新日本警察エリミナーレ

四季

文字の大きさ
上 下
91 / 161

90話 「あり得ぬ幻」

しおりを挟む
 この部屋に来てからどのくらいの時間が経っただろうか。

 近くには敵がいる。それに対して、味方は一人もいない。そのような厳しい状況に置かれているせいか、一分一秒がいつになく長く感じられる。一寸先は闇、ではないが、数秒後に何が起こっているか分からない。ほんの数秒後、私が無事かどうかもはっきりしない。そんな状況下では、どうしても時の流れを遅く感じてしまうものである。

 室内に時計はない。私は腕時計をしていないので、時間を確認することは不可能だ。日頃はちっとも気にならないのだが、視界の範囲内に時を計るものがないというのは、どうも落ち着かない。心が波立ってしまう。

 私は黄色いドーナツをじっくり味わいつつ完食した。口の中はまだ甘い。舌や頬がとろけそうなくらいに。

 ——そして、ちょうど私が最後の一口を飲み込んだ時。
 唐突に男性が現れた。車で縄を扱っていた男性とは、似ているが違う人である。

「宰次さん! エリミナーレの武田が一人で現れました!」

 まさか武田が一人で来るとは。
 予想外のことに戸惑いつつも、私は徐々に元気を出す。助かるかもしれない、という希望が見えてきた。小さくとも淡くとも、希望は希望。
 どうやら、諦めるにはまだ早そうだ。

「一人?」
「はい。彼一人です」
「単身で突っ込んでくるとは……ふふ、面白いですな」

 宰次の口角が片側だけ持ち上がる。

「まずは、彼らを使って、例の部屋まで誘導して。まずは一人目、そこで僕が叩き潰してやりますな」
「分かりました。例の部屋へ誘導します」

 男性は軽く礼をして、速やかに部屋を出ていく。宰次は吹蓮に「見張りは頼みますな」とだけ言い、男性に続いて部屋から去った。

 またしても吹蓮と二人きりになってしまう。何も仕掛けてきていない時でも、吹蓮のただならぬオーラには圧倒される。肺を圧迫されるような、得体の知れない感覚に襲われるのである。

 その瞬間、壁に張り付いたモニターがすべてついた。防犯カメラのような映像が映しだされる。

「ここからが見物だねぇ」

 愉快そうな声で述べる吹蓮。

「見物? どういう意味ですか」
「いやいや、それはお楽しみ。今言ってしまったら楽しみが減ってしまうからねぇ……」

 希望と共に込み上げる不安。それは、私が傷つけられるよりも、ずっと怖いこと。

 けれど、こんなくらいでくよくよしているわけにはいかない。
 戦闘能力は皆無で、体も頑丈でないし、特別な才能もほとんどない。けれど、せめて心だけは強くあろうと思う。弱くても情けなくても、それでもエリミナーレの一員なのだから。


 それから数分。
 一番大きなモニターから、対峙する武田と宰次の映像が流れてくる。

『武田くん。一人で来るとは、さすがに驚きましたな。そこまで無鉄砲な男とは思っていなかったもので』
『何とでも言え。私は沙羅を取り返しに来ただけだ』

 武田が宰次に対し敬語でないことに気づき、少し驚いた。敵と認定したということだろうか。

『よく一人でここまでたどり着けたものですな。瑞穂の弟子というだけのことはある』
『今は関係のないことだ』
『瑞穂の話は嫌ですかな? ふふ。では止めておくこととしましょう』

 飄々とした態度で話す宰次と、真剣な低い声を放つ武田。二人の様子は対照的だ。
 次は武田の方から切り出す。

『約束通り来ただろう。すぐに沙羅を返せ』

 命令口調の、強い言い方だ。
 声色こそ静かだが、彼の奥底に燃えるものがあることに、私はすぐに気がついた。

『残念ながら、それは不可能ですな』

 宰次はキッパリと返す。
 物腰は柔らかいのにたまにはっきりと物を言うところが、宰次の不思議さを高めている。もっとも、このはっきりした方が宰次の本性なのだろうが。

『渡す気はない、ということか。ならば力ずくで取り返すまでだ』
『いや。それは違いますな』

 返ってきた発言に、眉をひそめ怪訝な顔をする武田。

『沙羅さんはね、もうこの世におられないのですよ』

 私は思わず「ええっ」と漏らしてしまった。
 いきなりなんという恐ろしいことを言い出すのか。私は間違いなく生きているのに。勝手に亡くなったことにしないでほしい。

『……嘘を言うな』

 武田は静かな表情を保ちながら述べる。宰次の発言は嘘——それには武田も気づいているようだ。

『嘘偽りはありません。なんなら証拠を見せて差し上げますが?』
『本当に証拠があるなら見せてみるといい』
『見せなくては納得してもらえぬようですな。……では仕方ない』

 宰次が指をパチンと鳴らす。すると、二人の屈強そうな男性が現れた。その手には風呂敷に包まれた何か。中身は一体何なのだろう。
 私の物で彼らが持っているのは、鞄くらいしかない。鞄では私が死んだ証拠にはならないはずだ。

『武田くん。これを見れば、さすがに、沙羅さんの死を受け入れるしかないですな。ふふ』

 愉快そうに笑う宰次。

 それにしても、生きていないことにされるのは複雑な心境だ。直接害が及ぶわけではないのだが、どうも嬉しくはない。

 屈強そうな男性は、ゆっくりと風呂敷を広げる。その中には——何も入っていなかった。拍子抜けだ、まさか空だなんて。
 しかし武田は、目を見開き、愕然としていた。

『っ! 馬鹿な!』

 顔は強張り、声は震えている。かなり動揺しているのが容易く分かる状態だ。
 彼は一体何を見たというのか。

「何もないのに……」

 モニターを凝視しながら半ば無意識に呟いていた。状況がまったく理解できないのである。
 すると、それを聞いていた吹蓮が、口を動かす。

「天月さんの首が見えるようになっているんだよ。あたしの術でねぇ」

 く、首!?
 人を何だと思っているのだろう……。

「どうしてそんなことを……」
「畠山宰次に頼まれたからだよ」
「頼まれたからって、そんな残酷なこと! 酷いです!」

 すると吹蓮は、こちらをギロリと睨み、「世の中そういうものだよ」と言ってきた。あまりに冷ややかな声だったので、背筋が凍りつく。小心者の私は何も言い返せない。

 モニターに視線を戻す。
 愕然として固まっている武田と、そんな彼の顔をニヤニヤしながら覗き込む宰次が、しっかりと映っている。図書館の書庫での時と同じように、宰次は武田へ接近していた。

『信じてくれましたかな? 武田くん。これは間違いなく、沙羅さんでしょう?』
『……いや、あり得ない。こんなことはあり得ない!』

 嫌らしい笑みを浮かべつつ接近している宰次を、武田は強く突き飛ばす。そして、重心を下げる。

『こんな残酷な嘘をつくとは……許せん!』

 武田は鋭く叫んだ。
 今までに見たことがないくらい、激しく荒々しい声だ。

『ふふ、強がりは要りませんな。本当は分かっているのでしょう?』

 突き飛ばされたにもかかわらず、宰次はニヤニヤ笑っている。挑発するような笑みである。

『沙羅さんはもういないということを。……ふふ』
しおりを挟む

処理中です...