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最終章
3
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◇
夢を見ていた。
多分、最初は今までのいろんな記憶がごちゃごちゃに合わさった、雑然とした夢だった。ふと気づくと、倫人は夜の神社の境内で球技大会の時に襲ってきた奴らに追い詰められていた。
自分が着ているのは浴衣でもジャージでもなく白いシャツの制服で、何故かびしょびしょに濡れている。何故濡れているのだろうと思ったら急に豪雨になった。
強く打ち付ける風と雨にも構わず、にやにやと笑いながら奴らが近づいてくる。そのとき正面に見える石段を駆け上がって拓海と凌が走ってきた。後ろから章吾も駆けつけてくる。倫人を必死に助けようとしてくれる拓海は後ろを振り返って、いつの間にか境内の入り口に立っていた嵐を呼んだ。星条の制服を着た彼は雨に濡れながらぼんやり立っている。
「嵐!」
倫人も嵐を呼んだが、激しい雨で多分その声は彼に聞こえていない。
嵐が境内の中に視線を動かして、追い詰められた倫人を見つけた。
その黒い瞳には、何の感情も映っていなかった。
彼は立ちすくむ倫人をしげしげと観察して、訝しむような顔をする。
「嵐……?」
愕然として目を見開いた倫人を見て、不思議そうに首を捻った嵐が「拓海、行くぞ」と言って石段の方へ身を翻した。
「嵐! 待って!」
大声で叫んだが、嵐は倫人に背中を向けて行ってしまう。豪雨の中を必死に追いかけようとしたが、その後ろ姿はどんどん離れていく。
駆け出そうとした倫人は手を伸ばしてきた男達に捕まって、必死で抗って、嵐の名前を何度も呼んだとき、
──目が覚めた。
「っ」
ハッとして目を開けたら、真っ暗だった。
周りを見回すが、明かりのない暗闇の中で一瞬パニックになる。
「嵐?」
──嵐はどこ。
寝ているベッドの周りに視線を巡らせるが姿が見えない。
心臓がバクバクと音を立てた。
「嵐、どこ」
慌てて起き上がってベッドの横に引かれていたカーテンに手を伸ばした。焦って勢いよくカーテンを開けたら、ふらついた身体を片腕で支えきれずにベッドの下に転がり落ちた。
ドサッと肩から床に落ちて鈍い痛みが走ったが、倫人は激しく鼓動を打つ心臓に急かされるように部屋の中を見回した。
嵐はいない。
しん、と静まり返った暗い部屋の中に、冷蔵庫の振動音だけが響いている。ソファの上を見ても、畳んだ毛布が置いてあるだけで嵐はいない。
──どこ?
嵐の姿が見えないことでさらにパニックになった。
床に座り込んだまま意味もなく周りを見回す。
寝る前までは確かにいたのに。
そう思っていたら、まだ夢から覚めきらない頭が本当に?と問いかけてきた。
本当にここに嵐がいたの?
それは確かに現実のことなんだろうか?
頭の中で、脈絡もなく誰かの声が繰り返し問いかけてくる。
もしかしたら、自分は思い違いをしているんじゃないのか?
「思い違い……?」
そうだよ。と今度は千空の声が頭の奥底から響いてきた。
今までのことは、全部君が見た都合のいい夢だったんじゃないの?
「夢……?」
呆然として、倫人は掠れた声を漏らした。
千空の楽しそうな笑い声が耳の奥にこだまする。
白鶯様が助けてくれたって本当に思ってるの?
君が勝手に幸せな夢を見ていただけだよ。
くすくすと嘲笑うような千空の声が頭の中に響き渡った。
君はあのまま僕達に暴行されて、一人で入院しているだけなのに。
「っ……」
動揺で頭が真っ白になった。
「そんな、そんなはずない。嵐は……」
震える声を出して床を見つめた。
リノリウムの床は冷たい。座り込んだ足と腰がどんどん冷えてくる。
「嵐は、思い出したんだから」
本当に?
