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85話「ラインの葛藤」
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洗脳されている、か。
そう思われるのも仕方はないのかもしれない。
同じ故郷を持つわけでもない、気が合って楽しく喋ることができるわけでもない——そんな関係の者を「理解している」とでも言いたげな発言をすれば、おかしいと思われるのも無理はないだろう。
でも、私はべつに洗脳されているわけではない。
フーシェが根は優しいけれど口が器用でない人だということは、私自身がこれまでの生活の中で段々気づいてきたことだ。
「洗脳ですって? 呆れるわね。そんなわけないじゃない。ウィクトルをそんな風に思わないで」
手足を拘束され、こうも動けない状態にされては、フーシェが気の毒だ。今回の一件において、彼女に罪はないのだから。彼女はただ、私を助けようとしてくれただけ。私ですら軟禁適度なのだから、彼女の身ももう少し自由であるべきだ。
「彼はそんなことをする人ではないわ」
「ふふ、そうかい。面白いほど彼を信頼しているのだね」
ビタリーは部屋の奥へと数歩進む。
そして、黒い壁に設置されていた機械のリモコンのような部分を右手で掴んだ。
背が湾曲した老人のような形のリモコン、その腹についているボタンを左手の指で押す。そして、彼はリモコンを耳に当てた。
「……あぁ、そうだね。あれ、持ってきてもらえる? うん。じゃあ」
通話が始まった。彼は、私にもフーシェにも目をくれず、電話の向こう側の人物との会話に集中している。拘束されているフーシェはともかく、私が逃げ出す可能性は考えないのだろうか。
「そうだよ、うん。ではね」
ビタリーの通話は案外すぐに終わった。
「何の話をしていたの……?」
「ちょっと人を、ね」
人を呼んだ、ということだろうか。
これから何をするつもりなのだろう。
数分後、やって来たのはライン一人だった。
彼の手には一本の剣。持ち手から刃の先端までを含むと私の身長に近いのではないかと感じるくらい長い剣だ。薄暗い中でも、銀色の刃は不気味に光っている。
「お待たせしました! こちらですよね!?」
現れたのが、屈強な男や荒々しそうな男でなくて良かった。そんな男が来てしまったら、万が一何かされそうになった時、私では抵抗できない。だが、ラインなら少年だ。リベルテほど華奢な少年ではないけれど、彼が敵となったとしても、何とか抗うことはできるはず。
「ご苦労、ライン」
「お渡しします!」
「いや、それはいいよ。その剣は君が持っていればいい。君が使うのだから」
長い剣をビタリーに渡そうとしたラインだったが、受け取ってもらえなくて。ラインは困惑したような顔になっている。
「え。僕が使うんですか……?」
ラインに何をさせようとしているのだろう。
「そういうことだよ……さぁ、その女を殺せ」
冷ややかに指示を出したビタリーが指差していたのは、フーシェだった。
凍り付くような空気。音のない時がただ流れる。
ラインはまだ両手で丁寧に剣を持っている状態で、斬りかかる体勢には入っていない。彼は困っているようだった。丸い瞳が震えている。
「何をしているのかな?」
ビタリーはうっすらと笑みを浮かべつつ、囁くような声で発した。
「いずれ妃となる彼女の直属の部下ともあろう君が、僕に逆らうなんてこと……あるわけないよね?」
「そ、それはそうですが……」
ラインは、私の顔とビタリーの顔を交互に見ながら、気まずそうに呟く。
今の彼は板挟みになっている状態。接した感じでは悪人ではない彼だからこそ、そんな息苦しい状態から救い出したいと思う。けれど、だからといってフーシェに手を出させるわけにはいかない。
私もまた、板挟み。
ウィクトルのためにもフーシェを殺されるわけにはいかない。でも、ラインが殺さないよう思い留まれば、今度は彼が怒ったビタリーから攻撃されることになる可能性が高い。
