新日本警察エリミナーレ

四季

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10話 「翌朝のこと」

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 翌朝。
 私はいつもより早く起きて一度家へ帰ることにした。

 これからはエリミナーレの事務所で暮らすことに決まったので、そのための荷物を取りに帰るのである。服や愛用の日用品など、生活に必要不可欠な物は多い。わざわざ家へ帰るのは面倒臭いが、昨日持ってきていたカバンだけではあまりに不足が多すぎるので仕方ない。それに、せめて母には状況を伝えておかなくては。

 幸い六宮から家まで一時間もかからない。家でゆっくりと荷造りしても、昼過ぎくらいにはここへ戻ってこられるはずだ。


「沙羅ちゃん、送るのは駅までで本当に大丈夫?」
「はい。電車に乗ればあっという間なので」
「分かったよ。でもくれぐれも気をつけてね」

 レイは私が家へ戻ることを知ると、「ついていく」と言い出した。そして、また二人での行動になった。

 美人な彼女の隣を歩けることは嬉しい。しかし、レイは道端ですぐに人助けを始めるので、なかなか駅まで辿り着けない。歩きにくそうなおばあちゃんの荷物を持ってあげたり、難聴気味のおじいちゃんに丁寧に道を教えたり、レイは高齢者にもとても親切だ。それらの行動は、エリミナーレの仕事というより、レイ個人の親切心によるものなのだろう。

 おかげで六宮駅まで三十分以上かかった。普通に歩いた場合の二倍ぐらいの時間がかかってしまうという驚きの結果である。

「ここまでで本当にいいの?」

 改札の前で別れる時、レイはとても心配そうな顔をしていた。まるで戦場へ行く子を見送る母親のような表情である。ただ家へ帰るだけなのに大袈裟だ。三歳や四歳の子どもじゃああるまいし、そんなに心配することもないと思うのだが。
 いや、それでも心配するのが彼女の質なのか。

「大丈夫です。ここまで送って下さって、しかも連絡先も下さって、色々とありがとうございます」
「ありがとうだなんて照れるね。でも感謝されるほどのことじゃない。あたしが沙羅ちゃんを放っておけないだけだよ」

 するとレイは整った顔に爽やかな笑みを浮かべた。
 男性のような凛々しさを感じさせる顔立ちなのに、笑うと意外と女性的な魅力が漂う。私はそんなレイの顔に暫し見惚れてしまっていた。

 少ししてから、早く家へ帰らなくてはならないことを思い出す。

「あ、それでは!」
「そうだね。また迎えに来くるよ。連絡してくれる?」

 私は「もちろん」と大きく頷く。

「良かった。じゃあまた後で!」

 レイはそう言って笑顔で手を振る。
 後頭部の高い位置で一つに束ねられた青い髪が、春のまだ肌寒い風に揺られていた。


 ホームへ上がると、まるで神様が力を貸してくれたかのようなちょうどのタイミングで、電車が滑り込んできた。待ち時間はほぼゼロ。こんなこともあるのだな、とどうでもいいことだが感心する。日常の中の些細なラッキーは案外嬉しかったりするものだ。しかも席が空いていて座れた。更なる幸運である。

 取り敢えず空いている席に座ると、上着の中から昨夜拾った写真を取り出す。

 写真の中の女性をじっくり眺めてみる。
 人間離れした真っ白な髪につい気を取られてしまいがちだが、よく見ると結構綺麗な顔立ちをしていた。軽く柔らかそうな睫毛、瑞々しく輝くアーモンド型の瞳。それに加え、ほんのり桜色をした唇に浮かぶ穏やかな微笑みが印象的である。

 この女性が武田の何なのか。それを判断するにはまだ情報が少なすぎる。だが、もしこの女性が武田の彼女なのだとしたら、なんとなく納得いく気もする。

 ——やがて電車は走り出す。

 車内はわりと空いていた。通勤の人たちはもう会社に着いている時間だろう。この時間の電車に乗っているのは、競うように着飾った女子大学生グループや、いかにも会社勤めではなさそうな大人くらいのものである。

 私は母へ「今から帰る」と短いメールを送る。それから周りの乗客を観察してみるが、興味が湧くような人はおらず、たいして面白くなかった。なので、写真と車外の風景を交互に眺めながらぼんやり時間を潰すことにした。
 何の変哲もない、穏やかで静かな午前だ。


 電車が六宮駅を出発して数分後のことだった。

「すみません、少しよろしいでしょうか?」

 唐突に声をかけられた。私は驚きながらも、落ち着いたように装い返す。

「あ、はい。何ですか?」

 声の主は見知らぬ男性だった。それも、どこにでもいるような平凡な男性だ。いかにも安そうなスーツを着て、地味な黒ぶち眼鏡をかけている。
 こんな人が私に一体何の用だろうか、と思った——刹那。男性は私の首元に小型の刃物を突きつけていた。

 あまりに急なことで、私は言葉を失ってしまう。

「じっとして下さい。もしも勝手に動いたら、首を切ってしまいますよ?」

 男性はニヤリと不気味な笑みを浮かべる。その顔を見て、私はゾッとした。
 私の首に当てられている刃物は、男性の手のひらにほとんど収まるくらいの小さなものである。刃の部分もそれほど長くはない。しかし、切られたり刺されたりしては堪らないので、取り敢えずじっとしておくことにする。ここで抵抗しても損するだけだ。

 ちょうどその頃、電車が六宮の次の駅へ到着する。

「あ、安心して下さい。貴女が抵抗しなければ、乱暴な手段は使いません」

 男性は私の首元に刃物をあてがったまま、不気味に笑ってそう言った。そんな言葉を信頼できるほど愚かではない、と心の中で言ってやる。
 首元の刃物はもちろん怖いが、私としては、彼の不気味な笑顔の方が恐ろしい。こんな怪しい笑みを向けられるくらいなら、威圧的な恐ろしい表情をされる方がまだましだ。

「ほら、ぼんやりせずに。降りますよ」

 私は刃物で脅されながら電車を降りた。

 なんてことだ、このままでは家に帰って荷造りするどころの話ではない。どうにか逃れられないものか……と頭を懸命に働かしてみるものの、良い案は何一つ思い浮かばない。レイに連絡するというのも一つの手ではあるが、携帯電話はカバンの中なので取り出せない。

 こうして私は、またしても誘拐されることとなってしまった。
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