暁のカトレア

四季

文字の大きさ
上 下
9 / 147

episode.8 新たな誘い

しおりを挟む
 暗い闇の中、ゼーレと名乗る謎の人物と二人きりの状況。かなり危険な状況だと、素人の私でも分かる。だが、言葉を交わしてしまった以上、今さら逃げるわけにはいかない。いや、そもそも、私一人で彼から逃げきれるわけがない。

「……いきなり何ですか」

 緊張で足が震えそうになるのを必死に堪え、平静を装いながら言葉を返す。するとゼーレは、金属製の片手をこちらへ差し出してきた。

「マレイ・チャーム・カトレア。我々のボスは貴女を気に入っているのです」
「ボス? 気に入っている? まったく分かりません」
「頭はあまりよろしくないようですねぇ。……まぁいいでしょう」

 次の瞬間。

 私の喉元に、ゼーレの真っ直ぐ伸びた指が触れていた。目にも留まらぬ素早い接近に、私はゾッとする。

「……っ!」
「拒むなら力ずくで連れていくだけのことです」

 ゼーレからはただならぬ空気が溢れ出ている。
 私では敵わない、と本能で察した。
 しかし、連れていかれるのは困る。私には宿屋の仕事やトリスタンのことがあるからだ。ゼーレがどこの誰なのかは知らないが、進んで関わりたい感じではない。

「共に来ていただけますね?」

 銀色の仮面の顔が、少し笑ったような気がした。不気味だ。
 私が答えを考えていると、彼は更に言ってくる。

「はい、か、いいえで答えて下さい。マレイ・チャーム・カトレア、どうなのです?」

 ゼーレは、私の喉元に指先を突きつけたまま、静かな声色で言ってきた。

 一応「いいえ」という選択肢もあることはあるようだ。しかし、もし仮に私がそう言っても、彼は私を強制的に連れていくのだろう。つまり、「いいえ」という選択肢はあってないようなものなのである。

 今私が選べる道は二つ。

 自らゼーレについていくか、彼に無理矢理連れていかれるか。
 それ以外はない。

「どうなのです?」
「…………」
「沈黙は『はい』だと解釈しますよ」
「……嫌」

 怖くて唇が震えた。

 私の呟くような小さな声に対し、ゼーレは述べる。

「聞こえませんねぇ。もっとはっきり言いなさい」

 それはそうだけれども。
 今の私には、そんな勇気はない。目の前の彼に対してはっきりと物を言うなど、どう考えても無理だ。

「最後の機会をあげましょう。どうなのですか?」
「……い、いいえ」

 言うや否や、ゼーレは急激に口調を強める。

「ならば強制的に連れていくまでです!」

 襟を掴まれる。
 これは本当にまずい、と、頬を汗が伝う。


 ——刹那。

「マレイちゃん!」

 焦りと恐怖で満たされた私の耳に、トリスタンの声が飛び込んできた。
 やはり彼は救世主だ。いつだって私を助けに来てくれる。

「トリスタン!」

 私は声を振り絞り、彼の名を呼ぶ。名を呼ぶことに深い意味などないが、ただ、自分の存在を示したかったのだろう。そして、助けて、と言いたかったのだと思う。

「マレイちゃん! すぐに助けるから!」

 トリスタンは怪我している。だが、その動きに鈍りはない。
 彼は手首の腕時計に指先を当て、白銀の剣を抜く——そして駆け出した。

「……なにっ」

 ゼーレはトリスタンの気配を察知し、素早く飛び退く。そのうちに、私とゼーレの間へ入るトリスタン。

「マレイちゃん、大丈夫?」
「えぇ、何とか」
「良かった。後は僕に任せて」

 トリスタンは威嚇するように、白銀の剣をゼーレへ向ける。

 長い金の髪が夜風に揺れていた。その様を眺めていると、まるでファンタジックな童話の世界に迷い込んだかのような、不思議な気持ちになってくる。

「……マレイちゃんに近づかないでもらおうか」
「それは無理ですねぇ」

 厳しい顔つきのトリスタンを前にしても、ゼーレはまったく動揺していなかった。私でもトリスタンでも、彼にとっては同じのようだ。

「今朝、巨大蜘蛛に会ったでしょう」
「……どうしてそれを」
「あれは私の手下。その娘について調査するため派遣し——」

 カァンッ!

 言葉の途中で、金属と金属の触れ合うような甲高い音が響く。
 ゼーレが言い終わるのを待たずに、トリスタンが斬りかかっていたのだ。ゼーレが機械の腕で防いだため、甲高い音が響いたのだろう。

「他人の話を最後まで聞かないとは、実に無礼な男ですねぇ」

 白銀の剣を腕で防ぎながら述べるゼーレ。仮面のせいで表情こそ見えないが、その声は余裕に満ちている。

「マレイちゃんを利用する気なら許さない」

 トリスタンはゼーレの腕に剣先を当てたまま言う。冬の夜風のように冷ややかな声色で。
 するとゼーレは返す。

「利用する気なのは、そちらも同じではないですか」
「違う」
「いいや、違いません。同じことです」

 言い終わるや否や、ゼーレはトリスタンに向けて高い位置の蹴りを放つ。トリスタンは白銀の剣を咄嗟に胸の前に引き寄せ、ゼーレの蹴りを防いだ。

 一歩退くトリスタン。
 対するゼーレは踏み込み、前へ出る。

「邪魔者は消すようにと言われているのでねぇ。邪魔するなら容赦しません」

 至近距離からのゼーレの蹴り。トリスタンはそれを剣で防ぎ、すぐに攻撃に転じる。

「容赦しないのはこちらも同じだよ」

 白銀の剣のひと振りで、攻撃しようと接近したゼーレを後退させる。

 今度はトリスタンの番だ。
 トリスタンは凄まじい勢いで剣を振り、ゼーレを圧倒する。日頃のトリスタンからは想像し難い荒々しさだ。

「……くっ。レヴィアス人にしては、なかなかやるようですねぇ」
「化け物狩りを生業としている人間だからね」
「なるほど……そういうことでしたか」

 少し空けてゼーレは続ける。

「つまり我々の敵ということですねぇ」
「そういうことになるね」
「面白い。レヴィアス人もまだ捨てたものではないようですねぇ。くくく」

 不気味な笑い方をするゼーレ。彼はトリスタンとこれ以上戦う気はないようだ。恐らく、戦うこと自体が目的ではないからだろう。

「まぁいいでしょう。いずれまた会うでしょうが、今日のところはこれで失礼します」

 ゼーレは黒いマントを翻し、闇へ溶けるように去っていく。追いかける時間もない。ほんの数秒にして彼は消えた。

 その後。
 場に残されたのは、私とトリスタン——二人だけだった。
しおりを挟む

処理中です...