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32話「終幕」
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視界は暗く、何も見えない。
頭蓋骨が割れそうな痛みは治まったようだが、意識はぼんやり。
パトリー。アナ。会いたいけれど、会えない。
大切な彼らを呼ぶことはできないし、彼らの声ももうこの耳には届かない。
心配してくれているだろうか?
悲しんだりしてはいないだろうか?
こんな時に限って、余計ないろんなことを考えてしまって、胸が苦しくなる。他にもっと大事なことがある気もするけれど、思い浮かぶのはパトリーやアナのことばかりだ。
暗闇の中、私は声を聞く。
『条件が満たされました。元の体へ意識を戻します』
事故に遭った直後、リリエラの姿になる前に聞いた声と、多分同じ声だと思う。
現代日本の私に戻るということなのだろうか。
よく分からないけれど、声が「条件が満たされた」と言っているから、現代日本の私に戻ることができるという可能性は高い。
だが、正直嬉しくない。
今さら現代日本へ戻されても、素直に喜ぶことはできない。
だって、戻ってしまったら、パトリーやアナに会えなくなってしまう。さよならを満足に言うこともできずこのまま別れるなんて、辛すぎる。せめて一言くらい、別れを告げさせてほしいものだ。
『しばらくお待ちください』
私は今、まだ、暗闇の中にいる。
時折聞こえる淡々とした声以外に耳に入ってくる声はない。
私はどうなってゆくのだろう……。
『完了しました。お疲れ様でした』
——声がそう告げた瞬間、私は目を覚ました。
目が覚めて一番初めに視界に入ったのは、白い天井。僅かな凹凸があること以外に特徴は一切ない、極めて平凡な天井だ。それから、眼球だけを動かして、周囲へと視線を移してみる。白いのは天井だけではなかった。壁も白く、色気のない部屋だということが分かる。また、室内は物が少なく整理整頓されている。そこから、ここは自室ではないということがすぐに分かる。私の部屋はこんなに整頓されてはいない。
「目が覚めたの!?」
突然驚いたような声をかけられる。
「ん……」
「起きたのね!?」
声がした方へ視線を向けると、私の母親が覗き込んできているのが見えた。
リリエラの母ではなく、私の母。
「えっと……今は、いつ?」
「八月よ!」
「は、八月……?」
私はゆっくりと上半身を起こし、片手で髪に触れる。
黄金色の髪ではなくなっていた。
「……夢だったの」
それから私は、母親に頼んで手鏡を持ってきてもらった。その鏡面に映し出されていたのは、リリエラではなく、日本人。長い睫毛も、翡翠色の瞳も、そこにはない。鏡に映し出されているのは、平均的な容姿の女子。つまり、私だ。
「ちょっと、どうしたの? そんなに鏡を見て。鏡は好きじゃないって、前に言っていたじゃない」
鏡に映る自分をまじまじと見つめていると、母親が声をかけてきた。
「やっぱり……夢をみていたんだなって」
「え? 何を言っているの?」
「ううん……何でもない」
私の姿を見ると、わけもなくほっとする。懐かしい味の料理を食べた時のような心境になる。それは良いのだけれど、今は、少し残念な気もしてしまう。こんなことを言っては怒られるかもしれないが、美しいリリエラのままいられたら、と考えてしまう部分もあるのだ。
一人複雑な心境に溺れていると、母親が言ってくる。
「そうそう。あの事故の時に通報してくれた人がね、回復したら一度会いたいって言ってくれてたわよ。また連絡しておくわ」
「……うん」
きっと、夢をみていただけ。
リリエラとして過ごした日々は、幻に過ぎなかったのだろう。
……よく考えれば、当たり前のことではないか。
ただの学生が美しい少女になるなんて、現実で起こるわけがない。そんな奇妙な現象、創作の世界以外では聞いたことがない。
それでも、あの日々は確かにあった。
