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37.未経験の生活について
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ドラセナが遊びに来た。
日差しが強くなりつつある、ある日の昼下がりのことだ。
「セリナ、何だか顔つきが明るいですね! 何か良いことでもあったのですか?」
私の家に上がったドラセナは、両腕を真上へ伸ばし、体を横に曲げて、背伸びのような体操をしている。その様は、運動を始める前の人のよう。
「ドラセナこそ、なぜ準備運動を?」
「これは準備運動ではありません。ただの気まぐれです」
「そ、そうなんですか……」
準備運動でないことくらい私だって分かっていた。
なんせ、今から運動する予定なんて何一つないのだから。
「で、セリナ。何だか嬉しそうですが、良いことがあったのですか? もしそうなら理由を教えて下さい」
ドラセナは私に興味津々だ。
べつに嬉しそうな顔をしているつもりはなかったのだけれど。
「嬉しかったこと……」
私は自分の脳内へと意識を向ける。そして、最近あった嬉しかったことを探す。
暮らしていれば嬉しいことはちょくちょくあるが、だからこそ、ドラセナが求めている答えは即座に見つけ出せない。小さな嬉しいことがたくさんあるからこそ、大きな嬉しかったことを見つけるのは簡単ではないのだ。
「シュヴェーアさんといつか結婚しようって話になったこと……でしょうか」
ふと思いつき述べる。
最近のことで大きめの良かったことといえばそのくらいだ。
「へぇー、そうなんですか! シュヴェーアさんと結婚——って、ええ!?」
ドラセナが衝撃の声を発するまでは、数秒間があった。
「う、うそ! セリナが結婚!?」
「すぐにではないですけど」
「そんな!? え、いや、その……えええ!?」
ドラセナの両手は震えていた。
しかも、彼女の唇から放たれる声は激しさに満ちている。
「セリナは彼と結婚を!?」
「そ、そうなんです。そういう話になっています。一応ですが」
ここまで驚かれるとは思っていなかったので、正直、今は私も驚いている。
互いに驚いている状態だ。
「それは驚きました……セリナが……」
ドラセナの息は荒い。肩を派手に上下させている。しかも、脳内が掻き乱されたような顔つきをしていた。それに加え、時折独り言のように「信じられない……」と漏らしている。
「それで、結婚はいつなのです?」
「……日はまだ決まっていなくて」
「そうでしたか。いきなり詳細まで尋ねたりして、失礼しました」
混乱は一旦収まる。しかし、それですぐに元通りの空気に戻れるわけではない。混乱が収束した後、場に残るのは気まずさ。私も彼女も悪いことはしていないのだから、本来気まずくなる必要なんてないのだが。ただ、どうしても気まずい空気にならずにはいられなかった。
訪れるのは、夜の湖畔のような静けさ。
慌てが消え去った果てに訪れたのは、言葉を発するタイミングが掴めないような空白だった。
「……セリナ」
そんな時だ、シュヴェーア本人が現れたのは。
「あ。シュヴェーアさん」
「……農家の手伝いは、すぐに……終わった」
「また農家の手伝いに行っていたの?」
「……あぁ」
よく見ると、シュヴェーアは茶色い紙袋を持っていた。
そして、その口からは、深緑の葉っぱが覗いている。
「……友が、来ていたか」
ドラセナの存在に気づくや否や、シュヴェーアは少し遠慮したような顔つきになる。
遠慮するなどマイペースな彼らしくない。しかし、今の彼は確かに、顔面に遠慮の色を滲ませている。複雑な心境が露わになった顔をしている彼は、普通の大人のように見えてくる気すらする。
「えぇ。また何か貰ったの?」
「……あぁ」
「もしかして野菜?」
「……パン」
彼が手にしている紙袋からは葉っぱと思われる緑色の物体が覗いている。にもかかわらず、彼はパンだと言う。私はそれが理解できなくて、ただ戸惑うことしかできない。
「でも、緑色の物体が見えてるわよ?」
「……一つだけは、野菜だ」
「やっぱり! じゃあ、その見えてるものだけが野菜で、他はパンだって言うのね?」
「……そういう、ことだ」
話しているうちに分かった。パンを貰ったことは事実だが、貰ったのはそれだけではなくて、野菜も貰っていたのだと。そして、それを理解できた時、私は安堵した。私の目がおかしいのではなかったのだと判明したからである。もし私に見えていた緑色の物体が幻だったら、と、少々不安だったのだ。
