獣は遠き約束を胸に抱く

夜渦

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5.英雄アスギリオ

5-3

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 スノウの腕にイチカが落ちる。
「え、待ってイチカ重い」
 ずん、とかかる荷重がアスギリオの倍はありそうだった。支えきれぬ重さではないが先ほどまでの落差に頭が混乱を来し、スノウは思わず声を上げる。
「起きて、イチカ起きて! 重い!」
 長身が身じろいで低くうなって、そうしてぱちりとその双眸が開いた。あまりにもあっけない覚醒にスノウの方が面食らってしまって体勢を崩し、二人は結局草地に投げ出されることとなった。かろうじてイチカの下敷きになることだけは回避し、尻餅をついたスノウは傍らに声をかける。
「……ごめん。無事?」
「ああ。問題ない」
 抑揚のない声が答えて身を起こした。頭上の星空を見上げる。外だった。
「ここはどこだ」
 確かラズバスカをダジューに逃がして引っ越しの段取りを考えていたはずだ。それがなぜ、スノウの腕の中で目を覚まして夜の草原に放り出されるのかまったく前後関係がわからない。スノウが困ったような声で答えた。
「多分、ベーメンドーサだと思うんだけど……」
「ベーメンドーサ……?」
「俺も場所を特定する余裕がなくて」
 どこかのため池のほとりのような景色に覚えがあるような気はするが、定かではない。
「イチカの体がアッシュに乗っ取られちゃって、イチカを殺すしか止める手段がない、五門を開けるわけにはいかないみたいな話になってそれで、ああそうだパンジュのところにいたんだけど」
 草地に座り込むイチカの隣に腰を落ち着けながら何とか状況説明を試みるが、言葉にすればするだけ支離滅裂になるだけだった。イチカがうなり声のような低い声でスノウの名を呼ぶ。
「理解できない話だということは理解した。時系列で話してくれ」
「うん……」
 事の起こりから今に至るまでをたどたどしい言葉で語る間に、渋面を浮かべたイチカの眉間に見たことがないほど深いしわが刻まれていく。そのまま卒倒するのではないかと思うほどの険しい表情にスノウはかける言葉を見つけられない。
「ええと、あの……」
「待て。まったく処理できていない。時間をくれ」
 イチカが意識を奪われていたのは二日ほどだという。その間に体を勝手に使われ、世界が滅びるのどうのの渦中にあって他国の軍やら守人やらを相手に立ち回った挙げ句、眼前の少年と魔術をぶつけ合って英雄は去った。そうして本来の体の持ち主であるイチカは遠国で目を覚ました。そういうことらしい。
「……いや、無理だろう」
 魔術の素養の有無にかかわらず、そうそう受け入れられる内容ではない。
「何がどうしてそうなる?」
 深く長いため息をこぼしながら気休めに眉間をもむ。だが何をどうしたって理解どころか想像も及ばない話だった。全身の倦怠感に考えるのをやめようかとさえ思ったところで気がつく。
「異常に体が重いんだが」
「だと思う。イチカの体に魔力が通ってないのにアッシュが無理矢理に術式使ってたから」
 魔力がないのなら命を燃やすしかない。恐らく何日か寝込む羽目になるだろう。
「寝込むも何も引っ越しだが。いや待て。そもそも今日にはイプリツェにいなきゃならないんじゃなかったか。今日は何日だ」
 焦燥が背筋を駆け上がって血の気が引く。現実と非日常の折り合いの付け方がわからない。
「その辺はクズミたちが何かしてたから大丈夫だと思うけど……」
 言いながらスノウの中で何かが引っかかった。体が動かないと言って立ち上がることなく足を投げ出す横顔を見る。諦観を滲ませる笑いは乾ききって疲労の色が濃く、どこかそげた印象すらある。
「今から荷造りはきついな」
 イチカが自嘲めいた笑いをこぼして、スノウは半ば衝動的にくちびるを開いた。
「ねえイチカ。引っ越し、やめよう」
「スノウ?」
 少年はその表情を知っていた。それは追い詰められた人間が見せる最後のあがきのようなものだ。抗うことを諦めようとして諦めきれない、けれどどうしていいのかわからない。そんなときに浮かべる笑いだ。大丈夫ではないのに大丈夫だと言って笑うのだ。そうして、何かが壊れる。脳裏に菫色の瞳が笑うのが見えた気がした。
