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第四話

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 さて数日後の話である。俺は再度紅さんの自宅を訪れていた。もちろん、借りていた書籍類を返して、新しい物を貸して貰うためだ。それ以外の理由や目的はない。
「はい、どうぞ~♡」
 招き入れられた部屋は、この前訪れた時が嘘のように片付いていた。ハウスキーパーさんって凄いんだな……なんて、少しズレた部分に感嘆しつつ、促されるままソファに腰を下ろす。
「今日はちゃんとジュースも準備しといたぜ。オレンジジュースに~、サイダーに~、メロンソーダに~、コーラに~……他にも色々。何がいい?」
「そんなの、ほんとに気を使わなくても……」
「まーまー遠慮しなさんなって。子供は大人の好意に甘えとくのが一番可愛いの~」
 そう言うと紅さんは両手いっぱいに色とりどりのペットボトルを抱えて来て俺の前に並べた。気を使わせてしまって申し訳ないと思う反面、用意して貰ったものを無碍にするのはよろしくない事くらい分かる。結局俺は透明なサイダーを手に取り、キャップを捻った。
「おっ、ユキちゃんいいね似合うね~。将来サイダーのCMやって欲しいわ~」
 両手の親指と人差し指で作った四角形から俺を覗き込み、茶々を入れる紅さん。それから隣にどっかりと腰を下ろし、自分が持ってきたジュース類を興味深げに品定めし始める。普段飲まないから珍しいのだろうか。
「……ところでユキちゃんさぁ、こないだうちの事務所のヤツじゃない男と一緒に居たじゃん? あれ誰?」
 と、オレンジジュースのパッケージをしげしげと眺めながら、突如として紅さんが切り出した。藪から棒の話題についていけず、俺はきょとんと首を傾げてしまった。
 しかしややあって検討がつく。この間ハヤト君と買い物に行った時の事だろう。
「あぁ! ショッピングモールに行った時の事ですか?」
「うんうんそうそう。たまたま見かけてさ~」
「あの子は中学の同級生です。ハヤト君っていって、おしゃれで格好良くて勉強も運動も出来て、学校で一番モテたんですよ~」
 そこではっと、俺は紅さんの言いたい事に検討がついた気がした。
「あっ、もしかしてスカウトしたいとか……?」
 しかしそう問うと、紅さんは思ってもみなかったというような表情を返してくる。ハヤト君はかっこいいから、やっぱり芸能関係者が放っておかないのかな思いきや、どうやら俺の予想ははずれていたらしい。
「あ~いや違う違う。そういうんじゃねぇんだけどさ。ただユキとどういう関係なのかなぁって思って聞いてみただーけ」
「へ? そ、そうなんですか? どういうも何も、普通に学校の友達ですけど……」
「そっかそっか。なら良かった♡」
 何故そんな事を聞くのか、そして何が良かったのか、紅さんの意図がいまいち掴めない俺の頭の中は疑問符でいっぱいになった。しかしそれらの思考を整理する暇もなく、肩に手のひらが回ってきてどきりと心臓が飛び跳ねる。咄嗟に俺は返却物が入っている紙袋を差し出してお茶を濁した。
「あっ、あの、これこないだ借りたヤツっ……! ありがとうございました!」
「お、どーいたしまして♡ 俺こういうの自分じゃあんま見ねぇからさ~、どうだった?」
「え、と……」
 感想を問われ、不埒な目で見た映像のアレコレが脳内にフラッシュバックする。そして言わずもがな、紅さんをオカズにしてしまったオナニーも。大慌てでそのイメージを振り払い、相応しい言葉を探した。
