獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

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4.砂漠

4-2

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 起動した術式に遅滞の拘束術式を重ねる。停止の命令式は弾かれた。拘束もあっという間に劣化してぼろぼろと剥がれ落ちていく。イァーマは舌打ちをしてさらに三重に拘束術式を重ね、間断なく魔力を流し続ける。魔術の青い光がバチバチと音を立てて周囲ではじけては散っていった。流星雨のようなそれは場の魔力圧をただただ高めるばかりで、収束へと切り返すことができない。
「いつの間にこんなもの作ったの」
 声を荒げるが、いらえはない。イァーマのすぐ隣にいるアスギリオは口の中で低く制御術式を唱えながら展開しようとする術式を自分の体へと誘導している。彼女の低い声が歌のように低く流れる。青い光が文字の形をなしてアスギリオの体に張り付いていく。それはやがて彼女の体に融けて同化し、アスギリオの体は重ねた文字のおかげで淡く発光するように青みを帯びていた。
 それはのちに五柱術式と名付けられた。世界を構成する五つの因果に干渉し、世界の理を歪める禁術。複雑な概念を内包しながら術式そのものは簡潔で、ただ大量の魔力をのみ必要とした。それは魔術の英雄をもってしても起動にぎりぎり、制御は恐らく不可能という巨大な術式。
 ──生み出したのはアスギリオだった。
 元々は暇つぶしの思いつきだった。戦争の準備にせわしない日常に倦んで、もっと大きな話がしたいと世界そのものの構成式に解析をかけた。とっかかりを見つけるのに多少手間取りはしたが、存外にするすると解析できてしまうことが面白くなってしまったのだ。膨大な量の解析結果を術式の形でまとめ上げるのもアスギリオにとっては格好の息抜きとなり、気づけば前代未聞の大術式を編み上げていた。だが起動にも制御にも尋常でない魔力を必要とし、アスギリオは机上の空論そのものの術式だと笑ったのだ。到底現実的ではないが面白かったと、世間話のつもりでこぼしたそれを、誰かが王宮に持ち込んだ。
「お前がいないときの話だ」
 あらかたの光を体に同化させたアスギリオが低く言った。
「どうせ発動できないと高をくくっていた。わかるだろう? これだけのものを起動できる人間が私以外にいるものか」
 実際どうして発動したのかわからない。仮に生け贄のような強引な手段をとるとして、一人二人の命でまかなえる量ではない。だが、ベーメンドーサの国王は何らかの方法を見いだした。決して負けられない戦であると声高に言っていた王は、五柱術式を起動したのだ。そうして、今がある。
「遅滞術式をもう三重にかけてくれ。お前と話す時間が欲しい」
「……」
「イァーマ」
 鋭く名を呼ばれ、獣は渋面のままに術式をつむぐ。
「どうしてそんなバカの尻拭いをアッシュがしなくちゃいけないんだ」
 アスギリオの魔力を持ってしても起動してしまった五柱術式を停止することはできず、本格的に動き出す寸前の状態で封じるのが精一杯だった。アスギリオの魂で術式の魔力を押さえ込み、イァーマが彼女の体を物理的に封じる。そうすることでしか、滅びを回避することはできなかった。
「ねえやっぱりやめようこんなこと。全て引き受ける必要なんかあるもんか」
「因果律が狂えば最悪世界が滅ぶ。それは、それは駄目だろう……?」
「俺とアッシュには同じことだよ。アッシュが永遠に封じられるならここで世界が滅んで無になるのと何が違うんだ」
 聞いたことのないイァーマの冷たい声は怒りと、確かな憎悪をはらんでいた。
「君はそんなお人好しじゃないだろう」
 アスギリオは答えない。ただイァーマの言葉を噛みしめるように目を閉じて、そうして長い沈黙の果てに首を振った。
「──だめだ」
「なんで!」
 むき出しの感情がアスギリオに向かう。
「作ったのは私だ。私の責任だ。逃げては、駄目だ」
「使ったのはアッシュじゃない!」
「うん、そうだ。私じゃない。でも、私のせいじゃないと目と耳を塞いで何もしないで嵐が過ぎるのを待つのは、きっと違うんだ」
 場違いなほど穏やかな声でアスギリオが笑った。
「なぁイァーマ。飴胡桃はうまかった。海のほとりの、ほら声の大きい親父の茶店。今度孫が生まれるとか言っていただろう。そろそろじゃないか。それから、ああそうだ。林檎を送ると言っていた。あのため池の村から手紙が来ていたんだ」
 いくつもいくつも思い出があふれ出る。イァーマと過ごした時間が楽しかったのだと、満たされていたのだとアスギリオは幸福を口にする。そして同時に、あの楽しい時間の中に確かに人の営みがあったのだと、目を細めた。
「ふふ、ずっとさみしかったんだ。どうして私は一人なんだろうと思っていた」
 確かに人の輪には入れなかった。気づけば敬遠され疎外され、魔術的価値のみを求められた。もういいと拗ねてイァーマを作り出しもした。けれど、それでも愛したものはいた。愛してくれたものはいたのだ。
「この世界を諦められるほどには、絶望していなかったみたいだ」
 へにゃりとまなじりをゆるめて笑った顔が、まぶしかった。
「私はお人好しじゃない。馬鹿な王様に義理立てするつもりもない。でも、それでも」
 ──私は、人を守りたい。
 紫色の双眸にまっすぐな意思があった。透明な笑顔は美しかった。ただただ、美しかった。
「アッシュ……」
 イァーマはくちびるを噛みしめる。
「本当に、本当にそういうところだよ」
 この姿が愛おしいのだ。利用されて傷つけられて他人など知らないと虚勢を張りながらなお寂しいと泣き、誰かを愛そうとする姿が愛おしいのだ。彼女が魔術の英雄ではなくただの人間として必死に生きているのだと、イァーマは知っている。
 拘束術式が剥がれ始めた。ぼろぼろと空気に青い光が散っていく。
 遅滞の術式が切れるのと同時にアスギリオの封印は起動する。イァーマは口早にもう一度拘束術式を重ねる。あとほんの少し、時間が欲しかった。そんな彼の未練をアスギリオは小さく笑って受け止めた。
「ありがとう、イァーマ。お前がいてくれて本当によかった」
 融けるような笑顔でそう言って、けれど堪えきれずに泣き笑いの形にゆがむ。
「ああでも、一人はやっぱりさみしいな」
 きれいにさよならをするつもりだったのにと言って、首を振るアスギリオにイァーマは声を張り上げた。
「知ってるよ。君がさみしがりなことくらい誰よりも俺が知ってるよ」
 術式を編み上げる。青い光がイァーマを取り囲んでいく。
「ずいぶん色々なものを詰め込んでくれたみたいだから、それ全部使わせてもらうよ」
 アスギリオの封印の上にイァーマの魂を縫い付ける。何度でもここで生まれ直し、ずっとそばにあり続ける。むちゃくちゃな術式だが、イァーマはそもそもの存在がむちゃくちゃなのだ。アスギリオが思いつく限りのものを詰め込んで最後に自分の魂まで分け与えて作り上げた獣。彼女を愛するために生まれた命なら、彼女がここにある限り応え続ける。それしか、できることがなかった。
「イァーマ……」
「君がくれた命だ。こうやって使い切るのは、違わないだろう?」
 叫んだ言葉の先で、アスギリオが泣いていた。

 それが、イァーマとしての最後の記憶。
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