自分の声に、頭の中からすぐに千空の意地悪な問いが被さる。
ならどうしていないの?
「嵐は……」
急に目の奥が熱くなって涙が溢れた。
怖い夢から覚めただけだと自分に言い聞かせるのに、どんどん大きくなっていく不安が平静を保とうとする精神を飲み込み始めた。
「嵐、どこ? あらし……」
嵐が見つからないから、どんどん不安になってしまう。ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
また倫人を忘れて自分の部屋に帰ってしまっていたら、どうしよう。
身体が動かない。
嵐を探しに行きたいのに、嵐がいないから、探しに行けない。
そう矛盾したことを本気で考えて悲しくなった。
千空の笑い声が、ずっと頭の中から離れずに反響している。
涙を拭うこともできずに床に座り込んだまましゃくり上げて泣いていたら、不意に扉が開いて廊下から光が射し込み、部屋着の嵐が現れた。
「みさき?!」
床に座り込んで泣いている倫人に気づいてぎょっとした嵐は持っていたものを放り出して駆け寄ってくる。
「どうした、落ちたのか」
すぐに倫人を抱き上げてベッドの上に戻した嵐は、倫人の顔を覗き込んできて心配そうな声で聞いてくれた。
みさきと呼んでくれた。忘れていない。
今までのことは夢じゃない。
ほっとしたらまた涙が溢れた。
「どこか痛いのか」
「ひっく……あらしが」
泣きながら、ようやく動くようになった腕で涙を拭った。震える呼吸がなかなか治まらず、つっかえながら絞り出すように声を出した。
「嵐が、いなかったから」
それを聞いて嵐は目を見開いて、倫人の顔を覗き込んだまま眉尻を下げた。
「悪かった。みさきが寝てたから、今のうちにと思ってシャワーを浴びてきたんだ」
倫人を落ち着かせるように優しく頭を撫でてくれる手のひらの暖かさを感じて、攣った呼吸が治ってくる。安心したら肩から力が抜けた。
「嵐がいないから、怖かった」
自分勝手な言い分だと思ったが、思わずそう責めるような声を漏らした。涙を拭いながら俯いたら、短く息を詰めた嵐に引き寄せられてぎゅっと抱きしめられた。
「ごめんな。大丈夫だ。もう一人にしないから」
「うん……」
背中に回った腕に強く抱き締められる。目の前に押し当てられた嵐の胸からは、石鹸の匂いがした。
自分からも腕を伸ばして嵐の背中の服を控えめに掴んでみると、抱き締められながら頭の後ろを優しく撫でてくれた。
しばらくそのまま抱きついて、嵐の心臓の音を聞いていたら冷静さが戻ってくる。
もう千空の声も聞こえなくなっていた。
「ごめん……なんか怖い夢見て、焦ったみたい」
「ん。まだ力を使った影響が残ってるんだろ。無理すんな」
柔らかな口調で答えて、倫人の背中を安心させるように撫でた嵐がほっとしたように息を吐く。
「身体が苦しいのかと思った。どこも痛くないんだな」
「うん。でもベッドから落ちて肩打った」
ぐすっと鼻を啜りながら言うと、嵐は手当をする必要があると思ったのかベッドの上のライトをつけた。ベッドの周りが仄かに明るくなり、嵐の顔をはっきりと認識できるようになる。確かに彼の髪の毛は少し湿っていた。
倫人のTシャツの肩をまくり、打ちつけた患部を見て僅かに顔を顰めた嵐が一度ベッドから離れて棚から湿布を探してきてくれた。ついでにティッシュを持ってくると倫人に差し出してくれたのでありがたくもらって涙を拭いて鼻をかんだ。