「その……えっと……紅さん、かっこよかったです……」
 だけど多くを語るとボロが出そうな気がして、結局そんな事しか言えなかった。
 何かを勘付かれたのだろうか。紅さんはしばしじいっと俺の事を眺めていた。だけどその後「そっか」と言ってにこりと笑い、ソファから立ち上がった。ぴったりくっついていた体温が離れていき、少しだけ肩の力が抜ける。もしかしたらこのまま前みたいな雰囲気になるんじゃないかと身構えていた俺は、安堵した気持ち半分、残念な気持ち半分、紅さんの後姿を目で追いかけた。
「なぁユキちゃん、今日はもっと昔のヤツも見てみる~?」
 親指で差されたのは、この間教えて貰った「デビュー当時のお宝」がある部屋の扉だった。その瞬間、ゲンキンなもので俺のスケベ心はナリを潜め、代わりに一色紅限界オタクが顔を覗かせる。
「いいんですかっ!?」
 目を輝かせながら身を乗り出すと、紅さんが苦笑を返してきた。
 その部屋は完全な物置だった。大きな段ボールや収納ケース、季節外れの衣類、家財道具等が整然と並べられていて、この前の部屋の散らかりようを知っている身としては意外だった。が、少し埃っぽい空気を感じてすぐに理解が及ぶ。恐らく普段紅さんの出入りが無く、ハウスキーパーさんが片付けた状態のまま保たれているから綺麗なのだろうと。
「え~っと、どれだったな~っと」
 紅さんが手前側の段ボールを雑にどけていく。手伝おうかどうしようか迷ったが、スペースがあまり無く、変に手を出しても邪魔にしかならなさそうだったので、俺は大人しく後ろに控えておく事にした。
「ここってずっと物置にしてるんですか?」
「うんそう。さっきのリビングと~、あとは向こうにある寝室な。あ~あっちにウォークインクローゼットもあって……それ以外の部屋は基本空き部屋兼物置だな」
「えっ、こんなにいいお家なのに、それちょっと勿体ないような……」
「いやそうなんだけどさぁ、部屋作っても俺結局リビングと寝室以外使わねーんだよ。あとマジで結局ネックになんのは収納! 物置って多すぎて困る事ねぇから!」
 あの一色紅からお昼の情報番組の如き庶民的な意見が飛び出して、俺は思わずぷっと頬を緩めてしまった。
「でも、紅さんって色んな人と交流があるイメージだったから……人を招くための部屋とか無いのがちょっと意外でした」
 色んな人との交流、と、オブラートには包んだが、要は女性関係のスキャンダルの宝庫だという意味である。
「あぁ、まぁ入れるとしてもよっぽどのヤツだけだからな~。ほら、俺これでもめちゃくちゃ有名人なんでぇ、あんま誰彼構わず自宅の場所とか教えると危ねぇワケよ。人と会うなら他に場所押さえる方が安全だし、遊び相手にココ教えんの怖すぎるし~」
「へっ……!? えっ!? じゃっ、じゃあ俺に教えちゃダメだったんじゃないんですか!?」
 確かに言われてみればその通りだ。紅さんのような人が、悪意ある人に自宅を特定されたり公にでもされたら大変な事になるだろう。それなのに、いくら所属タレントとは言えまだ関係も浅い俺を自宅に招いたのは軽率すぎやしないだろうか。俺は今更事の重大さに気付いて慌てふためいた。いや俺に悪意はないし言いふらす気なんてさらさら無いけども! でもこんな不用心な事をして、紅さんは一体どういうつもりなんだろう。
 すると紅さんは真顔で振り返り、一瞬間を空けた後に、現役時代さながらの笑顔を形作ったのだった。
「うん。だからそうまでしてもユキと仲良くなりたい紅さんの気持ち、分かってくれた?」
「…………えっ?」