両方を救う方法はないのか? と考える。
ラインは剣を手にしているが、それでもまだ、剣先をフーシェへ向けるには至っていない。
「もたもたしないでくれるかな? それとも、部下が自ら主人の躾不足を明らかにするつもりかい?」
「そんな言い方は止めて下さい。シャルティエラ様を馬鹿にするようなことを仰るなら、僕も、穏やかではいられません……」
彼は俯いたまま返す。
その両手は震えていた。
「君は一体何を躊躇っているんだい? その女はこの国に武器を向けた、十分反逆罪じゃないか」
「それは、そう……ですけど」
「反逆者の命を絶たせてもらえるのだよ、光栄に思うといい」
それからしばらく、ラインは黙っていた。十分な明るさはなく、埃の匂いがすべてを支配するこの場所で、彼はただじっとしている。唇を僅かに動かすことすらせずに。
この世において、時が止まることは世界の終焉を意味する。誰一人生きている者がおらず、植物は枯れ果て、海も山も何もかもが失われて。そういう時が来て、ようやく時は止まる。否、厳密には『時を数える存在が滅亡する』と表現する方が正しいだろうか。いずれにせよ、時が止まるというのはよくあることではないのだ。
それなのに、今は時が停止してしまっているかのように感じる。
何も動かないから。誰も話さないから。
「……分かり、ました」
深海のような静寂に溺れ、刻を数える気すら失った頃、ラインは小さくそう言った。
彼はすべてを殴り捨てたような目をしながら、両手を剣の持ち手へ移し、フーシェの方へと体の前面を向ける。
「前もって言っておきます。すみません」
「……好きに、すればいいわ」
ラインの心は決まってしまった。
フーシェは抵抗しようとしない。
運命は決まってしまったのか。これが避けられない運命、定めだというのか。……いや、それはあり得ない。フーシェは誰かの生命を奪ったわけではないのだ、少し私を庇おうとしただけなのだ。そのくらいで死罪になる国なんて、まともなわけがない。
先ほどの発言から数十秒後、ラインは剣を振り上げる——。
「止めて!!」
そう思われるのも仕方はないのかもしれない。
同じ故郷を持つわけでもない、気が合って楽しく喋ることができるわけでもない——そんな関係の者を「理解している」とでも言いたげな発言をすれば、おかしいと思われるのも無理はないだろう。
でも、私はべつに洗脳されているわけではない。
フーシェが根は優しいけれど口が器用でない人だということは、私自身がこれまでの生活の中で段々気づいてきたことだ。
「洗脳ですって? 呆れるわね。そんなわけないじゃない。ウィクトルをそんな風に思わないで」
手足を拘束され、こうも動けない状態にされては、フーシェが気の毒だ。今回の一件において、彼女に罪はないのだから。彼女はただ、私を助けようとしてくれただけ。私ですら軟禁適度なのだから、彼女の身ももう少し自由であるべきだ。
「彼はそんなことをする人ではないわ」
「ふふ、そうかい。面白いほど彼を信頼しているのだね」
ビタリーは部屋の奥へと数歩進む。
そして、黒い壁に設置されていた機械のリモコンのような部分を右手で掴んだ。
背が湾曲した老人のような形のリモコン、その腹についているボタンを左手の指で押す。そして、彼はリモコンを耳に当てた。
「……あぁ、そうだね。あれ、持ってきてもらえる? うん。じゃあ」
通話が始まった。彼は、私にもフーシェにも目をくれず、電話の向こう側の人物との会話に集中している。拘束されているフーシェはともかく、私が逃げ出す可能性は考えないのだろうか。
「そうだよ、うん。ではね」
ビタリーの通話は案外すぐに終わった。
「何の話をしていたの……?」
「ちょっと人を、ね」
人を呼んだ、ということだろうか。
これから何をするつもりなのだろう。
数分後、やって来たのはライン一人だった。
彼の手には一本の剣。持ち手から刃の先端までを含むと私の身長に近いのではないかと感じるくらい長い剣だ。薄暗い中でも、銀色の刃は不気味に光っている。