「倫人、お前部屋戻って大丈夫か?もう少しここに泊まらせてもらうか。俺も一緒にいるし」
湿布を肩に貼りながら嵐が心配したような声を出した。少し考えて、倫人は首を横に振る。
「大丈夫。さっきは偶々、ちょっと怖い夢を見て混乱しただけ。大志さんも自分の部屋の方がリラックスできると思うから帰っていいって言ってくれたし」
この救護室は寮から遠い。
倫人の荷物を持ってきてくれる凌にも悪いし、嵐も寮の部屋とここを行ったり来たりするのは大変だろう。今日は文化祭の振替休日で偶々休みだったが、明日からは授業もあるから嵐は日中ここにはいられない。それなら自分の部屋にいた方が気持ちが休まる。
そう思って答えたら、嵐は少し考えるような顔をして「わかった」と短く言った。
次の日、夜中に起きてしまったから少し遅い時間に起きた倫人は、ソファに座って大志と話している嵐の声で目を覚ました。
もぞもぞと身体を起こし、カーテンは引いていなかったので、横を向くと二人の姿がすぐに確認できた。
「はよ」
「おはよ……ごめん、寝過ぎた?」
「鈴宮くん、おはよう。気分はどう?」
前日と同じようにテキパキと倫人のバイタルを確認した大志は納得したように頷いた。
「数値ももう大丈夫だね。念のため、一日に二回は診察することにしよう。鈴宮くん、寮の部屋に戻る? 私はここにいてくれても構わないし、君の希望に合わせるよ」
「あ、はい。大丈夫です。帰ります。大志さん、ありがとうございました。お世話になりました」
ぺこりと頭を下げてお礼を言うと、大志は微笑んで頷いた。
「元気になって本当によかったよ。少なくとも二週間は極力力を使わないように、集団授業は控えてね。鈴宮くんの中にはまだ吸い取った感情の澱が残っているから、無理をするとまた引きずられるよ。よくよく注意して」
「はい」
神妙な顔で頷いたら、大志は表情を緩めて「また夕方ね」と言った。
先に荷物をまとめてくれていたのか、黒いパーカーを着た嵐が大きめのスポーツ用のダッフルバッグを肩に担いでベッドの方へ近寄ってくる。
「じゃあ行くか」
と軽い口調で言われ、ひょいと抱え上げられた。
「えっ」
横抱きにされて狼狽えると、嵐は「捕まってろよ」と倫人の動揺を気にする様子もなく歩き始める。
「えっ……え?」
寝起きで頭がしゃきっとしていないのは確かだが、状況がおかしすぎてフリーズしてしまった。
──なぜ、抱っこ?
堂々と救護室から出て管理棟の玄関に向かっていく嵐の横顔を見たら、自分の方が変なんじゃないかと一瞬思ったが、玄関の守衛に生暖かい目で見られたので我に返った。
「嵐、俺歩けるから」
「いいから運ばれてろ」
確かに三日前は防災倉庫から救護室まで嵐が運んでくれたが、あの時は途中から意識がなかったし倫人も体が動かなかったから仕方がない。
でも今は、倫人は歩こうと思えば自分で歩けるのに、このままでいいのだろうか。冷静に考えたら倫人は嵐よりは身体も薄いし小柄ではあるが、それでも倫人を抱えてずっと歩くのは大変だと思う。
「いや、あの、重いし疲れるよ」
「そう思うなら俺の腕が疲れないようにちゃんと掴まってろ」
「ええ……」
聞く耳を持たない様子に呆気に取られながら、嵐は倫人がまだ本調子じゃないと思っているのか下ろす様子が全く見られないので、思い切って腕を嵐の首に回した。倫人が自分でしがみついたから体勢が安定したのか、背中に回っていた腕が少し下がり、腰と膝裏を支えてくれる。