 さっきまでとは別の意味で心臓が高鳴った。話の流れから正しく意味を汲み取ろうと、脳味噌をフル回転させて考える。だけどいくら考えても、まるで紅さんが俺の事を特別だと言ってくれているような気がしてしまう。そんなはずはない。己惚れちゃだめだ。そう思いたいのに、一方でドキドキと浮ついた気持ちが戻らない。
 そしてそんな俺を余所に、当の紅さんはと言えば、お得意の思わせぶりな態度を投げたら投げっぱなし。既に何事も無かったかのように段ボールの一つを探り当てていた。
「ぶっはっ! 何だよこれ俺若ェ~~~~~!! やっべ超かわいい~~~♡ 千年に一度の美少女じゃ~~~~ん♡ ほらほらユキもこっち来て見てみ! 俺ってば超絶可愛いぜ~~~♡」
 写真集を一冊取り出して無邪気にキャッキャする紅さん。なんていうか……人格何個あるんだろうこの人……。毎瞬雰囲気が変わるからたまについていけなくなる……。
 ただそれはそれとして、千年に一度の美少女は普通に見たい。俺はいそいそとそちらに歩み寄り、期待に胸を高鳴らせながら開かれたページを覗き込んだ。
 そして、すぐさま顔を覆って項垂れた。
「あれ? どしたの?」
「……いえ……ちょっと……尊すぎて……いきなり直視すると目が潰れちゃうかもしれないから……」
「あーーーーっはっはっはっは! そっかそっかぁ~♡ 喜んで頂けたようで何より~~~~♡」
 チラ見だけでも、彗星のごとく現れて人々の心を掻っ攫った神様たる所以を垣間見た気がした。しばらく心と眼球の準備を整えた後、改めて視線を落とす。
「ッ……可愛いッ……!!」
「な~♡ 可愛いよな~♡ ねぇねぇ聞いて聞いて、この美少女俺~~~♡」
「うん……!! はい……!!」
 紅さんはふざけ半分美少女と称しているが、正確には男でも女でもない美しい生き物という表現がぴったりだった。確か紅さんのデビュー時期は中学時代だったはずだが、野暮ったさが全くなく、雰囲気が大人びていて色気もあり、既にほぼトップアイドル一色紅として完成されている。とても今の俺と同世代……というよりむしろ年下ですらあるなんて信じられない。そしてその中に垣間見える年齢相応の幼さや未成熟さが、性別を曖昧なものに感じさせているのだろう。
 持って生まれた人って、やっぱり子供の頃から造りが違うんだな……。隅々まで写真を噛み締めながら、俺は静かに感動していた。
「紅さんって、やっぱり昔からアイドルになりたかったんですか?」
 これはさぞ周囲から持て囃されて育ったんだろうなぁ。そんな事を思いながら、何の気なしに質問する。
「いんや全く」
「えっ、そうなんですか!?」
 しかしサラリと返された答えは思いもよらぬものだった。紅さんの性格を考えるに、俺カッコイイー♡ アイドルになっちゃおー♡ みたいなノリかとばかり思っていた。
「じゃあよくある、知り合いが勝手に履歴書送っちゃった的な……?」
「あーね、それも違うな」
「えと……じゃあ何で芸能界に?」
「えっ……うーん……金のため?」
「お金のため!?」
 さらに予想の斜め上を行った返答に驚きを隠せない。ぺらぺらと写真集のページを捲りながら、何てことない風に紅さんが続けた。
「うんそう。俺ちょっと家庭環境特殊でさー、ガキの頃から自分で金稼がにゃならんかったのよな。そんで俺、自分の顔と体が売りモンになる事は理解してたからよぉ、だからまぁ、うよ……ウヨキョクセツ? あった結果、最終的に芸能界入った感じ~」
 今の紅さんの状況からはかけ離れた過去を語られて、自分から話題にしておきながら、俺はどう返事をすればいいのか分からなくなった。その家庭環境とやらの詳細を想像も出来ず、かといって掘り下げて聞くのも憚られる。かける言葉なんて見つかるはずもなく、結局ただ意味も無く下を向くしかなかった。
