暁のカトレア

四季

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episode.110 ついていきたい、ついていかせて、ついていく

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 マレイが連れていかれたのと同じ頃。化け物を片付け終えたばかりのグレイブのもとへ、様々な用事で走り回っていたシンがやって来る。

「グレイブさぁぁーん!!」
「シンか。どうした」

 長槍を構えていたグレイブは、漆黒のロングヘアをふわりとなびかせて、シンの方へと目を向ける。

「ついにーっ! マレイさんがぁぁぁーっ!」
「そうか」

 淡々とした調子で返し、片手でシンの口を塞ぐグレイブ。

「上出来だな」
「で……ですねぇぇぇ……」

 シンの四方八方に跳ねた柿渋色の髪は、汗によって、額や頬にぺったり張り付いている。いかにも汗臭そうな見た目だ。しかし、グレイブが不快な顔をしていないことを思えば、汗臭さはさほどないのだろう。

「よし。順調だな」
「けどぉぉ……マレイさんについていた隊員のお二人がぁぁぁー……」
「何?」

 シンの発言に眉をひそめるグレイブ。
 彼女が発した言葉に対し、シンは言いにくそうな顔で答える。

「男性隊員がぁ……やられてしまったみたいでぇぇ……」

 シンが言った瞬間、グレイブの美しい顔が強張る。

「何だと!?」

 紅の唇から飛び出したのは、はっきりとした声だった。そこには、彼女の驚きやら何やらが詰まっている。シンから男性隊員がやられた報告を受け、彼女がどれほど動揺しているのか。それがはっきりと分かるような声色だった。

「もう一人はどうなったんだ」
「女性隊員の方ですかぁぁぁー?」
「あぁ。そうだ」
「彼女は、毒を受けたようでしたよぉぉぉ……一応、既に救護班によってぇぇー処置が施されてぇぇーいると思いますぅぅぅ」

 グレイブは静かに、そうか、とだけ返した。

 それから数秒空けて、シンに向かって述べる。

「では私は、トリスタンたちの方へ向かう。シン、お前はここを頼む」
「…………」

 しかしシンは返事をしない。俯き、黙り込んでしまっていた。

 いつもは迷惑なくらい騒がしいシン。大きな声が凄まじいシン。そんな彼が、今、黙り込んでしまっている。何一つとして言葉を発さない。

 その様には、グレイブもさすがに違和感を感じたようで、彼女は首を傾げつつ尋ねる。

「どうかしたのか?」

 シンは答えなかった。
 俯き黙るという、先ほどの様子のまま、制止している。まるで、彼だけの時間が止まってしまったかのような、そんな雰囲気だ。

 そんな彼の様子に、グレイブはますます怪訝な顔になる。

「何を黙っている。言いたいことがあるのなら、さっさと言え」

 それでもシンは黙っていた。

 ただ、唇が震えている。何か言いたいことがある、と主張したそうに。

 けれど、グレイブがそんな小さなことに気づくはずもない。当然だ、俯いている者の唇にまで注目するような人間なんて、滅多にいないのだから。

「おい、シン。もういいのか?」
「…………」
「そうか。言いたいことがあるわけではなかったのだな。では私は」

 言いながら、グレイブがシンに背を向けた——その瞬間。

 それまで何一つ動きを見せなかったシンが、突如、グレイブの上衣の裾を掴んだ。声は発さず、片手でそっと。
 そのことに驚いたらしいグレイブは、顔面に戸惑いの色を浮かべながら、体を再びシンの方へ向ける。

「何だ」

 グレイブが低い声を発した。
 それに対し、シンはようやく面を持ち上げた。

「……グレイブさん」

 瞳は潤み、目の周囲はほんのりと赤みを帯びている。鼻からは心なしか鼻水が垂れており、鼻から口までの間を濡らしていた。また、口角は下がり、お世辞にも明るいとは言い難い顔つきだ。

 そんなシンの顔の状態に、グレイブは、暫し困惑した表情のままだった。

 ——直後。

「嫌ですよぉぉぉーっ!!」

 それまでずっと黙っていたシンが、急に、大声をあげた。

 獣の咆哮にも負けぬほど凄まじい叫び声が、辺りの空気を派手に揺らす。

 突如放たれた、人の叫びとは信じられぬような叫びには、グレイブも驚きを隠せていない。目を見開き、言葉を失ってしまっている。彼女は、シンの奇妙な言動には慣れている。が、予告もなしにここまで巨大な声を出されては、さすがに、すぐに言葉を返すことはできないようだ。

「グレイブさん! ボクを残して戦いになんてぇぇぇー! 行かないで下さいぃぃぃーっ!!」

 シンは叫びながら、グレイブの両肩を手で掴み、彼女を激しく前後に振る。

「ま、待て! 止めろ!」

 あまりに激しく動かされるものだから、グレイブは、肩を掴むシンの手を鋭く払った。

「いきなりそんなことをするな! 首を痛めたらどうしてくれる!」
「あ……うぅ……」

 グレイブが言い放った厳しい言葉に、シンは身を縮めた。彼女に叱られると畏縮してしまうのは、いまだに変わらないようである。

「言いたいことがあるのなら、暴れずに言え! 普通に言ってくれ!」

 するとシンは、ついに、泣き出してしまった。

「ず……ずびばぜん……ぼぶばだだ……」

 涙ながらに話すシンだが、何を言っているのかまったく聞き取れない状態だ。

「ぐれびぶざんでぃ……ぶりじでぼじぐなぐで……」
「おい、まったく聞き取れん」
「ぼんどうでぃ……だだぞれだげでぇぇぇー……」

 まったく意味が理解できない状態に呆れたグレイブは、その白色の上衣についたポケットからハンカチを取り出す。そして、シンの顔へガッと押し当てる。

「貸してやるから、まずは拭け。いいな。それから話すんだ。でなくては、何を言っているのかまったく分からん」
「ば……ばびぃぃ……ありばどう……ござびばず……」

 それからシンは、グレイブに命ぜられた通りに、ハンカチで顔を拭いた。涙やら鼻水やらで濡れた凄まじい状態の顔を、彼女に借りたハンカチで、丁寧に拭っていく。

 やがて、ようやく落ち着いてくると、彼は言った。

「ボクもグレイブさんとぉぉぉ……一緒にぃぃ……戦いたいですよぉぉぉー……」

 彼はただ、そう言いたかっただけのようだ。それだけのためにこんなに時間をかけるとは、さすがはシン、としか言い様がない。

「戦場へ同行したい、ということか」
「はいぃぃぃー……」
「なるほど。だが、今回は特に、お前には向いていない任務だと思うが」

 シンはそこで口調を強める。

「でもぉぉぉー! 一緒にぃぃぃーっ! 行きたいんですよぉぉぉーっ!」

 まるで、おもちゃ屋へ行きたいとごねる子どものようだ。
 グレイブはすっかり呆れ顔。ただただ呆れる外ない、といった表情をしてつつ述べる。

「分かった分かった。いいだろう、そんなに行きたいなら、連れていってやる」
「え。……い、いいんですかぁぁぁーっ!?」
「時間がないからだからな、勘違いするなよ」
「やっ……やったぁぁぁーっ! ああぁぁぁぁーっ!!」
「叫ぶな、耳が痛い」

 そんなこんなで、グレイブについていく許可を何とか得た、シンであった。
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