婚約はなかったことになりましたが、新たな出会いはあったので、穏やかに暮らします。

四季

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1.一番残念な日の邂逅

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 舗装されていない砂利道を歩いていく。人の少ない山道に響くのは、足音と、細かな粒が飛び散る音。それ以外に音はない。こうも静かだと、時が止まった世界で私一人だけが歩き続けているかのような気分になってくる。それでも足を止めることはしない。ただひたすらに前へと進んでゆく。それしか私にはできないから。道の左右に生え、私をそっと見下ろす木々は、何も言わない。何も発さない。私はただ、静寂の中を進んでゆく。

 セリナ・カローリア。それが私の名前。

 茶葉を売る店に次女として生まれた私は、両親と姉と私の四人で暮らしてきた。私は今、十八歳。姉は二十歳。しかし、家にはもう、私一人しかいない。

 一昨年の秋——ちょうど丸二年ほど前になるが、姉は商家の三男と結婚して家を出ていった。高齢だった父親は、姉の小規模な結婚式を見届けてすぐに亡くなる。父の死は悲しかったが、それでも、しばらくは母と二人で店を切り盛りしていこうと前を向いた。というのも、二年後に私の結婚が迫っていたからである。私が嫁に行けば、母は一人になる。だから、せめてそれまでの間だけでもできる限り力になろうと考えていたのだ。

 でも、その結婚話は、泡となり消えた。

 何でも、結婚相手である男性に、本当に想っている相手がいるらしくて。それで、彼は「婚約をなかったことにしたい」と言ってきたのだ。

 私はべつに彼のことが好きだったわけではない。だから、彼も本当に好きな人と結婚すれば良いと、そう思わないことはない。彼と絶対離れたくない、なんて言う気はゼロ。だが、私の結婚を楽しみにしてくれていた母親の気持ちを踏みにじる形になってしまうのは、心苦しいものがある。

 打ち合わせ、と伝えて出掛けたから、母親はきっと話の進展を楽しみに待っていることだろう。

 それなのに「婚約解消された」なんて言ったら……母親はどんな顔をするか。

 婚約していた相手と離れることは辛くない。一応向こうの家も申し訳なくは思っているようでお金も払うと言ってくれているから、そこまで気にはしない。私が気になるのは母親のことだけ。母親が傷つかないだろうか、ということだけは、気になって仕方がないのだ。そのせいで、私は、曇り空のような心になってしまっている。

 低いヒールが砂利を蹴り飛ばす足下を訳もなく見つめながら歩いていると、ふと、視界に入るものがあった。

「……人?」

 道と森の狭間、草木は生えているが道から見えないことはない位置に、人の形をしたものが横たわっている。そのことに気がついた私は、見知らぬ人に声をかけるという恐ろしさを僅かに感じながらも、好奇心に駆られて進行方向をそちらへ移した。

 接近すると、倒れている人物が全身に甲冑をまとった人物であることが判明する。体格からして、恐らく男性だろう。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 言葉が通じるものかどうか、それすら不明。それでも、一度気になり始めたら、いつまでも気になってしまうというもの。見なかったことにして通り過ぎても、後から「あの人はどうなったのだろう?」と思うに決まっている。だから今ここで声をかけておくことにしたのだ。

「大丈夫ですか……?」

 すぐに返事はなかった。
 だが、時には即座に返事ができない状況の時だってあるだろうから、私はしばらく待ってみる。

 時折風が吹くと、周囲の木々が揺れ、柔らかな音が響く。それは、心を穏やかにしてくれる音。まるで、不安ばかりの私に「大丈夫だよ」と語りかけてくれているかのよう。

 そんな優しげな風が茜色の髪を揺さぶると、温かな手で撫でられているかのような気分になる。
 葉が鮮やかな色を帯び始めるこの季節の風は、決して冷たくはない。それなのに、浴びると一種の温もりのようなものを感じる。

 直後、横たわっていた甲冑の男性の手が——否、指が、ぴくりと動いた。

 死んではいない。
 彼は気を失っているのかもしれないが、生きてはいる。それは確か。

「あのっ……! 意識はありますか?」

 数秒の静寂、その後、男性の銀色の指がまた動いた。そこからさらに、寝返りのような動きをして、右を下にする形に体勢を変える。死人の動きではない。

「……パン」
「へ?」

 甲冑の男性が突然放った言葉に驚きと戸惑いをおぼえ、反射的に口から出してしまったのは妙に甲高い情けなさ丸出しの声。

 これはかなり恥ずかしい……。

 通行人がいなかったことが唯一の救いか。これで通りすがりの人に聞かれていたら、もう、そこらに穴を掘って隠れるしかない、なんてことになるところだ。

「……腹が……減った……」

 先ほどいきなりパンと言ったのは、空腹ゆえらしい。それなら理解できないことはない。

「え、っと……その、もしかして、お腹が空いて倒れていたのですか?」
「……その通り」

 男性は低く小さな声でそう答えた。

 何とか話が成り立っている。どうやら意思疎通は可能なようだ。言葉で意思疎通ができるというのは大きい。もちろん、良い意味で、だ。

 ただ、お腹が空いていると言われても、どうすれば良いか分からない。

 家に連れて帰る? ……でも、そんなことをしたら母が驚くだろう。運が悪ければ失神するかもしれない。なら、このまま放っておく? ……いや、それはそれは後味が悪い。もし後から亡くなったという話を聞いたりしたら、後悔するだろう。

「あの、歩けそうにないですか?」
「……馬がある、切り身に……するか……」
「ま、待ってください! 馬を食べちゃ駄目ですよ!?」

 発想が怖い、発想が。

「でも、馬がいるというのは本当の話ですか?」
「あぁ……。確か……あちらの木に……繋いだはず……」

 刹那、私は閃いた。
 馬に乗れば歩けなくとも帰ることができるのではないか、と。

「じゃ、じゃあですね! その馬に乗って、お家に帰ってください! こんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまいますよ?」

 私は元気に提案してみる。しかし男性は低いテンションのまま。

「……ない」
「え?」
「帰る場所は……ない」

 帰る場所がない、とは、一体どういうことなのか。

 家出中? 追い出された?
 何はともあれ、帰ることができる家がないというのなら、それは大問題だ。

「えっと……じゃあ、うちに来ます?」

 出会ったばかりの異性にこんなことを提案するのは非常識と捉えられてしまうかもしれない。でも、空腹で横たわるような状態でしかも帰る場所のない人を、放っておくことはできない。なれるなら力になりたいというもの。

「食事ありますよ」
「本当か……!」

 急に食いついてきた。よほど食べたいらしい。

「馬で移動しましょう。家までは私が案内します」
「それは助かる……!」
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