った犯人をみんなに伝えようか……。
 僕は目の前に広がるペンを想像して、気づいた。
「そうか!
 サランは一番遠いところにあった。死ぬ直前で早くダイイングメッセージを書かないといけない状況で、一番遠いところにあるサランのペンを選ぶなんておかしい。
 それに、もっと近いところに転がっているのはカラフルなペン。お気に入りのペンなんだから、普通ならそれを選ぶはず」
 ってことだな、と美琴を見ると、美琴は笑顔で頷いた。
「その通りです。だから、犯人が書いた可能性が高いとわかるんです」
 でも、だとしたらもっと謎は深まる。
「じゃあ、『ノマ』に書き足して『イマイ』にしたのは誰なんだ?」
 美琴はその質問に「うーん」とうなってから、
「これは完全に私の想像なんですけど」 
 と前置きして話し始めた。
「それは、野間さんの仕業だと思います」
「野間さんが⁉︎」
「はい」
「けれど、野間さんにはアリバイが」
「けれどそのアリバイは、死亡推定時刻のものです。
 死亡推定時刻の十時前後から第一発見時刻の十二時過ぎまで、二時間も間があるんです。その間に、野間さんにアリバイありましたっけ?」
「!」
 完全に盲点だった。凛たちが聞いたのはあくまでも、死亡推定時刻〝十時ごろ〟のアリバイだけ。野間さんに限らず、今井さんも能呂さんも、その自国から第一発見時刻〝十二時過ぎ〟までのアリバイはあやふやなはずだ。
「オマルさんを殺した犯人と、ダイイングメッセージを偽装した犯人が、同一人物だとは限りませんよね」
 美琴の付け足しで、僕の頭の中には一つの仮説が思い浮かんだ。
「もしかして、この書き足されたダイイングメッセージは……」
 美琴は僕が考えていることを見抜いたようだ。
「多分、先生が考えてることと私が考えたこと一緒です。
 そうです。このダイイングメッセージは、野間さん、今井さん、能呂さんが一人ずつ書き足していったんです。
 つまりこう言うこと……」
 美琴は黒板の『ノマ』の文字にどんどん書き足していった。
「何者かに『ノマ』と書かれたダイイングメッセージを見た野間さんは、『イ』をつけて『イマイ』にします。
 次に『イマイ』と書かれているのを見た今井さんは、『マ』をつけて『マイマイ』にします。
 最後に、『マイマイ』という自分のあだ名が書かれているのを見た能呂さんは、『マ』のはらいの部分を伸ばして『アイマイ』にします」
 最終的に黒板には、あの写真と同じ『アイマイ』の文字があった。
「こうして、曖昧なダイイングメッセージが完成したんです」
「なるほど……。
 確かに今思えば、野間さんは今井さんのことを、今井さんは能呂さんのことを……二人とも自分が直した後の名前の人のことを怪しいと言ってたな」
「そう言うことです。証言でも人になすりつけてましたけど、ダイイングメッセージでも同じことをしていたわけです」
「そう言うことか……」
 こうして〝曖昧なダイイングメッセージ〟の謎は解けたわけだが……
「それで、結局『ノマ』の文字を書いたのは誰なんだ?」
 結局そこに謎は戻ってくる。
 オマルさんを殺し、その時に『ノマ』とかいて、曖昧なダイイングメッセージのきっかけを作った人がいる。その人こそが真犯人。
 そこまではわかったが、それが誰かわからない。
「一体、誰が犯人なんだ?」
 僕は率直に美琴に尋ねた。
「『ノマ』と書く時に使ったペンに注目してください」
「ペン? サランのペンを使ったんだろ。……そういえば、どうしてサランを使ったんだ?」
 改めて考えると、『ノマ』をサランでかいた真犯人の行動は不自然すぎる。被害者の体の近くにあったカラフルなペンを使えば良いのに、わざわざ遠くにあったサランのペンを使う必要がないのだ。
 どうして、真犯人はサランを選んだんだ……?
 考え込む僕を見て、美琴が話しかける。
「きっと野間さんたちも、被害者がカラフルなペンを使って書いたと思ったんでしょう。だから、それに合わせようとして、ダイイングメッセー時に書き足すときにカラフルなペンを使ったんです。
 だけど実際に『ノマ』とかいたのは、カラフルなペンではなくサランだった。このペンの違いが、真犯人を特定する大きなヒントになるんです」
 僕はそれを聞いて、二つのペンの特徴をまとめてみることにした。
「カラフルなペンは、外側がゴム製だからベタベタしてる上に、書きにくい。あと、芯の取り替えができない。
 サランはプラスチック製のキャップタイプで、芯の取り替えもできる。何より描きやすい。
 違う点と言えば、書きやすさと芯の取り替えができるかどうか、かな……」
 美琴はさらにこういった。
「ちょっと視点を変えてみましょう。
 そのペンを〝選ばなかった〟のではなく、〝選べなかった〟としたら?」