「行っちゃだめだ。イプリツェに行ってもイチカが壊れるんじゃ日常を守ったことにはならない」
「……またその話をするのか」
「するよ。何度でもするよ。俺が守りたいのはイチカだ」
 スノウ、とどこかたしなめる調子を見せる青年の声にかぶせて声を張り上げる。
「パンジュがいる。クズミもいる。何だったら力尽くでも何でもいい。戦おう。俺はイチカの平穏な日常生活を守らなきゃいけないんだ」
 なりふりなど構っていられない、使えるものは何でも使うと語気を荒げる少年をイチカはどこか不思議そうに見ていた。かつて逃げようと口にしたときと明らかに表情が違う。戦おう、と言ったのも初めてだった。
「戦う……?」
「そう。俺ずっと無責任に逃げようって言ってた。でもそもそもイチカが逃げる理由なんかないんだ。絶対におかしい。間違ってるのは向こうだ」
 灰白色の瞳が燃えるようだ。彼がこんなにも強い意志を口にしたことはない。
「五門機関だろうが国だろうが、俺は俺の大切な人を害されるのを許さない」
 断言するさまがどこかまぶしくてイチカはわずか目をすがめる。
「イチカはわざわざつらい場所に行きたいの?」
 行く理由がないとスノウは譲らない。そのまっすぐなまなざしに見透かされているような錯覚を覚えて、イチカは深く嘆息した。そうして、ゆるりと首を振った。
「気持ちはありがたいが──」
「アッシュがね、王宮に入ったときも同じだった。招聘を断って追い回されるくらいならおとなしく適当に言うことを聞いて居場所の一つでももらった方がこの国で生きていける、って。でも、そうはならなかった。俺たちは行くべきじゃなかった。王様に居場所なんかもらわなくたって、よかったんだ」
 結局は戦争に使う魔術ばかりを求められてアスギリオは心をすり減らしそうして、今がある。
「多分あのときの俺がやるべきことはアッシュについて行くことじゃなくて王宮に火でもつけてやればよかったんだ」
「……いきなりどうした」
 突然の過激な発言にイチカが珍しくぎょっとした様子を見せる。
「何か、腹立ってきたなって。あのときの自分にもアッシュにも王様にも。もちろん今の状況も。イチカの親とか友達とか人質に取ろうとしてるってことはそれでイチカを思い通りにできるって思ってるってことでしょ。だったらそうはならないって示すしかない」
 むしろ手を出したら痛い目を見ると思い知らせてやらねばならない。
「さすがによその国から圧力かけられて改めないほど馬鹿ではないよね。最悪本当に総督府爆破してもいい」
「待て待て待て。自分が何言ってるかわかってるのか」
 熱を帯びていくスノウにイチカが狼狽の滲む声を上げた。
「わかってるよ。全部、わかってる。俺はイチカを守るって決めたんだ。国だろうが世界だろうが知ったことじゃない」
 その双眸がひたとイチカを見据えて、その確かな覚悟を伝えるようだった。その迫力に気圧されてイチカはわずか息を呑んだ。
「俺はイチカがすり減るのを見るなんて絶対嫌だ」
 毎日毎日少しずつ何かを削り取られてぼろぼろの心と疲れ果てた顔で帰宅してそれでもスノウに向かって大丈夫と笑った菫色の瞳を、あなただけはそのままでいてと泣いた声を、スノウは覚えている。
 沈黙を守るイチカをスノウが静かに呼んだ。
「イチカはどうしたいの」
 苦しんででもその先を望むというのなら話は別だ。だがイチカはそうするしか道がないと口にするばかりで、彼の願いを言葉にはしていない。
「俺は……」
 喉が干からびたようにイチカの声がかすれる。人ならざる色がこちらを見ていた。彼は強い目をするようになっていた。何かを乗り越え、確かに自分の意思でもってイチカに対峙しているのがわかる。初めて会ったときの何かを誤魔化すようにへらりと笑ったさまが遠い。
 風が二人の間を過ぎていった。ふわりと草の匂いがして、イチカは半ば無意識に空を仰いだ。星明かりが闇をわずかに薄めて、その中でスノウの白が鮮やかだ。かつてこの少年に向けた言葉を覚えていた。
「……俺は、魔術の価値など知らない。だからお前にまっとうな人間として生きろと言った」
「うん」
 家主と居候。それ以上でもそれ以下でもない。イチカはそう言ったし、そう過ごしてきた。穏やかでどこか淡々とした、内だ時間は間違いなく心地よかった。だが、イチカは苦しげに眉根を寄せて首を振る。
「でも結局、お前の力を利用しようとしたんだ。お前を、お前の力を使うことなく傍に置くことで魔術に執心する奴らを笑いたかった」