嵐の顔が近くにあるのを意識すると動揺してしまうので、身体を軽く捻って顔を嵐の肩に伏せた。
そのうちこれはこれで抱きついているみたいな体勢だな、と気づいて結局心臓が煩く跳ねたが、くっつけるのは嬉しいから大人しく運んでもらった。
幸いなことに、授業が始まっている時間だからか、寮につくまでの間生徒には誰にも会わなかった。
嵐が倫人のパスケースを持っていて、部屋の前までついたらごく自然にカードキーで扉を開けた。
嵐に抱えられたままリビングに入ると、制服姿の凌が待っていた。授業は?と思ったが、それよりも凌が遠征に行くときのような大きなスポーツバッグを背負っているのが気になった。
「来たか」
そう言って凌は手を出してくる。
嵐が倫人をソファの上に下ろし、ズボンのポケットからカードケースを取り出して凌に投げた。
「部屋のものは適当に使え」
「おう。最上階の一人部屋、堪能するわ。拓海と章吾呼んであつもりでもやるか」
「時代を考えろ。せめてフォートナイトかマリカーにしとけ」
ぽかんとしている倫人の前で二人は軽く打ち合わせるようなやり取りをしてから、凌は倫人に頑張れよ、と軽く手を上げてあっさりと部屋から出て行った。
「ちょ……え?」
ソファに座ってきょとんとしていた倫人は、リビングの扉が閉まったのを見て嵐を見上げた。
ドサリと床に荷物を置いて、ぐるぐると腕を回していた嵐は倫人の視線に気づくとふ、と笑った。
「しばらくの間凌と部屋を交換した。まだ一人にするのは心配だから」
「……ほんとに? でも……」
目を見開いて瞬きしながら、それだと今度は嵐の気が休まらなくて大変なのでは?と、喜ぶのを躊躇してしまう。
躊躇っている倫人に嵐が「そんな目をしてもダメだ」といつか聞いた覚えのあるようなセリフを返してきた。
「とりあえず、朝飯食うか」
と言いながらキッチンの方に歩いていく嵐を慌てて呼び止めた。
「ちょっと待って。嵐、授業は?」
急な展開に混乱しつつも、嵐が部屋着から着替える様子も急ぐ様子もまるでないのが疑問だった。
とっくに授業は始まっている時間なのに、呑気に朝ごはんなんて食べていていいんだろうか。
そう思ってソファから振り返ってキッチンを見ると、嵐は棚を漁ってインスタントコーヒーが入った瓶を取り出しながら「自主休校」と答えた。
「え?! それ大丈夫?」
生徒会長がそんなことしていいんだろうか。
目を丸くしてカウンターごしにコーヒーを淹れようとしている嵐を見つめた。お湯を沸かしながら冷凍庫の中にクロワッサンを見つけた嵐が、真新しいトースターの中にそれを放り込んで倫人を振り返る。
「俺は二年もお前に会えなかったんだぞ。それを思えば自分の感情を優先して二週間くらい休んだって許される」
そう答える声音は軽かったが、倫人を見つめる目は少し切なげだったので、倫人は遠慮の言葉を飲み込んで自然にこくんと頷いた。
それを言うなら自分だって嵐ともっと一緒にいたい。正直に言うとまだ離れるのは不安だから、嵐が部屋にいてくれるなら嬉しかった。
夢を見ていた。
多分、最初は今までのいろんな記憶がごちゃごちゃに合わさった、雑然とした夢だった。ふと気づくと、倫人は夜の神社の境内で球技大会の時に襲ってきた奴らに追い詰められていた。