リリエラも、周囲の人たちも、間違いなく生きていた。
——だからこそ、今、寂しい。
私が意識を取り戻した翌日。
母親が言っていた『事故の時に通報してくれた人』という人が、病室へやって来ることになった。
通報してくれたのはありがたいことだ。そのまま放置されていたら命を落としていたかもしれないのだから、ある意味『命の恩人』と言えるだろう。
昼下がり、ベッドの上で一人ぼんやりしていると、母親が入ってきた。
「いらっしゃったわよ」
「もう!?」
「そうそう。今から呼ぶわね」
数秒後、病室に入ってきたのは、青年だった。
背は高い。日本人男性の平均身長は軽く超えていそう。眉はやや濃いめ、しかしそのおかげで顔全体がきりりと引き締まっている。髪は黒。それも、漆黒という言葉の似合う、黒。
「あ、どうも」
彼は軽く会釈しながら、部屋の中へ入ってきた。
「パトリー!?」
現れた青年を目にした瞬間、半ば無意識のうちに叫んでいた。
そっくりだったのだ、パトリーに。
「え?」
「あ……す、すみません」
パトリーの子孫——なんてことはないと思うが、本当によく似ている。
「元気になったみたいで良かったです」
「い、いえ。通報してもらったみたいで……ご迷惑おかけしました」
こんなタイミングでパトリーにそっくりな男性と出会うことになるとは思っていなかったため、妙に恥ずかしくなり、目の前の彼を直視できない。
そんな私に、青年は紙製の箱を差し出してくる。
「あ。もし良ければ、これどうぞ」
ケーキか何かが入っているのだろうな、というくらいのサイズの箱。
「ありがとうございます……」
「クッキーです。近所の店のですけど、期間限定なので」
こうして私は、彼と別れた。
通報してくれた青年と話せたのはとても短い時間だけだったから、パトリーとの関連性などは明らかにならなかったが、またパトリーに会えたみたいで、私は少し幸せな気分になったのだった。
◆おわり◆
お見舞いのクッキーは、カブトムシのデザインだった。
蜘蛛ではなくカブトムシなのね、と一人笑ってしまったことは、私だけの秘密。
頭蓋骨が割れそうな痛みは治まったようだが、意識はぼんやり。
パトリー。アナ。会いたいけれど、会えない。
大切な彼らを呼ぶことはできないし、彼らの声ももうこの耳には届かない。
心配してくれているだろうか?
悲しんだりしてはいないだろうか?
こんな時に限って、余計ないろんなことを考えてしまって、胸が苦しくなる。他にもっと大事なことがある気もするけれど、思い浮かぶのはパトリーやアナのことばかりだ。
暗闇の中、私は声を聞く。
『条件が満たされました。元の体へ意識を戻します』
事故に遭った直後、リリエラの姿になる前に聞いた声と、多分同じ声だと思う。
現代日本の私に戻るということなのだろうか。
よく分からないけれど、声が「条件が満たされた」と言っているから、現代日本の私に戻ることができるという可能性は高い。
だが、正直嬉しくない。
今さら現代日本へ戻されても、素直に喜ぶことはできない。
だって、戻ってしまったら、パトリーやアナに会えなくなってしまう。さよならを満足に言うこともできずこのまま別れるなんて、辛すぎる。せめて一言くらい、別れを告げさせてほしいものだ。
『しばらくお待ちください』
私は今、まだ、暗闇の中にいる。
時折聞こえる淡々とした声以外に耳に入ってくる声はない。
私はどうなってゆくのだろう……。
『完了しました。お疲れ様でした』
——声がそう告げた瞬間、私は目を覚ました。
目が覚めて一番初めに視界に入ったのは、白い天井。僅かな凹凸があること以外に特徴は一切ない、極めて平凡な天井だ。それから、眼球だけを動かして、周囲へと視線を移してみる。白いのは天井だけではなかった。壁も白く、色気のない部屋だということが分かる。また、室内は物が少なく整理整頓されている。そこから、ここは自室ではないということがすぐに分かる。私の部屋はこんなに整頓されてはいない。
「目が覚めたの!?」