「……そう、だったんですね……」
「あっ! 今ちょっと同情したろ? そういうのマジで嫌いだからやめて下さーい」
 ぺしん。冗談めかした口調と共に、写真集で軽く後頭部を叩かれた。
「別に可哀想な話じゃねぇよ。結果俺は有史以来の天才だったワケだし、今は何も気にせず好きなモン食って好きなモン買って、人類にチヤホヤされながら楽しく呑気に暮らしてるし~♡」
 紅さんの調子はいつもと変わらず軽いものだったが、俺にとっては中々に衝撃的な事実だった。
 俺は紅さんの事を何も知らずに、テレビやネットで見る姿だけで、勝手なイメージを作り上げていた。生まれつき全てに恵まれていて、順風満帆で、何の苦もなくスターダムにのし上がった人だと思っていた。でもそこには有名だからこその心配事もあって、お金のために芸能界入りしたような過去もあった。目の前に居るこの人は、俺達と同じ次元に生きている人間なんだ。そんな当たり前すぎる事実が、この時初めて本当の意味で腑に落ちた気がした。
『ただの客寄せパンダが欲しいなら他当たれや』
 ふと唐突に、オーディションのあの時、紅さんが一瞬だけ放った怒りのエネルギーが思い起こされた。
 煌びやかに装飾されて、数えきれないくらいの期待を背負って、神様として祀り上げられ続けた紅さんは、もしかしたらその裏側で、俺達と同じように色んな想いを感じていて、悲しい事や苦しい事も飲み込みながら、それでも今日まで生きてきたのかもしれない。
 そう思うと何故だろう。胸がぎゅーっと切なくなって、目頭が熱くなった。神様とか推しとかそういうのじゃない。ただ一人の人間として、この人に何かしてあげたいと思った。
「あ、あの……」
 写真集を捲る紅さんの袖口を、控えめに引っ張る。俺から手を伸ばす事なんて初めてだからだろう。少しだけ目を丸くした表情が向けられた。
「家に上げてくれて……その……紅さんの事教えてくれて……嬉しいです。ありがとうございます……」
 こんなに近くで真正面から紅さんの顔を見ると、まだ恥ずかしくて逃げ出したくなるけれど、それでも頑張って目を合わせたまま精一杯の気持ちを伝えた。すると紅さんはしばらく目を瞬かせたまま固まって、それからむずむずと口元を動かして、斜め下を向いてちょっとだけ笑いを零してから、また俺と顔を突き合わせた。
「ありがと、ユキちゃん」
 こつんとおでこが触れ合う。俺の自惚れでなければ、紅さんはすごく嬉しそうな顔をしているように見えた。その表情に、今度は胸がきゅんと甘く締め付けられた。
(あ……どうしよう……俺、紅さんの事……)
 分不相応な想いである事は重々承知している。でも俺はこの瞬間、これからもこの人の傍に居て、もっとこの人を喜ばせたいと思ってしまったのだ。
『ユキはその人の事、好きなの?』
(好きになっちゃった、かも……)
 友人の問いが脳裏を過り、恋心をハッキリと自覚した。
 お互いの睫毛が触れ合う。視線が交わる。紅さんにされるのを待つんじゃない。この時初めて、どちらともなく、唇が重なった。
 くっつけては離し、角度を変えて、吐息を零して、俺がして貰うだけじゃなくて、紅さんにして貰った事を一生懸命真似しながら粘膜を触れ合わせる。いつもは紅さんの動きに翻弄されてばかりだけど、この時の紅さんは俺のペースを優先してくれて、たまにどうすればいいのか教えるように緩急をつけながら、でもやりたいようにやらせてくれた。
 唇が甘く痺れる。小さなリップ音と、鼻から漏れるくぐもった声に、心と体が熱を持っていく。
