奇跡の歌姫

四季

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プロローグ

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 見上げる。
 赤黒く染まりきった空を。

 かつて、この村から見える空は、こんな色ではなかった。青。私の一番好きなその色が、いつだって私たちを、母親のような温かな眼差しで見下ろしてくれていた。そして私は、そんな空を慕っていた。

 ウタ。それが私の名前。

 物心ついた時には父親はおらず。兄弟姉妹もなく。歌手をしていた母親と、二人きりの環境で育った。

 その家庭環境に不満があったわけではない。

 眠れない夜、母親はいつも歌を聞かせてくれた。鈴の音のような声が奏でる、どこか悲しげな旋律——聞いているうちに心が安らいで。その歌は、私を幸せな世界に誘ってくれる、一つの道標だった。

 でも、その母親も三年ほど前に亡くなった。
 散歩中に襲われかけた私を庇って。

 母親の影響か、私も幼い頃から歌うことが好きだった。音は、目には見えない。けれども、目に見える世界以上のものを見せてくれる。そんな歌が好きで、よく歌った。

 しかし、母親が亡くなってから、私は歌うことを止めた。

 懐かしい幸福に満ちた日々を思い出してしまうこと、今はそれだけが恐ろしい。光に満ちた記憶が蘇れば蘇るほどに、虚無感が強まる。

 だからもう歌いたくない。
 穏やかに笑っていられた頃を、思い出したくない。

 幸福を思い出さなければ、絶望も薄れる。
 それでいいのだと自分に言い聞かせて、私は生きてきた。

 だけど、それももう終わり。

 なぜなら、この村には今、終末が訪れているから。

 何がどうなってこうなったのかは分からない。でも、この村がもうすぐ壊滅するだろうということは、容易く想像できる。

 もし母親が生きていたら、二人で怯えながら、村の終焉を見守ったのだろうか。死にたくない。生きたい。そんな風に思えたのだろうか。

 ……無駄なことだ、『もし』を考えるのは。

 どのみちいつかは終わる人生。それが今日だろうが数十年後だろうが、結果は同じ。それならせめて、苦しまずにこの世を去りたいというもの。

 後悔なく恐れもなく、この世と別れられるのだから——私はまだ幸せなのかもしれない。


 ◆


 夢から覚めるようにそっと瞼を開くと、満天の星空が目に映った。
 海のように果てしなく続く暗闇には幾千もの星。じっとその場で輝いているように見えるものもあれば、人が生きるように駆け抜けてゆくものもある。

 死んだのか、私は。
 まだぼんやりした意識の中で、ふとそんなことを思う。

 死者がどこへ行くのかなんて考えたことはなかった。だが、もし死後の世界がここなのならば、満足だ。
 だって、生きていた頃の世界より、ここの方がずっと美しいではないか。

 そんなことを思っていると、意識しないうちに視界が潤んでくる。涙か、これは。

 やがて、そんな涙に乱された視界に入ったのは、一つの星。

 流れてゆく。駆けてゆく。
 どこから来て、どこへ行くのか、星は知っているのだろうか。

 その星がちょうど視界の中央に接近した刹那、ふと、母親の懐かしい顔が蘇る。
 ある日突然去っていった母親と、宙を駆け遠ざかる星が、なぜか重なって見えた瞬間だった。

「待って——!」

 祈るように言って、片手を伸ばす。
 でも星は待ってくれなかった。

「気がついたのか」

 背後から聞こえてきたのは、低い声。私は驚いて振り返る。

 そこには男性が一人立っていた。

 彩度低めの紺色をした髪を、うなじの辺りで一つに束ねるという髪型。髪の長さは肩に到達するかしないかくらい。そして、結び目には光沢のある白いリボン。いや、もしかしたら、その白いリボンで髪を束ねているのかもしれない。
 顔立ちは整っている。しかし目つきはかなり鋭い。琥珀のような色をしているのもあって、爬虫類のような双眸と言えるだろう。
 周囲が薄暗いせいで、服装の細かいところまでは視認できない。ただ、黒いマントのようなものをまとっていることと、腰に細い剣——レイピアのようなものを携えていることだけは分かった。

「どうだ、椅子の座り心地は」
「え……い、椅子?」

 言われて初めて、自分が椅子に座っていたことに気がつく。

 ちなみに、椅子と言っても、骨組だけのような安っぽい椅子ではない。座面はほどよくふかふかしていて、肘置きや背もたれも立派なものがついた、いうなればソファに近い椅子である。色は黒。

「もう一日二日もすれば星へ着く」

 男性はこちらに向かって歩みを進めてきた。何かされるのかと警戒したが、彼は私の前をあっさり通り過ぎ、幻想的な輝きに手をつく。

 どうやらガラスが張られていたらしい。
 窓だったのか、と、私は少し残念に思った。

「それまでは宇宙でも眺めておくことだ」

 彼はさらりと言ってのける。
 朝が来て、起きて、顔を洗う——私がここにいることが、それらと同格であるかのように。

「……待って。ここは一体どこなの?」
「宇宙」
「え。ちょ、ちょっと待って。意味不明よ、その答え」

 宇宙は知っている。でも、私が知る宇宙は、空よりずっと遠いところにある場所。宇宙へ行くなんて言ったら周囲に絶対笑われる、というくらい、遠いところのはずだ。

「キエルの船は宇宙も飛べる。君の星の船は、宇宙を飛ばないのか」
「宇宙……なんて、行けるわけないわ」
「そうだったか。では戸惑うのも仕方あるまい。しかし事実だ」

 私は宇宙にいる?
 そんな話、信じられたものではない。

 目の前の男が話す言葉がすべて真実であるという証拠はない。だが、逆に、嘘だという証拠があるわけでもない。

 取り敢えず、もう少し聞いてみなければ。

「……質問しても構わないかしら」
「聞くといい」
「貴方は地球出身の人間ではないの?」

 その問いに、彼は窓の外を眺めながら答える。

「そうだ。私は君と同じ星に生まれた人間ではない」

 髪色、肌色、体の作り、どこを見ても私たちと大きな差はないのだが。

「でも使う言語は地球の言語なの? おかしな話ね」
「いや、違う」
「……え? でも、貴方が話している言葉、私と同じ言葉じゃない」

 すると彼は、片手の人差し指で、耳元を示した。
 最初私はその意味を理解できなかったが、よく分からぬまま彼と同じように耳に触れてみる。すると、右耳に何やら人工物がついていることが分かった。

「何か……つけたの」
「心配するな、ただの小型化された自動翻訳機だ。それがあるから、今こうして言葉を交わせている」

 外さない方がいい、ということか。
 体に害が出ているわけではないから、そのままにしておくことにした。

「さて、自己紹介をしようか」
「急ね」
「地球人。君の名前を聞かせてくれ」

 生まれて初めてだ、地球人と呼ばれたのは。
 おかしな感じ。なんだかくすぐったい。

「……ウタ。それが私の名前よ」
「そうか」

 ちょっ……それだけ?
 思わずそんなことを言いかけた。危ない危ない。

「私は名乗ったわ。今度はそちらが名乗る番よ」

 彼は一度瞼を閉じ、少し黙ってから、静かに瞼を開く。

「ウィクトル・ボナファイド。呼ぶ際は好きなように縮めるといい」
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