突然驚いたような声をかけられる。
「ん……」
「起きたのね!?」
声がした方へ視線を向けると、私の母親が覗き込んできているのが見えた。
リリエラの母ではなく、私の母。
「えっと……今は、いつ?」
「八月よ!」
「は、八月……?」
私はゆっくりと上半身を起こし、片手で髪に触れる。
黄金色の髪ではなくなっていた。
「……夢だったの」
それから私は、母親に頼んで手鏡を持ってきてもらった。その鏡面に映し出されていたのは、リリエラではなく、日本人。長い睫毛も、翡翠色の瞳も、そこにはない。鏡に映し出されているのは、平均的な容姿の女子。つまり、私だ。
「ちょっと、どうしたの? そんなに鏡を見て。鏡は好きじゃないって、前に言っていたじゃない」
鏡に映る自分をまじまじと見つめていると、母親が声をかけてきた。
「やっぱり……夢をみていたんだなって」
「え? 何を言っているの?」
「ううん……何でもない」
私の姿を見ると、わけもなくほっとする。懐かしい味の料理を食べた時のような心境になる。それは良いのだけれど、今は、少し残念な気もしてしまう。こんなことを言っては怒られるかもしれないが、美しいリリエラのままいられたら、と考えてしまう部分もあるのだ。
一人複雑な心境に溺れていると、母親が言ってくる。
「そうそう。あの事故の時に通報してくれた人がね、回復したら一度会いたいって言ってくれてたわよ。また連絡しておくわ」
「……うん」
きっと、夢をみていただけ。
リリエラとして過ごした日々は、幻に過ぎなかったのだろう。
……よく考えれば、当たり前のことではないか。
ただの学生が美しい少女になるなんて、現実で起こるわけがない。そんな奇妙な現象、創作の世界以外では聞いたことがない。
それでも、あの日々は確かにあった。
リリエラも、周囲の人たちも、間違いなく生きていた。
——だからこそ、今、寂しい。
私が意識を取り戻した翌日。
母親が言っていた『事故の時に通報してくれた人』という人が、病室へやって来ることになった。
通報してくれたのはありがたいことだ。そのまま放置されていたら命を落としていたかもしれないのだから、ある意味『命の恩人』と言えるだろう。
昼下がり、ベッドの上で一人ぼんやりしていると、母親が入ってきた。
「いらっしゃったわよ」
「もう!?」
「そうそう。今から呼ぶわね」
数秒後、病室に入ってきたのは、青年だった。
背は高い。日本人男性の平均身長は軽く超えていそう。眉はやや濃いめ、しかしそのおかげで顔全体がきりりと引き締まっている。髪は黒。それも、漆黒という言葉の似合う、黒。
「あ、どうも」
彼は軽く会釈しながら、部屋の中へ入ってきた。
「パトリー!?」
現れた青年を目にした瞬間、半ば無意識のうちに叫んでいた。
そっくりだったのだ、パトリーに。
「え?」
「あ……す、すみません」
パトリーの子孫——なんてことはないと思うが、本当によく似ている。
「元気になったみたいで良かったです」
「い、いえ。通報してもらったみたいで……ご迷惑おかけしました」
こんなタイミングでパトリーにそっくりな男性と出会うことになるとは思っていなかったため、妙に恥ずかしくなり、目の前の彼を直視できない。
そんな私に、青年は紙製の箱を差し出してくる。
「あ。もし良ければ、これどうぞ」
ケーキか何かが入っているのだろうな、というくらいのサイズの箱。
「ありがとうございます……」
「クッキーです。近所の店のですけど、期間限定なので」
こうして私は、彼と別れた。
通報してくれた青年と話せたのはとても短い時間だけだったから、パトリーとの関連性などは明らかにならなかったが、またパトリーに会えたみたいで、私は少し幸せな気分になったのだった。
◆おわり◆
お見舞いのクッキーは、カブトムシのデザインだった。
蜘蛛ではなくカブトムシなのね、と一人笑ってしまったことは、私だけの秘密。
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