 魔術なんてくそくらえと本心で思っていたはずなのに、気づけば同じ場所で同じ物差しでスノウを測り、己の自尊心を満たそうとした。
「そう理解したら、何を望めばいいのかわからなくなった」
 ──昨日と同じ明日。
 ずっとそう願ってきた。スノウと重ねる時間をことのほか愛おしむ自分を知っている。それが揺らいでしまった。自分はこの子供の善性を尊んでいるのではなく、彼を無垢な子供のまま傍に置き続ける自分を誇示したいのだ。その浅ましさにどう向き合っていいのかわからない。
「……俺が、それでいいと言っても?」
「誠意のないありようが嫌だ」
 彼との日々を好ましいと思う。間違いなく自分は昨日と同じ明日の中にこの少年を数えている。だがそれを彼に伝えていいのか、わからなかった。自分は本当に気安い同居人として彼を扱えるのか、彼の尊厳を守りきれるのか。懐疑がイチカのくちびるを閉ざす。
 ふっとスノウが笑った。
「そうだ、意外に理想主義者なんだった」
 覚えのあるやりとりにイチカは思わず視線を上げる。
「俺はイチカのそういうとこが好きだよ」
 ゆるく笑みをひくまなざしが優しい。だが同時にどこか不安定にも見えた。
「人一人救えるのなら、と命を差し出してくれた。俺に人として生きろと言ってくれた。それがその場しのぎのきれい事じゃないって俺が一番知ってる。大丈夫。俺にはそれで十分だ」
 イチカは一度としてスノウに何かを命令したり強要したりしたことはない。自分で考えて決めろと、必ずそう言った。当たり前にスノウと食事を共にし、家計の負担が増えたはずなのにそのことは口にしなかった。スノウに今日は何をしたかを問い、話を聞いてくれた。スノウの小さな望みを取りこぼすことなく拾い上げ、休日には二人ふらりと出かけたりもした。その何でもない時間に確かに何かが満たされていったのだ。あの時間を知った今、イチカが昨日と同じ明日を望むと言った意味がよくわかる。
「イチカを守るよ。イチカの日常を守るよ。昨日と同じ明日を取り戻すよ。でもきっと、俺はそこにいない方がいい。俺がいる限りイチカは追い回されて、摩耗していく」
 どれほど物理的に守人から離れられるものなのか試したことはないが、最悪の場合スノウの意識を封じてしまえばいい。結びついた魂さえ存在していればイチカの命が脅かされることはない。守人であることはやめられなくとも、隣に獣がおらず魔力も無い一市民には戻れる。その背後に他国と五門機関がついていると知っていながら手を出すだけの価値はなくなる。矢継ぎ早にそう語るスノウをイチカが遮った。
「なぜそんな話になる」
 男の声音が固い。
「イチカの望みを叶えるのに、一番の邪魔ものが俺だからだよ」
 アスギリオがイチカを押しのけたあの日、イチカが口にした言葉を覚えている。これが守人になるということかと、何かを悟ったような諦めたような声で呆然とつぶやいたのだ。あの瞬間にスノウは理解したのかもしれない。イチカの望みと自分の存在はどうあっても相容れないと。
「スノウ」
 イチカがわずか語勢を強める。
「人の望みを自分の望みにするなと言ったはずだが」
「イチカの望みが俺の望みだ。イチカが害されることなく生きることが何よりの望みだ」
 視線がぶつかる。黒と白。対照的な色彩は互いに譲らない。
「できもしないことを言うな。お前は自分で思っているより生き汚いぞ」
 ナナだけの自分で終わりたかったのにと言いながらイチカの前に現れた。そうして契約で命を長らえ、新しい生活をそれなりに楽しんで過ごしてきた。彼がつむいだ言葉とは裏腹に彼は人生の楽しみ方を知っている。イチカはそのことに安堵したのだ。
「……わかってるよ。手放すのは怖いよ。嫌だよ。でも自分の望みもわからなくなったなんてイチカに言わせるのはもっと嫌だよ」
「そんなものはまた探せばいい。お前は先回りをしすぎるんだ。俺がいつお前と離れたいと言った。守人をやめたいなどと口にした。勝手に決めつけて消えようとするな」
 怒ったような口調に灰白色がまたたいた。
「イチカは、守人でいたいの?」
「違う。お前といたいんだ」
 予想していなかった言葉にスノウが息を飲む。
「イチカ……? え、だってイチカは守人を愚かだって……」
 イチカが長いため息をつく。
