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本編
接近②
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にわかに、遠く北西の方角から、地鳴りのような轟音が聞こえてきた。それは、しだいに近くなり、瞬く間に信長本隊、そして桶狭間山の今川本陣を飲み込んでしまった。
まさに滝のような豪雨が、強風によって横殴りに襲い掛かってきた。轟音に紛れ「痛っ!」と言う、うめき声も至る所から聞こえてきた。雹も混ざっていたのである。
その嵐の勢いたるや凄まじかった。桶狭間山から程近い沓掛峠に、幹回りが大人の2、3抱えもあるような楠の大木があったが、根元から横倒しになってしまう程だった。
目を開けるのさえはばかられる中、うずくまる広正に、信長は嵐に負けぬ怒号を浴びせた。
「何をしておる! 前進する、先導せよ!」
広正は信じられなかった。この状況で、行軍できるわけがない。しかし、信長がやると言ったらやるしかなかった。
視界は絶望的だったが、広正は目をつぶっても歩けるほど、この辺りの地理を把握していた。しかも、雨が斜め後方から降ってきているのも幸いだった。信長本隊は、広正を先頭に、強風で押されるようにして前へ進み、確実に義元との距離を縮めていった。
奇しくも嵐は、熱田の方向から吹いてくるため、皆
「我らは、熱田大明神の神軍だ」
「千秋季忠が死してなお、織田家の為に働いておる」
などと口々に言いあって、士気を高めるのだった。
確かに、この嵐は今川軍にとって最悪だった。北西の方を向く義元本陣は、正面から嵐を受けたのである。雹混じりの大雨が容赦なく顔を打ち付けた。柵は次々と倒れ、天幕は飛ばされていった。当然、敵が間近に迫って来ているなど気付きようが無かった。
突如、さっきまでの嵐が嘘のように、雨が止まった。
視界が開けると、義元本陣は、目と鼻の先にあった。敵兵の顔の表情もわかるほどだった。義元本陣の兵は皆慌てていた。武器をおいて、柵を作り直したり、天幕を張りなおしたりと、立て直しに必死だった。何人かは、こちらに気づいたようだが、まさか敵兵とは思わず、作業を続けている。
広正は、信長の方を見て思った。
『信長様は、この雨を狙っていた…』
確かに、信長は雨を計算に入れていた。戦が梅雨時になるように仕組んでいたのである。
信長は、丸根砦と鷲津砦を造り、大高城に兵糧攻めを仕掛ける際、広正に支持を出していた。
「大高の兵糧の量を逐一報告せよ」
広正は、大高城内に良く出入りする知り合いの農夫達に頼み、調査を行った。大高城の食料の備蓄量はそれ程多くなく、その気になれば、春先には兵糧切れにすることができた。しかし、信長はそうせず、ゆるゆると囲み、梅雨時に兵糧が切れるよう調整したのである。そのため義元は、わざわざ雨の多い時期に出陣することとなった。
『確かに、狙ってはいたが……なんという強運…』
これ以上ない好機に、かつてない大雨が降ったのである。奇跡と言わざるを得なかった。
広正は、伯父と父が建ててくれた十所神社を思い浮かべ、この幸運に感謝した。
その時、雲の隙間から、零れ落ちた一筋の光が、信長本隊を、そして信長本人を照らした。その神がかった光景に、すぐさま考えを改めた。
『この方自身が、天に選ばれた神の使いなのだ…』
そう考えたのは、広正だけでは無かった。家臣一同、同じ気持であった。
しかし、この奇跡が生み出した状況も、今この瞬間だけのようである。良く訓練された今川兵は、瞬く間に、被害を受けた陣を修復していく。この瞬間を逃せば二度と好機は訪れないだろう。
こんな戦は一生に一度あるかないかである。高鳴る鼓動とは逆に、信長本隊からは物音1つ聞こえなかった。豪雨の後の静寂に、草木から落ちる滴の音が聞こえるようだった。
