上 下
1 / 2

前編

しおりを挟む
「お前みたいなやつ、俺には相応しくない」

 婚約者エルリッツに呼び出されたのは、湖の畔。
 静かで美しい場所。
 でも彼が私を呼び出すのは珍しいことなので、正直あまり良い予感はなかった。

「相応しくない……ですか」
「ああ。だってお前は俺に従わないことが多いだろう? 女のくせして俺に逆らうなんて、どう考えてもどうかしてやがる」

 一人息子のエルリッツは、ずっと母親が言いなりになっていたこともあってか、女性は自分に従うものと強く思いこんでいる。それを感じさせる言動はこれまでにもあった。だから今さら驚きはしない。彼がそういう人であることは以前から知っていたのだ。

「よって、婚約は破棄とする」

 彼は冷ややかな目つきで口を動かした。

 風が吹き抜ける。
 髪が揺さぶられた。

「婚約破棄……」
「ああそうだ分かったか」
「そうですか」
「嫌か?」
「いえ……」

 曖昧な返ししかできずにいると。

「泣いて謝るなら、ここで土下座して俺に頭を軽くでも踏ませるなら、これまでの無礼は水に流してやってもいい」

 エルリッツはそんなことを言い出した。

 何やら楽しそうな活き活きした表情。
 しかもはすはすというようなあまり凛々しくはない呼吸音を派手に鳴らしている。

「結構です。では私はこれで。失礼します」

 謝る気はない。
 なぜなら悪いことをしたと思っていないからだ。
 謝るのはこちらに非があった場合である。

 謝ってほしい、などという、彼の身勝手な欲望に応えることは私にはできない。

「ま、待て!」

 その場から去ろうと歩き出した私を追いかけてくるエルリッツ。

 切り捨てるのではなかったの?
 なぜ追ってくるの?

 私には理解できなかった。

「待て待て待て!」

 婚約は破棄となり、関係は終わったはず。
 今さらどんなつもりで「待て」なんて言っているのか。

 だから私は待たない。

 ――刹那、背後からどぼぉんっというような水に何かが落ちるような音が響いた。
しおりを挟む

処理中です...