 選〝べ〟なかった……?

 この美琴のヒントで、僕は納得いく一つの答えに辿り着いた。
「もしかして、真犯人は〝ゴムアレルギー〟だった?」
 美琴は微笑んだ。僕は話し続ける。
「カラフルなペンは外側がゴム製だけど、サランはプラスチック製だ。
 もしゴムアレルギーの人がこの二種類のペンを目の前にしたら、きっとプラスチック製のサランを取るだろうな。きっと、意識せずとも咄嗟に」
 美琴は僕の説明に頷きながら、話を進める。
「ゴムアレルギーって人によって重さが違うらしいじゃないですか。
 蕁麻疹で済む人もいるけど、それこそ『アナグマラシキショック』を起こしちゃう人とか……」
 ん、ちょっと待て、『アナグマ』?
「それ、『アナフィラキシーショック』と言いたいのか?」
「あ、そうそうそれです」
 これまで大人っぽい口調で推理を進めていたのに、いきなりのバカ発言をかます美琴に僕の身体中の力が一気に抜けた。天然が過ぎるだろう……。
 だけど、今日だけは、日頃の天然を疑わせるほど美琴の様子は違った。今日の美琴は、難事件を鮮やかに解き明かす名探偵だ。
 僕がそう思って苦笑いしているうちにも、美琴の推理は続く。
「まあ今回は、蕁麻疹で済む人でもカラフルなペンは選ばなかったと思います。だって、ゴムに触れれば蕁麻疹が起きて、カラフルなペンを触ったと言うことがバレてしまいますから」
 なるほど。だから犯人は〝サラン〟のペンを選ばざるを得なかったわけだ。
 そこで僕は『手袋を使った』と言う仮説を立てたが、言葉にはしなかった。今回の事件は、大倉さんも言っていた通り衝動的反抗だと思う。計画していないのに、あらかじめ手袋を持っていたとは思えない。
 だから素手で触るしかなかった犯人は、カラフルなペンを使えなかったのだ。
 そこまで僕も納得できたところで、いよいよ最後の謎だ。
 ゴムアレルギーだったがために、『ノマ』と言う偽物のダイイングメッセージを書くときにサランを使わざるを得なかった真犯人はいったい誰なのか。
「はんに」
「ちょっと待って」
 犯人の名前を言おうとした美琴を僕は遮った。
 最後のこの謎だけは解いて見せたい、と懸命にあら魔をフル回転させる。
 美琴もその思いを汲み取ってくれたようで、黙ってこちらをみている。

