暁のカトレア

四季

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episode.1 始まりのきっかけなんて

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 村が壊滅したあの夜から八年。
 私は今、レヴィアス帝国の南部に位置するダリアという町で、宿屋に住み込み働いている。

 ダリアは海に面した明るい町だ。青い海と太陽のようなミカンが有名で、観光客も多い。そのおかげで宿屋は大繁盛である。

「マレイ! 地下倉庫からパンを持ってきておくれ!」
「はい!」
「ついでにオリーブオイルも!」
「分かりました!」

 宿屋の一階の隅にあるキッチンで卵料理を作りながら指示を出してくるのは、この宿屋の女主人。名をアニタという。息子と娘、二人の子どもを女手一つで育て上げた、かなりの強者である。

 ちなみに息子の方は帝国の軍隊に勤めているらしい。……いや、そんなことはどうでもいいが。

「パンとオリーブオイル、持ってきました」
「よし、ありがとね。そこ置いといて」
「はい。テーブルの上に」
「そうそう。じゃあ次」

 私は内心溜め息を漏らす。

 早朝に起きてからずっとこの調子。働きづめだ。一つ終えればまた次、それを終えればまたまた次。仕事は山のようにあり、終わりが見えない。

 文句を言う気はないが、少し休憩させてほしいなとは思ったりする。

「二階の客室のシーツ、洗ってきておくれ!」

 アニタは完成したスクランブルエッグを素早く皿に乗せながら、私に次の指示を出す。すべての皿に均等に胡椒を振りかける手つきは見事なものである。これはもう、アニタ流奥義と言っても差し支えないだろう。

「全部ですか?」
「東半分だけでいいよ! 頼んだ!」
「分かりました」

 またしても仕事。
 ほんの数分の休憩もないなんて、嫌になってくる。

 宿屋が繁盛するのは良いことだが、その分私の仕事内容が増えるというのは、あまり喜ばしいことではない。


 二階の東半分、つまり三部屋分のシーツを抱え、私は宿屋を出る。洗濯をするのは宿屋から少し離れた場所なのだ。

 少しでも早く洗濯を済ませて干さなくては、夕方までに間に合わない。
 ずっしり重いシーツを胸の前に持ち、早足で坂を下っていた——その時。

 突如、何かにぶつかった。

「あ! ごめんなさいっ!」

 早足なうえ、下り坂ときている。結構なスピードが出ていたことだろう。勢いよくぶつかられて痛かったに違いない。

 私はシーツの山を一度地面に置く。すると、ぶつかった対象が見えた。白い詰め襟の服を着た男性だ。

「ごめんなさい。大丈夫でしたか?」
「……はい。こちらこそすみません」

 私がぶつかった男性は、手で腰元を軽く払い、ゆっくりと立ち上がる。後頭部で一つに束ねた金髪が、体の動きに合わせてはらりと揺れるのが、凄く印象的だ。

 そんな彼は、私が地面に置いたシーツの山を見て、不思議そうな顔をする。

「これは……シーツ?」
「はい」

 よく見ると、彼は整った顔立ちをしていた。
 通った鼻、凛々しい目つき。それに加え、深海のような青い瞳。男性らしさを失いはせず、しかしながらどこか中性的な雰囲気がある。かっこいいというよりかは、美しいという方が相応しい、そんな顔立ちだ。

 目の前にいる青年の顔立ちが、この世の人間とは考え難いような整っているものだから、私はついじっと見つめてしまう。

 初対面の相手の顔をジロジロ見るとは、普通に考えて、失礼以外の何物でもない。

 だが、こればかりは仕方がないだろう。美しいものや魅力的なものに目を引かれるというのは、誰だって同じなのだから。

「大家族なんだね」

 青年は、極めて珍しい種の動物を目にしたような顔つきで、シーツの山と私の顔を交互に見ている。
 たくさんのシーツに驚いているようだ。

「いえ、これは宿の物なんです。私の家族は」

 そこまで言って、私は言葉を詰まらせる。今の私には、「もういない」と続けることはできそうにない。変に気を遣わせてしまうかもしれない、と思うからだ。

 言葉を詰まらせる私を目にした青年は、眉間にしわを寄せ、怪訝な顔をする。

「……どうしたの?」
「いえ。何でもないです」
「そう? それなら構わないけど」

 少しの沈黙。
 それから十数秒くらい経ち、青年は唐突にシーツの山を抱え上げる。

「えっ、どうして?」
「ぶつかってごめん。お詫びといってはなんだけど、運ぶの手伝うよ」
「いいですよ、そんなの。お気遣いなく」

 まったくもって無関係な者に宿屋の仕事を手伝わせたと知れば、アニタは怒るに違いない。だから私は、懸命に、手伝ってもらわずに済むように頑張る。

 しかし青年は私の心情などお構い無し話を進めていく。

「それに、女の子にこんな荷物を持たせるなんて良くないから。で、どこへ運ぶのかな?」

 深海のような青い瞳にじっと見つめられると、不思議な感じがしてくる。
 まるで恋煩いのよう。奇妙な感覚だ。

「東の洗い場までです」
「うーん、ごめん。ちょっと分からないな。案内してもらってもいいかな?」
「あ、はい。ではこちらへ」

 案内しようと足を進めかけた瞬間、彼は「あ、ちょっと待って」と制止してきた。いきなりのことに戸惑いながらも足を止め、彼へ目をやる。

「ここからはもう丁寧語じゃなくていいよ。それと君、お名前は?」
「私の名前? マレイ。マレイ・チャーム・カトレア」

 すると彼は、一瞬、何か閃いたかのように目を見開いた。しかしすぐに冷静さを取り戻し、穏やかな口調で述べる。

「そっか、マレイちゃんだね。僕はトリスタン・ガヴァナー」
「トスタ……?」
「トリスタンだよ」

 名前を間違えるという失態。
 目の前の彼——トリスタンは怒ってはいなさそうだが、申し訳ない気分になった。

「いきなり間違ってごめんなさい」

 私が謝ると、彼は首を左右に動かす。頭の動きに合わせて、長い金髪も揺れていた。

「気にしないで。間違われるのには慣れてるから」

 間違われるのには慣れてる、って……。

 それはそれで悲しそうな気がする。

 しかしトリスタンの表情は明るい。だから私は「まぁいいか」と思うことにした。本人が気にしていないのに私が気にすることはない。

「トリスタンさんと呼ぶわ」
「いや、呼び捨てでいいよ」
「そんなの駄目よ!」
「いいや、呼び捨てでよろしく。その方がしっくりくるんだ。トリスタン、でよろしく」

 つい先ほど出会ったばかりの青年トリスタン。

 彼についてはまだ分からないことだらけだが、たった一つだけ、はっきりと分かったことがある。
 それは、柔らかな物腰とは裏腹にかなり押しの強いタイプである、ということだ。
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