自分が着ているのは浴衣でもジャージでもなく白いシャツの制服で、何故かびしょびしょに濡れている。何故濡れているのだろうと思ったら急に豪雨になった。
強く打ち付ける風と雨にも構わず、にやにやと笑いながら奴らが近づいてくる。そのとき正面に見える石段を駆け上がって拓海と凌が走ってきた。後ろから章吾も駆けつけてくる。倫人を必死に助けようとしてくれる拓海は後ろを振り返って、いつの間にか境内の入り口に立っていた嵐を呼んだ。星条の制服を着た彼は雨に濡れながらぼんやり立っている。
「嵐!」
倫人も嵐を呼んだが、激しい雨で多分その声は彼に聞こえていない。
嵐が境内の中に視線を動かして、追い詰められた倫人を見つけた。
その黒い瞳には、何の感情も映っていなかった。
彼は立ちすくむ倫人をしげしげと観察して、訝しむような顔をする。
「嵐……?」
愕然として目を見開いた倫人を見て、不思議そうに首を捻った嵐が「拓海、行くぞ」と言って石段の方へ身を翻した。
「嵐! 待って!」
大声で叫んだが、嵐は倫人に背中を向けて行ってしまう。豪雨の中を必死に追いかけようとしたが、その後ろ姿はどんどん離れていく。
駆け出そうとした倫人は手を伸ばしてきた男達に捕まって、必死で抗って、嵐の名前を何度も呼んだとき、
──目が覚めた。
「っ」
ハッとして目を開けたら、真っ暗だった。
周りを見回すが、明かりのない暗闇の中で一瞬パニックになる。
「嵐?」
──嵐はどこ。
寝ているベッドの周りに視線を巡らせるが姿が見えない。
心臓がバクバクと音を立てた。
「嵐、どこ」
慌てて起き上がってベッドの横に引かれていたカーテンに手を伸ばした。焦って勢いよくカーテンを開けたら、ふらついた身体を片腕で支えきれずにベッドの下に転がり落ちた。
ドサッと肩から床に落ちて鈍い痛みが走ったが、倫人は激しく鼓動を打つ心臓に急かされるように部屋の中を見回した。
嵐はいない。
しん、と静まり返った暗い部屋の中に、冷蔵庫の振動音だけが響いている。ソファの上を見ても、畳んだ毛布が置いてあるだけで嵐はいない。
──どこ?
嵐の姿が見えないことでさらにパニックになった。
床に座り込んだまま意味もなく周りを見回す。
寝る前までは確かにいたのに。
そう思っていたら、まだ夢から覚めきらない頭が本当に?と問いかけてきた。
本当にここに嵐がいたの?
それは確かに現実のことなんだろうか?
頭の中で、脈絡もなく誰かの声が繰り返し問いかけてくる。
もしかしたら、自分は思い違いをしているんじゃないのか?
「思い違い……?」
そうだよ。と今度は千空の声が頭の奥底から響いてきた。
今までのことは、全部君が見た都合のいい夢だったんじゃないの?
「夢……?」
呆然として、倫人は掠れた声を漏らした。
千空の楽しそうな笑い声が耳の奥にこだまする。
白鶯様が助けてくれたって本当に思ってるの?
君が勝手に幸せな夢を見ていただけだよ。
くすくすと嘲笑うような千空の声が頭の中に響き渡った。
君はあのまま僕達に暴行されて、一人で入院しているだけなのに。
「っ……」
動揺で頭が真っ白になった。
「そんな、そんなはずない。嵐は……」
震える声を出して床を見つめた。
リノリウムの床は冷たい。座り込んだ足と腰がどんどん冷えてくる。
「嵐は、思い出したんだから」
本当に?
自分の声に、頭の中からすぐに千空の意地悪な問いが被さる。
ならどうしていないの?