 野間さん、今井さん、能呂さん。
 僕の頭の中では凛が与えてくれた情報が駆け巡っていた。

 ……だが、いくら考えても、三人の言動にゴムアレルギーを匂わせるものは一切なかった。
 僕が唸っていると、美琴がニコッと笑った。
「先生、大事なこと忘れてます。
 三人の中に犯人がいるとは限らないんですよ」
「……?」
 僕の脳みそは美琴の言ったことの意味が理解できなかった。
 だけど、だんだんとその意味がわかってくると、ついに一つの答えが見えてきた。
「……まさか、あんなことを言っていたあの人が……?」

 録音機には、とある人物のこんな発言が残っていた。

『いや僕は貰わなかったというか……貰えなかったんすよね……ハハ……』

「リフォーム作業員の、高知さん‼︎」
 気づいた瞬間鳥肌がたった。全く気にも留めていなかった作業員たちの中に、重要な人物がいたのだ。
 高地さんは『貰わなかった』のではなく『貰えなかった』と言った。
 ゴムアレルギーだったからこそ、被害者から差し出されたであろうカラフルなペンを断らずを得なかったと言うことではないだろうか。
 美琴が嬉しそうに微笑む。
「その通りです。高地さんがカラフルなペンをもらえなかったのは、ゴムアレルギーだったからだと思います。
 それに、誰も気づいてないですけど、高知さんだけ明らかにおかしなこと言ってますよ」
「おかしなこと?」
 僕は、もう一度ボイスレコーダーで高地さんの発言を抜き出して聞き返してみた。
 何度聞いてもおかしなところはなさそうだが……。
「スマホ手帳のことですよ」
 美琴がそう呟いた。
 スマホ手帳のこと? 僕は高地さんのスマホ手帳に関する発言を抜き出してみた。

『もしかすると、楽屋で家計簿チェックしてる時に後ろから襲われたんじゃないんですか』

 これぐらいなんだけど……あ、そう言うことか。ようやく気づいた。
「スマホ手帳には、スマホケースや鏡やメモ帳やカレンダーや家計簿……たくさんの機能を持っているのに、その中から『家計簿チェックをしていた』と、使ってたのが家計簿だと特定できるのは不自然だ」
「その通り!」
 美琴はまた嬉しそうに言った。……改めて見れば、その笑顔はとても眩しい。
「スマホケースにはスマホが入ってましたし、現場には化粧品もありましたよね。
 だとしたら普通は『スマホいじってた』とか『鏡見て化粧してた』とかって想像するはずです。実際に今井さんはそう言ってましたし。
 だから、『家計簿を見てた』と想像するのは難しいんです。そう……」
 美琴は意味ありげに微笑んでから、続けた。
「被害者が家計簿を見てる時に後ろから襲いかかった、犯人じゃない限り、ね」

 僕は美琴の推理に呆気に取られた。よくもまあ、関係者たちのそんな細かい発言まで覚えられるものだ。いつもの天然キャラには似ても似つかない。
 だけど……。

「でもさ、これだけじゃ、これといった強い証拠がないじゃないか。ゴムアレルギーだから犯人ってのもこじつけ感があるし、スマホ手帳のこともたまたまって言われればそれまで。
 それこそ、本当のダイイングメッセージみたいな、強力な状況証拠がないと……」
 もちろん僕が言える立場ではないのはわかっている。ここまで推理できただけでも、とてもすごい。だが、証拠が弱いと思うのもまた事実。
 美琴は僕の指摘を聞いてダンマリしてしまった。
 
