婚約はなかったことになりましたが、新たな出会いはあったので、穏やかに暮らします。

四季

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8.複雑な心境になりながらも

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 シュヴェーアが声の方を向く。すると客の女性は嬉しそうに手を振る。状況を飲み込めないシュヴェーアは戸惑った顔。しかし女性はまったく気にせず、右手の指を動かすアクションでシュヴェーアを呼び出そうとしている。

「……あれは?」
「うちのお店のお客さんよ。貴方のこと気に入ってるみたい」

 一応言っておいたが、シュヴェーアはよく分かっていない様子。子どものように首を傾げるだけだ。そこへ、再び女性の声。

「お兄さーん! 少しお話しさせていただけませんかー?」

 今度こそはっきり呼ばれたシュヴェーアは、困ったように眉尻を下げ、私を見てくる。

「……何だ、あれは」
「シュヴェーアさんのことを呼んでいるのよ。行ってあげてはどう?」
「……いや、だが……私はあのような……女は、知らない」

 いやいや、べつに昔ながらの知り合いなわけじゃないでしょ。あの女の人がシュヴェーアのファンなんだってば。それだけのことなの。

「向こうは知っているみたいだったわよ」
「なっ……! 知られて、いる……!?」

 シュヴェーアは真剣に驚いている。その姿はもはや『可愛い』部類だ。大人びていて中性的な整った顔、凛々しい目つき、それらがあっても、小さなことに真剣に驚く彼は愛らしい。まるで小動物。

「大丈夫よ。行ってみたら? 話すの楽しいかもしれないわよ?」
「……そうか、分かった」

 それからシュヴェーアは決意したように「行ってみよう……!」と言い放ち、数秒後には歩き出す。気づけば彼は、私の傍から離れていた。あっという間だ。

 私の方から行ってみるよう勧めておいて何だが、いざ彼が近くにいなくなると寂しい。
 パズルのピースが一つ欠けたような、そんな気分になる。

「セリナー。セリナはこっちに来ないのー?」

 一人になりしんみりしていると、ダリアがそんな風に声をかけてきた。

 私は迷った、カウンターの方へ行くか行かないかを。女性とシュヴェーアの様子がどのような感じになっているか気になるので見に行きたい気持ちはあるのだが、一方で、二人の時間を邪魔してはならないという気持ちもある。

 どうすれば良いのだろう……。

 立ったまま一人で悶々としていたら。

「セリナ! 袋持ってきてー!」

 ダリアが急にまったくもって関係ない話を振ってきた。

 何があったんだ一体、というような変わりぶりである。

 ろくな説明もなしに「袋を持ってきて」と頼まれた。
 袋の在庫を置いてある場所のことは知っているが、それでも、もう少し具体的な情報が欲しい。でなくては、どんな袋をどのくらい持っていけば良いのか分からず困ってしまう。

「どんな袋!?」
「普通のよー。何でもいいから、一枚持ってきてちょうだーい」

 一枚だけ? と奇妙に思いながらも、私は予備の袋が置いてある場所へ向かった。そして、茶色い紙袋を一枚取り出す。普通の、ということは、特に指定はないということなのだろう。それなら、どんな袋でも問題ないはずだ。

「はい! 母さん」
「ありがとうー。助かったわ」

 カウンターで接客しているダリアに紙袋を手渡してから、私は「女性とシュヴェーアが二人でいるところに乱入する形になってしまったのでは!?」と焦る。シュヴェーアは何も思わないだろうが、女性の方は私を不愉快に思うかもしれない。

「シュヴェーアさん! セリナも入れてあげて!」

 客である女性に嫌われたりしたら大変……って、うおおぃっ!!

 ダリアは「上手くやっておいたわよ」とでも言いたげにウインクしてくるが、私からすれば修羅場に投げ込まれるようなもの。辛い、辛過ぎる。いろんな意味で厳しい。

「……そう、だな」

 シュヴェーアは少し考えて続ける。

「……セリナ。私も……共にいてもらえる方が、ありがたい……」
「あ、いえ、私は結構よ?」

 女性は今のところまだ穏やかな顔つき。幸い、本格的に怒り出している様子はない。
 でも、だからといって油断はできない。
 人間いつ怒り出すかなんて誰にも分からない。個人の傾向はあれど、絶対はないわけだし。それに、そもそも私は彼女のことをよく知っているわけではない。それゆえ、傾向すら見えぬ状態。だからこそ恐ろしい。いつどこで睨まれるか、不安で仕方がない。

「お兄さん、この後少しお茶でもいかがでしょうか」
「茶、だと……?」
「美味しいお菓子もありますよ」
「菓子……!」

 出た、シュヴェーアの半端ない食い意地。

「どんなお菓子がお好きですか? 良かったら、希望のものをお作りします」
「……食べられるものなら、何でも好きだ……」
「え、そうなんですか。じゃあパウンドケーキなんてどうでしょう? 甘くて美味しいですよ」

 上品な女性は嬉しそうにはにかみながらシュヴェーアと話している。

 すぐ近くに私もいるというのに、全然こちらを見ないのは、さりげない嫌がらせか何かだろうか? 敢えてやっていることなのだろうか?

「パウンド……ケーキ……?」
「はい。ふんわりしていて美味しいケーキです」
「……美味そうだ」

 シュヴェーアはパウンドケーキに心奪われているが、女性はそれでも嬉しいみたいだ。こうして言葉を交わせるだけでも、彼女にとっては喜ばしいことなのかもしれない。

 確かに、惚れた異性が相手なら、単に話すだけでも幸せな気分になれるだろうが……。

「だが、やはり止めておく」
「え!」

 シュヴェーアの返答が意外なものだったので、私は思わず大きめの声を発してしまう。
 私に向けられた返答ではないと一応理解はしていても、反射的に出る声を止めることはできなかった。

「……どうした」

 シュヴェーアの灰色の双眸が、驚きの色をはらみながら、こちらをじっと見つめてきている。純粋な目だ。単純に私が声を発したことを疑問に思っている、と訴えるような目つき。

「あ、ごめんなさい。うっかり」
「……何でもないなら、いい」

 さらりと言って、シュヴェーアは視線を淑やかな女性の方へと戻す。

「そういう、ことだ……」
「え。そんな。お茶して下さらないのですか?」
「……女は、苦手でな」

 ん? そんなのは初耳。それに、出会って今日まで、女性が苦手そうな素振りなんて少しもなかった。私のことも母のことも嫌がってはいなかったし。とすると、そう言ったのは断るための嘘? でも、食にしか興味がなさそうな彼がそんな器用さを持っているとは考え難い。
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