「……今は、友と……過ごすといい」
「あ、ありがとう」
シュヴェーアは紙袋を持ったまま、私やドラセナのもとから去っていった。
「彼は本当にセリナが大切なのですね」
ドラセナはふっと笑みをこぼす。
綿菓子のように柔らかな笑みを。
「え?」
「友達が来ているからと気を遣うなんて、優しいのですね」
「そういう……もの?」
「思いますよ。優しいと」
ドラセナが言うのだからそうなのかもしれない。が、私からすると、シュヴェーアの優しさよりドラセナの優しさの方が心に迫るものを感じる。ドラセナとは毎日は会えないから、ただそれだけの理由なのかもしれないけれど。
「でも……セリナも結婚するのですね。あぁ、何だか不思議な気持ちになります」
椅子に腰掛け、ドラセナは両手を胸の前で組む。
「すぐではないですけど」
「はい。それは承知しています。それでも、今から楽しみなのです」
楽しみと言ってくれるなんて!なんと広い心の持ち主なのだろう。
「ありがとうございます、ドラセナ」
「はっ!? そんなそんな! 頭を下げたりしないで下さいっ」
それからしばらく、私は、ドラセナといろんな話をした。
彼女が自分の結婚について悩んでいることを話してくれたことが意外だった。だって、彼女は結婚を良く思ってはいないのだと、何となく思っていたから。
でも、それは勘違いで。
ドラセナもいつか誰かと共に暮らすことを夢見ていないわけではなかったようだ。
「はー。でも、どうなんでしょう。結婚」
「私もよく分かりません」
私もドラセナもまだ独り身で、結婚生活というものは経験したことがない。だからこそ、不安が大きい。漠然とした憧れがある一方で、今のままの方が幸せなのではないかという気持ちもあるのだ。
「ですよね。セリナのご両親はどうでしたか? 楽しそうでしたか?」
「うちは平和でした。ドラセナは?」
「そうですね……うちは正直あまり楽しそうではないです」
溜め息をつくドラセナ。
「べつに不仲なわけではありません。が、時折喧嘩になっていましたし、はっきり言わないけど実は……ということも少なくはなかったですね」
ドラセナの話を聞いていたら、「私の両親はまだ仲が良かった方なのだな」と思えてきた。
日差しが強くなりつつある、ある日の昼下がりのことだ。
「セリナ、何だか顔つきが明るいですね! 何か良いことでもあったのですか?」
私の家に上がったドラセナは、両腕を真上へ伸ばし、体を横に曲げて、背伸びのような体操をしている。その様は、運動を始める前の人のよう。
「ドラセナこそ、なぜ準備運動を?」
「これは準備運動ではありません。ただの気まぐれです」
「そ、そうなんですか……」
準備運動でないことくらい私だって分かっていた。
なんせ、今から運動する予定なんて何一つないのだから。
「で、セリナ。何だか嬉しそうですが、良いことがあったのですか? もしそうなら理由を教えて下さい」
ドラセナは私に興味津々だ。
べつに嬉しそうな顔をしているつもりはなかったのだけれど。
「嬉しかったこと……」
私は自分の脳内へと意識を向ける。そして、最近あった嬉しかったことを探す。
暮らしていれば嬉しいことはちょくちょくあるが、だからこそ、ドラセナが求めている答えは即座に見つけ出せない。小さな嬉しいことがたくさんあるからこそ、大きな嬉しかったことを見つけるのは簡単ではないのだ。
「シュヴェーアさんといつか結婚しようって話になったこと……でしょうか」
ふと思いつき述べる。
最近のことで大きめの良かったことといえばそのくらいだ。
「へぇー、そうなんですか! シュヴェーアさんと結婚——って、ええ!?」
ドラセナが衝撃の声を発するまでは、数秒間があった。
「う、うそ! セリナが結婚!?」
「すぐにではないですけど」
「そんな!? え、いや、その……えええ!?」
ドラセナの両手は震えていた。
しかも、彼女の唇から放たれる声は激しさに満ちている。
「セリナは彼と結婚を!?」
「そ、そうなんです。そういう話になっています。一応ですが」
ここまで驚かれるとは思っていなかったので、正直、今は私も驚いている。
互いに驚いている状態だ。
「それは驚きました……セリナが……」
ドラセナの息は荒い。肩を派手に上下させている。しかも、脳内が掻き乱されたような顔つきをしていた。それに加え、時折独り言のように「信じられない……」と漏らしている。