 十数秒しても何も離さない美琴。流石の美琴もここまでか……。
 そろそろ美琴を帰そうと思って声をかけようとした時。
「今気づいたんですけど、ちょっと待っててください」
 突然美琴は、事件の捜査資料を手に取った。
 そして、ダイイングメッセージが書かれた広告の写真が載ったページを開くと、じっくり見まわした。
 が、すぐに微笑むと、僕の方にそのページを差し出した。
「これ見てください」
「あ、あぁ」
 僕はそれを受け取る。
 そのページには、『アイマイ』の文字が書かれた広告裏の白い面と、スーパーの商品のことが載っている広告表の写真が載っていた。
 美琴はまた話し出す。
「ずっと気になってたんです。どうして、犯人は広告の裏に偽物のダイイングメッセージを書いたんだろう、って。
 きっと倒れたオマルさんの近くに広告が落ちてたからだと思うんですけど、なぜオマルさんの近くに広告があったんでしょうか。
 オマルさんが何かを書き残そうとしたと思うんですけど、スマホ手帳の方が何倍もいいと思うんです。だってメモ帳があるんだから、その中のどこかのページに書いてしまえば犯人を惑わせることができます。さらに、書いた部分を切り取って体のどこかに隠して仕舞えば確実にそれを残すことができると思うんです」
「……」
 僕は美琴の推理を聞いて、改めて疑問を感じた。
 美琴のいう通り、広告に書くよりも手帳に書く方がメリットはたくさんある。ならどうして、オマルさんは広告の方を選んだんだろうか。
「オマルさんが広告に何か仕掛けていたんだろうな、って思ったんです」
 美琴はそう言って、広告の面の方を指差す。僕はその写真を舐め回すようにみた。
 そして……、
「あっ‼︎」
 そのことに気づいた時、また鳥肌がたった。

 広告の面には、商品の名前の頭文字のあたりにいくつか黒丸がつけられていた。
《コロッケ特売!》
《ウインナー増量中!》
《チョコレート掴み取り!》

「コ、ウ、チ……高地だ!」
 商品の名前の頭文字を並び替えると、『コウチ』すなわち『高地』という文字が現れた!
 まさか、ずっと僕たちを悩ませていた偽物のダイイングメッセージが書かれていた裏の面ではなく、その裏にあたる表の面にこそ本物のダイイングメッセージがあったなんて!
「オマルさんは、この方法なら書いたい物に丸つけただけに見えるから、犯人も見落とすって思ったんじゃないんでしょうか」
 美琴も頷きながら話す。
「まあ、これでも証拠が弱いって言われちゃうかもしれないですけど……。
 高地さんについてもっと詳しく調べるために、上の人を説得するには十分すぎると思いますよ」
 僕は納得せざるを得なかった。高地さんは無関係だと思われていたから、もっと深掘りして調べるためには凛たち警察を納得させないといけない。
 だけど、美琴がここまで状況的な証拠を出してくれた以上、警察も納得するに決まってる。そうして指紋やDNAなどの物的証拠が出れば、高地さんが犯人だという決定的な証拠になるはずだ。
 でも美琴の推理を聞いていると、高地さんを示す物的証拠が出てくるのも確実な未来だと思えてくる……。
 僕が黙々とそんなことを考えていると美琴は、
「これでいいですか?」
 推理をしめる最後の一言。美琴はさっきまで流暢に殺人事件の推理を語っていたとは思えない可愛らしい笑顔で言った。
「あぁ」
 僕は頷いた。

 時計を見ると、時間h完全下校時刻の二分前だった。そろそろ下校を促す放送がなるはず。急いで返さなくては。
「美琴、ありがとう。もう帰っていいぞ」
「わかりました」
 美琴はスッとたつと、長い髪をたなびかせながら部屋のドアへ向かう。
 そして一瞬だけ振り向くと、
「また事件あったら教えてくださいね!」
 最後にニコッと微笑んで部屋を出ていった。スタスタと走って階段を駆け降りていく。
 僕は、美琴が階段を踏み外すことなく無事に下れたことを確認してから、鍵を閉めようと教室の点検をしていたが……
「あ、あいつ……」
 教室の隅に、美琴の荷物が置かれたままになっているのに気づいた。
「お、おい! 美琴‼︎」
 僕は、すでに昇降口に着いてしまったであろう、名探偵に向かって叫んだ。

 忘れた! やばい!
 そんな、おっちょこちょいな雄叫びが聞こえてきそうだった。

 二時間目 終了
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