 事務所と違ってここは密室。俺達二人だけしか居ない。誰にも見られない。だからだろうか、徐々にタガが外れ始めた。鼓動を高鳴らせながら紅さんの手を絡め取って、いつもしてくれるみたいに指同士を組み合わせる。すると紅さんもぎゅっと握り返してくれて、とくん、とくん、と、指の股からかすかに鼓動が伝わってきた。少し高めの体温と、心臓が血液を送る動き。それが人間らしくて生っぽくて、俺の興奮はますます煽られた。
 紅さんにもっと触れたい。もっと深く繋がりたい。もっと沢山感じたい。もっと、もっと、もっと。
「さっき、俺……うそ、つきました、ぁ♡」
「ンー?」
 キスの合間に呼吸を喘がせながら、口火を切る。
「DVD……ん♡ 紅さん、かっこよかったのは、本当なんだけど……」
「うん」
「ほんとは、あれから……紅さん見てると……チューする事とか、エッチな事ばっかり、考えちゃってぇ……♡」
「うん」
「借りたの、みながら……ひ、一人で、シちゃったのぉ……♡ ごめんなさいぃ……♡」
「ふふっ……うん、いーよ♡」
 優しいお許しの言葉と共に、頭をヨシヨシ撫でられる。俺の後ろめたい欲を認めて貰えたのが嬉しくて、キスしながら甘やかされるのが幸せすぎて、もう涙ぐむくらいに気持ちが高ぶって堪らなくなってきて、俺はその先を強請るように紅さんの唇に舌を這わせた。割れ目を抉じ開けようと舐めていると、ややあって喉奥で笑いが噛み殺される。
「ん~♡ どうしたのユキちゃん、さっきからお口ぺろぺろ舐めてきて可愛いなぁ~♡」
 ちょっとだけ顔を遠ざけた紅さんに抱きすくめられ、肩口に顔を埋める形でキス出来なくなってしまう。煙草の匂いが遠ざかる代わりに、香水と紅さんの匂いが混ざったいい匂いが鼻腔に充満してクラクラした。
「紅さん♡ もっと、もっとちゃんと、ちゅーしたい……!♡」
「うんうん。だからい~っぱいキスしてんじゃん♡」
「ちがっ……♡ そういうのじゃなくて……! もっと、口の中も、全部ぅ……♡」
 子どもが駄々をこねるみたいに、ぐずぐずと顔を押し付ける。またも笑いをかみ殺す音がして、それから耳たぶにそっと温かさが重なった。それが唇だってすぐに分かって、全身が興奮に打ち震えた。
「え~? でもユキちゃんさぁ」
「ひぁッ♡ あっ♡」
「それってディープキスになっちまうけどぉ……」
「んッ♡ んんっ……!♡」
「ハジメテは好きな女の子にとっとかなくていいの~……?」
 耳に唇を押し付けられたまま、ぼそぼそと言葉を吹き込まれる。敏感な部分が柔らかい動きに擽られて、脳内に紅さんの声が反響して、背筋にさざ波のような快感が押し寄せる。
「い……いい、の♡ いいのぉ……♡ 紅さんがいい♡ 俺、紅さんとじゃなきゃ、やだぁ……!♡♡」
 与えられる刺激に翻弄されながら、自覚してしまった以上もう止まらない気持ちを溢れさせた。そしたら息苦しいくらい力強く紅さんに抱きしめられて、そっと顎を持ち上げられた。俺達を隠すみたいにして、顔の両脇に赤い髪が流れている。その中に紅さんの潤んだ瞳が宝石みたいに光ってる。薄暗くて、綺麗で、いい匂いで、まるでとびっきりの秘密の場所に閉じ込められているみたいだった。
「ユキちゃん、俺達、付き合おっか?」
「っ……へ……?」
 そしてその場所で、内緒話をされた。それこそ、そう、オーディションで合格を告げられたあの時。あの時以上に、非現実的な話だった。
 一つ、唇が落とされる。濡れた音と共に、紅さんの舌が這わされて、全身にびりびりと電気が走った。すぐに離れていこうとするそれを、体が慌てて追い求める。
「ね。まだ俺の事、そういう意味で、好きじゃないの?」
「そ、それ、はぁ……んん……♡」