「守人になればどれほど獣の価値から距離を置いたつもりでも必ず自分の中にその価値ができあがる。それを軽視していた俺が愚かだという話だ。お前をただの人間として扱っているつもりがその実、獣としての価値を切り離せていなかった」
 スノウ、とイチカが名を呼んだ。ゆっくり立ち上がる。全身の倦怠感はひどいが、動かないほどではない。
「お前を一人の人間として扱っているつもりだった。だが結局俺はお前を獣として見ていた。それに気づきもしないでえらそうなことを並べ立てた。すまなかった」
 それでも、と真摯な声が続く。
「お前にまっとうな人として生きて欲しいというのは本心のつもりだ。俺の日常にはお前がいる。昨日と同じ明日にお前がいないのならそれは同じ明日ではない」
 漆黒がスノウをひたと見た。
「だから望んでもいいか。俺はお前と生きていきたいと望んでもいいか」
 灰白色の双眸が見開かれていく。体が熱を帯びるようだ。告げられた言葉の意味を理解している。何もかもが、胸中にわだかまっていた表現しようのないものの全てが霧散していくようだった。へにゃりとスノウの表情が泣き笑いにほどける。
 見上げた黒い瞳に自分が映っている。初めて会ったときはもっと自分の身長が高くてこんなにイチカの顔は遠くなかった。だがあのときよりもイチカの言葉が届く心地がする。それはイチカも同じだろうかと願ってしまった。
「俺は、望んでもいいのかな」
「何を」
 イチカの声は素っ気ない。いつも通りだ。彼は淡々とした声でいつも問う。
 ──お前はどうしたい。
 スノウは一度息を吸って吐いて、胸を張る。
「俺は、イチカと生きていきたいんだ」
 見据えた先にある長身。にこりともせずにイチカは答えた。
「始めからそう言え」
 スノウはくちびるを噛みしめる。こみ上げる感情を押し戻しながら、無理矢理に笑った。
「これでも、いっぱい考えたんだよ」
 イチカを死なせないと決めて必死にできることを探して重ねてアスギリオと対峙してそうしてその先。イチカを帰すべき場所へ帰さねばと思ったのだ。
「そうだろうな。だからそうなる。お前は物事を考えるときの主語が大きすぎるんだ」
 主語が大きいくせその勘定に自分が入っていない。ゆえに話がこじれる。
「俺がしたいのは俺とお前の話だ」
 スノウが獣であることも自分が守人であることも事実で、そこについて回る様々に蓋をすることはできない。彼が人ではないこと、彼が隣にいることの意味を受け止めながらそれでも、イチカはスノウに一人の人間として対峙したかった。イチカらしからぬ強いまなざしにスノウは口を開く。
「……俺、イチカといるの楽しいんだ。すごく、楽しいんだ。だから、ずっとこんな日が続けばいいって思ってた」
「なら、続ける努力をするしかない。俺とお前で、平穏な日常を守る。それだけだ」
 スノウは拳で目頭を強引にぬぐってにじみ始めた涙を誤魔化す。ただただ胸が熱かった。
「うん。うん……! 俺にはそれが一番大事だ」
 世界なんかよりもずっとと、嗚咽を飲み込みながら声を張る姿にイチカのくちびるがわずかゆるんだ。
「熱烈だな」
 ふと体が軽くなっている気がした。倦怠感は変わらないが、つかえがとれたような心地だ。そうしてようやく、いつもの自分が戻ってくる。
「話は終わりだ。帰るぞスノウ。腹が減った」
 それはまるで市場の買い出しから帰るような物言いで。
「あ、待ってイチカ。一度みんなのところに戻らないと」
 ベーメンドーサ軍と五門機関の魔術師の相手をしているはずだと言われ、イチカは盛大に顔をしかめた。
「だからどうしてそう話が大きくなるんだ」
「あはは、こればっかは仕方ないよ。終わらせて、早く帰ろう」
 苦笑するスノウの足下に青い光が走って正円を描く。スノウはイチカの手をとった。
「鯖の塩焼きをパンに挟むとおいしいんだって。玉葱も一緒に」
「ああ、いいな」
 日常の片鱗に表情がゆるむ。そうして現実を思い出してうんざりとため息をこぼした。
「もう腹をくくるしかないな」
「イチカ?」
「戦うか、スノウ」
 ──守るべき日常のために。
 灰白色をわずか見開いて、そうしてスノウは破顔した。
「絶対負けないよ」
「当たり前だ」
 やる以上は必ず勝つと抑揚に乏しい声がつむぐ。少年の楽しげな笑い声を残して二人の姿は青い光の向こうへと消え、夜の終わりが残された。
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