「それで、結婚はいつなのです?」
「……日はまだ決まっていなくて」
「そうでしたか。いきなり詳細まで尋ねたりして、失礼しました」
混乱は一旦収まる。しかし、それですぐに元通りの空気に戻れるわけではない。混乱が収束した後、場に残るのは気まずさ。私も彼女も悪いことはしていないのだから、本来気まずくなる必要なんてないのだが。ただ、どうしても気まずい空気にならずにはいられなかった。
訪れるのは、夜の湖畔のような静けさ。
慌てが消え去った果てに訪れたのは、言葉を発するタイミングが掴めないような空白だった。
「……セリナ」
そんな時だ、シュヴェーア本人が現れたのは。
「あ。シュヴェーアさん」
「……農家の手伝いは、すぐに……終わった」
「また農家の手伝いに行っていたの?」
「……あぁ」
よく見ると、シュヴェーアは茶色い紙袋を持っていた。
そして、その口からは、深緑の葉っぱが覗いている。
「……友が、来ていたか」
ドラセナの存在に気づくや否や、シュヴェーアは少し遠慮したような顔つきになる。
遠慮するなどマイペースな彼らしくない。しかし、今の彼は確かに、顔面に遠慮の色を滲ませている。複雑な心境が露わになった顔をしている彼は、普通の大人のように見えてくる気すらする。
「えぇ。また何か貰ったの?」
「……あぁ」
「もしかして野菜?」
「……パン」
彼が手にしている紙袋からは葉っぱと思われる緑色の物体が覗いている。にもかかわらず、彼はパンだと言う。私はそれが理解できなくて、ただ戸惑うことしかできない。
「でも、緑色の物体が見えてるわよ?」
「……一つだけは、野菜だ」
「やっぱり! じゃあ、その見えてるものだけが野菜で、他はパンだって言うのね?」
「……そういう、ことだ」
話しているうちに分かった。パンを貰ったことは事実だが、貰ったのはそれだけではなくて、野菜も貰っていたのだと。そして、それを理解できた時、私は安堵した。私の目がおかしいのではなかったのだと判明したからである。もし私に見えていた緑色の物体が幻だったら、と、少々不安だったのだ。
「……今は、友と……過ごすといい」
「あ、ありがとう」
シュヴェーアは紙袋を持ったまま、私やドラセナのもとから去っていった。
「彼は本当にセリナが大切なのですね」
ドラセナはふっと笑みをこぼす。
綿菓子のように柔らかな笑みを。
「え?」
「友達が来ているからと気を遣うなんて、優しいのですね」
「そういう……もの?」
「思いますよ。優しいと」
ドラセナが言うのだからそうなのかもしれない。が、私からすると、シュヴェーアの優しさよりドラセナの優しさの方が心に迫るものを感じる。ドラセナとは毎日は会えないから、ただそれだけの理由なのかもしれないけれど。
「でも……セリナも結婚するのですね。あぁ、何だか不思議な気持ちになります」
椅子に腰掛け、ドラセナは両手を胸の前で組む。
「すぐではないですけど」
「はい。それは承知しています。それでも、今から楽しみなのです」
楽しみと言ってくれるなんて!なんと広い心の持ち主なのだろう。
「ありがとうございます、ドラセナ」
「はっ!? そんなそんな! 頭を下げたりしないで下さいっ」
それからしばらく、私は、ドラセナといろんな話をした。
彼女が自分の結婚について悩んでいることを話してくれたことが意外だった。だって、彼女は結婚を良く思ってはいないのだと、何となく思っていたから。
でも、それは勘違いで。
ドラセナもいつか誰かと共に暮らすことを夢見ていないわけではなかったようだ。
「はー。でも、どうなんでしょう。結婚」
「私もよく分かりません」
私もドラセナもまだ独り身で、結婚生活というものは経験したことがない。だからこそ、不安が大きい。漠然とした憧れがある一方で、今のままの方が幸せなのではないかという気持ちもあるのだ。
「ですよね。セリナのご両親はどうでしたか? 楽しそうでしたか?」
「うちは平和でした。ドラセナは?」
「そうですね……うちは正直あまり楽しそうではないです」
溜め息をつくドラセナ。
「べつに不仲なわけではありません。が、時折喧嘩になっていましたし、はっきり言わないけど実は……ということも少なくはなかったですね」
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