 伸ばされた俺の舌に、湿った質量が重ねられる。ぬるぬるして、あったかくて、中心には硬質なピアスの感触。初めて味わう紅さんのベロは、煙草の味がするはずなのに、何故だろう、甘いと思った。
「ユキは、好きでもないヤツと、こ~んなエッチな事しちゃう子なの?」
「ん♡ んぁ……♡♡ ちが、ぅ……ちがい、まひゅう……♡」
 お互いに舌を突き出して、剥き出しの状態で絡め合う。へっ、へっ、口を開いているせいで、まるで犬みたいな呼吸音が自分から漏れているのが恥ずかしい。
「俺じゃないとヤダってさぁ……そんな事言われたら勘違いしちゃいますよ~……?」
「ん、ん♡ れ、もぉ……♡ ぁ、くれない、さんは……♡ っ……くれない、ひゃんはぁ……♡♡」
 あり得ない。それこそあり得ない。俺は確かに恋心を自覚したけど、だからってこんなに都合のいい事が起きるはずがない。そもそも紅さんが俺みたいな子供と付き合う理由が見当たらないもの。紅さんは多分、きっと、いや絶対、物凄くモテて、想像も出来ないような素敵なお相手が沢山居て、俺にはちょっかいかけて遊んでるだけで、こんなの真に受けたら、それこそバカみたいで……。
「俺はユキの事好きなんだけどなぁ……」
 だけどすぐさま紅さんの甘く湿った声が、自制心を打ち砕いてくる。背筋が粟立った後、腰骨が言う事を聞かなくなる感覚があり、滑稽な事にどうやら俺は座ったまま腰を抜かしてしまったらしい。
「初めから」
「ずーっと」
「抱きたい、って意味で」
 いよいよ唇が密着した。開いた口の隙間から、紅さんの舌が滑り込んでくる。すぐさま舌先を絡め取られ、滑らかな動きでにゅるんにゅるんと捏ね繰られる。口内がくすぐったい。熱い。じんじん痺れる。いきなりのエッチなキスに翻弄されて、俺はどう息をしていいのか分からなくなった。
「は、ふ♡ んんむッ……♡♡」
 さらに深く、角度を変えて貪られる。お互いの唾液がこぷりと口角から溢れ、顎まで伝い落ちた。ナメクジみたいに舌が絡み合う。粘着質な水音がいやらしい。酸欠で頭がクラクラする。苦しいはずなのに全身が粟立つくらい気持ち良いキスを、時間をかけてじっくりと与えられた。
「ん♡ んうぅ♡ ぷ、はあ♡ あはぁぁっ……♡♡」
 やっと唇を解放された頃にはもう骨抜きで、かくりと紅さんにしな垂れた。そんな俺の頬を、両手のひらが優しく包んで掬い上げる。
 そこで改めて見上げた紅さんの表情に、心臓が止まりそうになった。
「ねぇユキお願い。俺の彼女になって?」
 いつもの自信満々な顔じゃない。少し眉尻を下げて、目を潤ませて、愛おしそうに縋る表情。初めて見る顔だった。そんなのずるい。どう言い訳しようとしても本気に見えてしまう。例えそれが俺を誑かすための演技だとしても、心の底から、大好きだと思ってしまった。表面張力ぎりぎりでどうにか保っていた器が、決壊した。
 ああ……もういいや。
 この人に弄ばれる人生があるなら、それも本望だ。
「な、る……。なります……♡ くれないさんの、彼女に、して下さい……♡」
 観念して、紅さんの背中に手を回した。するとまたさっきみたいに強い力で抱きしめ返された。俺より大きい体にすっぽり包まれて、温かくて、安心して、少し苦しかったけど、その息苦しさすら、夢みたいで幸せだった。
 耳たぶを吐息が擽る。敏感になった体がぴくりと反応する。
「じゃあ……恋人同士でするエッチな事、ぜーんぶしよっか♡」
 先程とは打って変わって、妖しくて蠱惑的な声だった。
 どっちが本当の紅さんなんだろうと思った。でももう、どっちでも良かった。
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