信長は、愛用の槍を握りしめた。そして、天地を揺るがす号令とともに、高く突き上げた。
「いざ!! かかれ! かかれ!!」
まさに滝のような豪雨が、強風によって横殴りに襲い掛かってきた。轟音に紛れ「痛っ!」と言う、うめき声も至る所から聞こえてきた。雹も混ざっていたのである。
その嵐の勢いたるや凄まじかった。桶狭間山から程近い沓掛峠に、幹回りが大人の2、3抱えもあるような楠の大木があったが、根元から横倒しになってしまう程だった。
目を開けるのさえはばかられる中、うずくまる広正に、信長は嵐に負けぬ怒号を浴びせた。
「何をしておる! 前進する、先導せよ!」
広正は信じられなかった。この状況で、行軍できるわけがない。しかし、信長がやると言ったらやるしかなかった。
視界は絶望的だったが、広正は目をつぶっても歩けるほど、この辺りの地理を把握していた。しかも、雨が斜め後方から降ってきているのも幸いだった。信長本隊は、広正を先頭に、強風で押されるようにして前へ進み、確実に義元との距離を縮めていった。
奇しくも嵐は、熱田の方向から吹いてくるため、皆
「我らは、熱田大明神の神軍だ」
「千秋季忠が死してなお、織田家の為に働いておる」
などと口々に言いあって、士気を高めるのだった。
確かに、この嵐は今川軍にとって最悪だった。北西の方を向く義元本陣は、正面から嵐を受けたのである。雹混じりの大雨が容赦なく顔を打ち付けた。柵は次々と倒れ、天幕は飛ばされていった。当然、敵が間近に迫って来ているなど気付きようが無かった。
突如、さっきまでの嵐が嘘のように、雨が止まった。
視界が開けると、義元本陣は、目と鼻の先にあった。敵兵の顔の表情もわかるほどだった。義元本陣の兵は皆慌てていた。武器をおいて、柵を作り直したり、天幕を張りなおしたりと、立て直しに必死だった。何人かは、こちらに気づいたようだが、まさか敵兵とは思わず、作業を続けている。
広正は、信長の方を見て思った。
『信長様は、この雨を狙っていた…』
確かに、信長は雨を計算に入れていた。戦が梅雨時になるように仕組んでいたのである。
信長は、丸根砦と鷲津砦を造り、大高城に兵糧攻めを仕掛ける際、広正に支持を出していた。
「大高の兵糧の量を逐一報告せよ」
広正は、大高城内に良く出入りする知り合いの農夫達に頼み、調査を行った。大高城の食料の備蓄量はそれ程多くなく、その気になれば、春先には兵糧切れにすることができた。しかし、信長はそうせず、ゆるゆると囲み、梅雨時に兵糧が切れるよう調整したのである。そのため義元は、わざわざ雨の多い時期に出陣することとなった。
『確かに、狙ってはいたが……なんという強運…』
これ以上ない好機に、かつてない大雨が降ったのである。奇跡と言わざるを得なかった。
広正は、伯父と父が建ててくれた十所神社を思い浮かべ、この幸運に感謝した。
その時、雲の隙間から、零れ落ちた一筋の光が、信長本隊を、そして信長本人を照らした。その神がかった光景に、すぐさま考えを改めた。
『この方自身が、天に選ばれた神の使いなのだ…』
そう考えたのは、広正だけでは無かった。家臣一同、同じ気持であった。
しかし、この奇跡が生み出した状況も、今この瞬間だけのようである。良く訓練された今川兵は、瞬く間に、被害を受けた陣を修復していく。この瞬間を逃せば二度と好機は訪れないだろう。
こんな戦は一生に一度あるかないかである。高鳴る鼓動とは逆に、信長本隊からは物音1つ聞こえなかった。豪雨の後の静寂に、草木から落ちる滴の音が聞こえるようだった。
信長は、愛用の槍を握りしめた。そして、天地を揺るがす号令とともに、高く突き上げた。
「いざ!! かかれ! かかれ!!」
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