風邪っぴき紅と甘えんぼ空君

ばりお

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「テメェは何でこんな事も出来ねぇんだ!? あァ!?」
 頬を平手でぶたれ、その場に倒れ込んだ空の髪が乱暴に掴み上げられる。まだ年端もいかぬ幼子を、男はずるずると隣の部屋へと連行した。
「いたい! おとうさんいたいっ!! ごめんなさいっ! ごめんなさい! いいこにしますからあっ!!」
「毎回口ばっかの出来損ないが何寝ぼけた事言ってんだ!? そういうのは金稼いでから言うセリフなんだよ!! ったく紅はあんなに使えるってのに、何でこんなごく潰しが生まれるかねぇ……」
 ひんやりと寒々しい部屋の中には、動物用のケージが一つ。それを見て嫌だ嫌だと懇願する空を、男は無理矢理中へと押し込み鍵をかけた。
「おとうさん!! おとうさんっ!! ごめんなさいっ!! ごめんなさいっ!! おねがいだから出してください!! おねがいしますっ!! おねがいっ! おねがいッ……!!」
 痛々しいまでの声色にも一切心動いた様子を見せず、髪を掻き回しながら怠そうに立ち上がる男。それから冷たく空を一瞥し、歪に口角を吊り上げた。
「死ぬ前には帰ってきてやるよ。死なれちゃさすがにコトだからな」
 
 兄の事をクズだの馬鹿だの言ってはいるが、自分達の父親はそんなものが可愛く思えるくらいの真性のクズだった。
 幼少期の栄養失調から来る発育不良が原因で、空はいまだに同年代の友人達より一回り体が小さい。父親にとって子供は守り育てるものではなく、自分の思い通りに使役させ、搾取するためのただの奴隷だった。
 少年少女に性欲を感じる大人は目に見える数よりずっと多い。公に出来ない性癖は表向きの市場に流通しない分、水面下で高値で取引される。空はまだ幼児といっていい年齢の頃から、金儲けのために性的な写真を撮られたり、父が連れて来た知らない大人に体を売る事を強要されていた。
 それが上手く出来なければ役立たずだと罵られ、父親の鬱憤が晴れるまでサンドバッグにされて、動物用のケージに閉じ込められ、ご飯もろくに貰えないまま放置される。児童養護施設の職員に一時的に保護される事はあっても、すぐに家に連れ戻されて、面倒をかけさせた分虐待はより苛烈になった。
 誰も助けてくれなかった。親以上に権利のある人間なんて居なかった。空がどんなにやつれても、体に傷跡があっても、父親が少し外面良く反省しているテイを見せればそれまでだ。他人は何も出来なくなってしまう。
 だから空は飢えと寒さに耐えながら、身動きの取れない檻の中で、父親の帰りをじっと待つのだ。帰ってくればまた自分を殴って罵って他人に売りつける、父親の帰りを。
 
 
 