「お待たせしました! こちらですよね!?」
現れたのが、屈強な男や荒々しそうな男でなくて良かった。そんな男が来てしまったら、万が一何かされそうになった時、私では抵抗できない。だが、ラインなら少年だ。リベルテほど華奢な少年ではないけれど、彼が敵となったとしても、何とか抗うことはできるはず。
「ご苦労、ライン」
「お渡しします!」
「いや、それはいいよ。その剣は君が持っていればいい。君が使うのだから」
長い剣をビタリーに渡そうとしたラインだったが、受け取ってもらえなくて。ラインは困惑したような顔になっている。
「え。僕が使うんですか……?」
ラインに何をさせようとしているのだろう。
「そういうことだよ……さぁ、その女を殺せ」
冷ややかに指示を出したビタリーが指差していたのは、フーシェだった。
凍り付くような空気。音のない時がただ流れる。
ラインはまだ両手で丁寧に剣を持っている状態で、斬りかかる体勢には入っていない。彼は困っているようだった。丸い瞳が震えている。
「何をしているのかな?」
ビタリーはうっすらと笑みを浮かべつつ、囁くような声で発した。
「いずれ妃となる彼女の直属の部下ともあろう君が、僕に逆らうなんてこと……あるわけないよね?」
「そ、それはそうですが……」
ラインは、私の顔とビタリーの顔を交互に見ながら、気まずそうに呟く。
今の彼は板挟みになっている状態。接した感じでは悪人ではない彼だからこそ、そんな息苦しい状態から救い出したいと思う。けれど、だからといってフーシェに手を出させるわけにはいかない。
私もまた、板挟み。
ウィクトルのためにもフーシェを殺されるわけにはいかない。でも、ラインが殺さないよう思い留まれば、今度は彼が怒ったビタリーから攻撃されることになる可能性が高い。
両方を救う方法はないのか? と考える。
ラインは剣を手にしているが、それでもまだ、剣先をフーシェへ向けるには至っていない。
「もたもたしないでくれるかな? それとも、部下が自ら主人の躾不足を明らかにするつもりかい?」
「そんな言い方は止めて下さい。シャルティエラ様を馬鹿にするようなことを仰るなら、僕も、穏やかではいられません……」
彼は俯いたまま返す。
その両手は震えていた。
「君は一体何を躊躇っているんだい? その女はこの国に武器を向けた、十分反逆罪じゃないか」
「それは、そう……ですけど」
「反逆者の命を絶たせてもらえるのだよ、光栄に思うといい」
それからしばらく、ラインは黙っていた。十分な明るさはなく、埃の匂いがすべてを支配するこの場所で、彼はただじっとしている。唇を僅かに動かすことすらせずに。
この世において、時が止まることは世界の終焉を意味する。誰一人生きている者がおらず、植物は枯れ果て、海も山も何もかもが失われて。そういう時が来て、ようやく時は止まる。否、厳密には『時を数える存在が滅亡する』と表現する方が正しいだろうか。いずれにせよ、時が止まるというのはよくあることではないのだ。
それなのに、今は時が停止してしまっているかのように感じる。
何も動かないから。誰も話さないから。
「……分かり、ました」
深海のような静寂に溺れ、刻を数える気すら失った頃、ラインは小さくそう言った。
彼はすべてを殴り捨てたような目をしながら、両手を剣の持ち手へ移し、フーシェの方へと体の前面を向ける。
「前もって言っておきます。すみません」
「……好きに、すればいいわ」
ラインの心は決まってしまった。
フーシェは抵抗しようとしない。
運命は決まってしまったのか。これが避けられない運命、定めだというのか。……いや、それはあり得ない。フーシェは誰かの生命を奪ったわけではないのだ、少し私を庇おうとしただけなのだ。そのくらいで死罪になる国なんて、まともなわけがない。
先ほどの発言から数十秒後、ラインは剣を振り上げる——。
「止めて!!」
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