「……ら……そら…………空っ!!」
「ッ!? ごめんなっ、さ……!?」
 鋭い声で名前を呼ばれ、反射的に謝罪の言葉が口をついて出た。
 バッと顔を上げる。心臓が早鐘を打っている。嫌な汗が全身に滲んでいるのを感じる。浅い呼吸のまま辺りを見回すと、そこはあの部屋ではなく、目の前にあるのは、心配そうな兄の顔だった。
「……どぉしたの、おまえ……すげぇウンウンいって……」
 ぜんぜん起きねぇから、ちょっとこわかった。熱のせいか舌ったらずな口調と共に、脂汗で張り付く髪を払われる。
 どうやら自分はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。それを理解した途端、安堵と同時につんと鼻の奥が痛む。涙が一気に込み上げてくる。
「……ぅ……う……あ、あ゛ぁぁ~~~~!! おにいちゃん!! おにいちゃん怖かった!! 怖かっだあ゛あ゛ぁあ゛~~~~ッッ!!」
「えっ……えぇ~……?」
 堰を切ったように大泣きする空に、紅は戸惑った様子だった。だがすぐに何かを察したらしい。嘆息し、布団を持ち上げ、ぽんぽんと隣のスペースを叩いた。
「ったくおまえさぁ……いつまで経ってもネンネだよな……はい、ドーゾ……」
「ぅ、う……ぐずっ……うぅっ……」
「さみーから早く入ってくんない……?」
 空はしばらく突っ伏したまま泣きじゃくっていたのだが、結局は促されるまま、ずびずびと鼻を鳴らしつつ布団に潜り込んだ。布団の中は紅の体温で熱いくらいに温まっていて、寝込んでいたせいだろうか、煙草の匂いも香水の匂いも、人工的な匂いはあまり感じなかった。
 横向きに寝ている紅と向かい合う形ですっぽりと納まると、背中と頭に腕が回ってくる。抱きかかえられるような体勢のまま、手のひらで優しくトントンと宥められる。
「よーしよし……だいじょうぶ、ダイジョーブ……怖かったなぁ。もう大丈夫だからな~……」
 とろとろとした声。緩慢な手の動き。熱で鈍っているそれらが今は逆に心地よくて、悪夢による緊張でがちがちに強張っていた全身の筋肉が、少しずつ柔らかく解れていく。
「あー……コドモ体温あったけぇ~……」
 実際の体温は病人の方が高いはずなのに、紅は呑気な感想と共に幸せそうな溜息を吐いていた。
 
 
 苛烈な幼少期を過ごし、丁度世の中の子供が小学校に上がるくらいの年だった。父親がぱったりと姿を消した。
 そして代わりに自分の保護者となったのが、この兄だ。
「ま、しんどかったよな。アイツの子供やってんのは」
 それまでほとんど会った事のなかった兄はそう言って、複雑そうに笑ったのを覚えている。
「大丈夫だ。もう怖い事は起こらねぇからよ」
 頭に手を伸ばされ、叩かれると思った空がびくりと身を強張らせたら、その手を肩に置いてよしよしと摩ってくれた。こちらを見つめる瞳の奥に、慈愛と、ほんの少しの悲しみのようなものを感じて、空の琴線を震わせた。気づけば泣いていた。父親の前で泣いたりしたら煩いと殴られて、空は満足に泣く事すら許されていなかった。だけど兄は壊れたように泣き叫ぶ空をただ抱きしめてくれた。怖かったな、ごめんな、もう大丈夫だと。
 親に捨てられた悲しみなど微塵も感じず、ただただ安堵した。今度こそ助かるかもしれない。この人なら、本当の意味で自分を助けてくれるかもしれないと思った。
 
 
「ごめんなさい……」
 一しきり泣いて落ち着きを取り戻した空が、紅の腕の中で小さく謝罪した。しばしの間の後頭上から苦笑が降ってきて、「何が」と、眠たそうな声がする。
「具合悪いのに、迷惑かけて……」
「あぁ……確かに、すっげー迷惑だわ……今しょーじき……けっこー朦朧としてんだけど……」
 兄の体調を考えるならあまり甘えるべきではないのだろうが、そう思いつつも、空はこの優しい空間からまだ抜け出したくなかった。身じろぎして紅に手を縋らせると、背中の腕に僅かに力が込められた。
「俺……早くちゃんと大人になりたい……」
 胸に額を押し付けながら、ぽつりと呟く。
「学費とか、生活費とか、兄貴に迷惑かけるのやめたい……」
「……はっ……お前さぁ……俺がいくら稼いでると思ってんの……。テメェ一人養うくらいはした金だよ、はした金……」
「なのにアイドルとしても、ぜんぜん結果出せないし……」
「……ま……俺みたいな天才でもねぇ限り、そういう時もあらぁな~……」
 普段はこんな子供みたいな駄々をこねる事はないのに。こんな風にならないように気をつけているのに。こんな時に限って何一つ揚げ足を取らない兄のせいで、今は自制が出来なかった。普段は心の底の方に押し込めている物が、ふつふつと顔を覗かせているのを感じた。
「……俺のせいで……俺が捨てられたせいで……兄貴はアイドル、やめなきゃならなくなった……」
 空がそう言った途端、空気が一瞬だけピリついた。空は知っている。父親が消えた時期と、兄の現役引退の時期がちょうど重なっている事を。そして、兄はこの話題を出される事が嫌いな事も。
「あのさぁ……ただでさえ具合わりー時に面倒な事言わないでくんない……? 何回も言ってんだろ。俺の意思だって。お前とは関係なく、俺が辞めたくて辞めたって……。ったく、メンドクセー女かよ……」
「……ごめんなさい……」
 自分自身のままならない心と、そのせいで兄を不快にさせてしまった事に関して再度謝ると、大きなため息が聞こえて来た。頭頂部に手のひらが乗せられ、その上から一発ぺしんと叩かれる。少し頭に振動が伝わっただけで、全然痛くはなかった。
「もう寝ろ。コドモはなーんも考えず大人に甘えときゃいいんだよ」
 普段だったら何も気にせず小突いているであろうに、わざわざ挟まれた手のひらがむずがゆい。もしかしたら優しくされたかったのかもしれない。面倒を言っても許してくれる事を、確認したかったのかもしれない。空はもじもじと唇を動かして、それから甘えるように額を擦り付けた。
 気を抜くと言動の端々につい優しさが滲んでしまう所。手のひらが大きくて温かい所。本当に辛い時にはおちょくる事なく手を差し伸べてくれる所。一番頼りになって、一番の味方で居てくれる所。
 空は兄のこういう所が大好きだ。そう、小さい頃からずっと、大好きだった。温かい布団の中で優しい兄の気配に浸っていると、まるで自分が小さな子供に戻って甘えているような気分になり、蘇った嫌な記憶が安心感で塗りつぶされていく。
「……テメェごときが、お兄ちゃんの人生左右出来ると思ってんじゃねぇぞ、ばーか……」
 微睡んでいく意識の片隅で、実に兄らしい呟きを聞いた。
 
「世界から一色紅を奪ったのは自分だ」という罪悪感は、心の片隅にずっとある。
 だがその一方で、もしかしたら兄は救われたのではないかという身勝手な自負もある。
 本当の所は何も分からない。肝心な部分を語らない兄の真意は空には読み取れない。
 ただせめて自分の存在が、兄にとって少しでも幸福であればと思う。
 
 
 *
 
 
 翌朝起きると、あれほど熱に浮かされていたはずの紅が、リビングでぐしょぐしょの髪を拭いていた。
「……何やってんの?」
「おう、おはよ」
「おはようじゃないよ! 熱は!?」
「ああ、まだちっとダルいけど、引いたみてぇ」
「嘘でしょ!?」
 ぴんぴんした様子の紅は、空の驚愕をよそに、なぁ乾かすの手伝って~。なんて言いながらドライヤーを二台持ってきた。無駄に長い髪は、乾かすにも無駄に時間がかかる。
「もう兄貴いい加減髪切りなよ……これ乾かすのに毎回どんだけ時間かけてんの?」
「は? こんなの乾かすワケねーじゃん。今は病み上がりだから頭濡らしとくのもどうかなって思って乾かしてるだけ」
「普段自然乾燥なの!?」
「つか大抵その時一緒に居るヤツが乾かしてくれる~。俺の髪乾かすの好きなヤツけっこー居んぜ。触ってるとペット撫でてるみてぇで気持ちーんだって♡」
 確かにとんでもなく無精をしている割に、指通りはしっとりとして気持ちが良かった。いつも思うのだが、兄は生まれつき素材に恵まれすぎている。
 その後紅は、黒いシャツに細身のスラックスを着て、アクセサリーを全て身につけ、すっかり他所行きの格好になった。
「……えええええ!? 今日普通に活動するつもりなの!?」
「当たり前だろセフレんち遊びに行くんだよ」
「しかも仕事じゃなくてセフレ!? ダメダメダメダメダメーーーーッ!! どうしても外せない仕事とかなら百歩譲って許そうかと思ったけど、ただ遊びに行くだけならせめて今日一日は大人しくしててっ!! 昨日の夜どんだけ熱出てたと思ってんの!?」
「何度あったの?」
「39度だよっ!!」
「マジかよウケる。今時子供でも中々そんな熱出さねーだろ」
「だからそんな熱出てたんだってば!! 今は薬が効いて楽になってるだけかもしれないし、とにかく今日は大人しく家に居てよ頼むからあっ!!」
 縋り付いてまで止めようとする空の様子に、紅の唇が悪戯臭く弧を描く。
「何だよ空~、そんなにお兄ちゃんと一緒に居たいわけ~?」
「はぁっ!? そんな事言ってないし!!」
「分かった分かった。空ってばお兄ちゃんっ子だもんな~。昨日もお兄ちゃんだいちゅき一緒に寝て~♡ って甘えてきたもんな~♡」
「いっ! 言ってない!! 言ってない言ってない言ってなッ……くしっ!!」
 ムキになって否定する空の声が、可愛らしいくしゃみで途切れた。そう言えばさっきから体が重い気がする。寝起きが少し悪いだけかと思っていたのだが、これはどうも……。
「ッくしゅ!!」
 再度のくしゃみの後非難がましく紅の様子を伺うと、何とも言えない半笑い顔でこちらを眺めていた。
「……何その顔」
「いや、くしゃみ超かわいい~と思って」
「ばかっ! ちょっとこれ移ったじゃん!!」
「え~? 俺が悪ィの~?」
 にやにやと問いかけられて空は言葉に詰まった。恐らく一番の原因、昨晩一緒の布団で寝た事に関しては、間違いなく自分に非があるからである。
 と、痛い所を突かれて大人しくなった空の体がひょいと持ち上げられた。驚く間もなく米俵のように肩に担がれ、問答無用で寝室へと運搬されていく。
「そっかそっかぁ~。俺のせいで空まで風邪ひいちゃまったかぁ~。じゃあ責任とって一緒に居てやんねぇとな~♡」
「ちょっと下ろして!! 下ろしてって!! 普通に歩けるっ!!」
「おっ生意気にちょっと重くなった~? でもまだ持てるなぁ余裕あんなぁ~。悔しかったらお兄ちゃんが抱っこ出来なくなるくらいデカくなって下さ~い♡」
「尻触んなスケベッ!!」
 病み上がりとは思えない程元気な兄は、すっかりいつも通りの調子に戻っていた。しかも運搬ついでに尻を撫で回して来やがって、もしかしたら昨晩のあれは空の夢だったのではないかと錯覚してしまう。
 ただ、それくらいがちょうど良かった。
 
 きっと自分は、成長して少し賢くなったように感じているだけで、その実兄から沢山守られて許されて尊重されているただの子どもだ。
 イラついて生意気を言う事も、劣等感を持って反抗する事も、それすらもやりたくてやらせて貰っている。
 アイドルとしても人間としても、自分はきっと兄には敵わない。その事に薄々勘付いてはいるものの、まだしばらくはじたばたと悩んでもがいていたい。そんな葛藤や甘えや自尊心もろもろをひっくるめて、兄は自分に「子どもらしい子ども」をやらせてくれている。
 そして大きな愛情を素面で分かりやすく注がれると、やっぱり反抗期の心がムカついてしまうから、これぐらいがちょうどいい。バカでスケベで好き勝手やっててくれるくらいの兄で、ちょうどいいのだ。
 
「じゃっ、今日は特別大サービス♡ お兄ちゃんが愛情たっぷりのスペシャルお粥作ってやっからな~♡」
「頼むからやめていつもの家政婦さんに連絡して……!」
 とはいえ自分の料理の腕くらい、もう少し謙虚さを持って欲しいものだとは思っている。
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