「嵐は……」
急に目の奥が熱くなって涙が溢れた。
怖い夢から覚めただけだと自分に言い聞かせるのに、どんどん大きくなっていく不安が平静を保とうとする精神を飲み込み始めた。
「嵐、どこ? あらし……」
嵐が見つからないから、どんどん不安になってしまう。ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
また倫人を忘れて自分の部屋に帰ってしまっていたら、どうしよう。
身体が動かない。
嵐を探しに行きたいのに、嵐がいないから、探しに行けない。
そう矛盾したことを本気で考えて悲しくなった。
千空の笑い声が、ずっと頭の中から離れずに反響している。
涙を拭うこともできずに床に座り込んだまましゃくり上げて泣いていたら、不意に扉が開いて廊下から光が射し込み、部屋着の嵐が現れた。
「みさき?!」
床に座り込んで泣いている倫人に気づいてぎょっとした嵐は持っていたものを放り出して駆け寄ってくる。
「どうした、落ちたのか」
すぐに倫人を抱き上げてベッドの上に戻した嵐は、倫人の顔を覗き込んできて心配そうな声で聞いてくれた。
みさきと呼んでくれた。忘れていない。
今までのことは夢じゃない。
ほっとしたらまた涙が溢れた。
「どこか痛いのか」
「ひっく……あらしが」
泣きながら、ようやく動くようになった腕で涙を拭った。震える呼吸がなかなか治まらず、つっかえながら絞り出すように声を出した。
「嵐が、いなかったから」
それを聞いて嵐は目を見開いて、倫人の顔を覗き込んだまま眉尻を下げた。
「悪かった。みさきが寝てたから、今のうちにと思ってシャワーを浴びてきたんだ」
倫人を落ち着かせるように優しく頭を撫でてくれる手のひらの暖かさを感じて、攣った呼吸が治ってくる。安心したら肩から力が抜けた。
「嵐がいないから、怖かった」
自分勝手な言い分だと思ったが、思わずそう責めるような声を漏らした。涙を拭いながら俯いたら、短く息を詰めた嵐に引き寄せられてぎゅっと抱きしめられた。
「ごめんな。大丈夫だ。もう一人にしないから」
「うん……」
背中に回った腕に強く抱き締められる。目の前に押し当てられた嵐の胸からは、石鹸の匂いがした。
自分からも腕を伸ばして嵐の背中の服を控えめに掴んでみると、抱き締められながら頭の後ろを優しく撫でてくれた。
しばらくそのまま抱きついて、嵐の心臓の音を聞いていたら冷静さが戻ってくる。
もう千空の声も聞こえなくなっていた。
「ごめん……なんか怖い夢見て、焦ったみたい」
「ん。まだ力を使った影響が残ってるんだろ。無理すんな」
柔らかな口調で答えて、倫人の背中を安心させるように撫でた嵐がほっとしたように息を吐く。
「身体が苦しいのかと思った。どこも痛くないんだな」
「うん。でもベッドから落ちて肩打った」
ぐすっと鼻を啜りながら言うと、嵐は手当をする必要があると思ったのかベッドの上のライトをつけた。ベッドの周りが仄かに明るくなり、嵐の顔をはっきりと認識できるようになる。確かに彼の髪の毛は少し湿っていた。
倫人のTシャツの肩をまくり、打ちつけた患部を見て僅かに顔を顰めた嵐が一度ベッドから離れて棚から湿布を探してきてくれた。ついでにティッシュを持ってくると倫人に差し出してくれたのでありがたくもらって涙を拭いて鼻をかんだ。
「倫人、お前部屋戻って大丈夫か?もう少しここに泊まらせてもらうか。俺も一緒にいるし」
湿布を肩に貼りながら嵐が心配したような声を出した。少し考えて、倫人は首を横に振る。
「大丈夫。さっきは偶々、ちょっと怖い夢を見て混乱しただけ。大志さんも自分の部屋の方がリラックスできると思うから帰っていいって言ってくれたし」
この救護室は寮から遠い。
倫人の荷物を持ってきてくれる凌にも悪いし、嵐も寮の部屋とここを行ったり来たりするのは大変だろう。今日は文化祭の振替休日で偶々休みだったが、明日からは授業もあるから嵐は日中ここにはいられない。それなら自分の部屋にいた方が気持ちが休まる。
そう思って答えたら、嵐は少し考えるような顔をして「わかった」と短く言った。
次の日、夜中に起きてしまったから少し遅い時間に起きた倫人は、ソファに座って大志と話している嵐の声で目を覚ました。
もぞもぞと身体を起こし、カーテンは引いていなかったので、横を向くと二人の姿がすぐに確認できた。
「はよ」
「おはよ……ごめん、寝過ぎた?」
「鈴宮くん、おはよう。気分はどう?」
前日と同じようにテキパキと倫人のバイタルを確認した大志は納得したように頷いた。
「数値ももう大丈夫だね。念のため、一日に二回は診察することにしよう。鈴宮くん、寮の部屋に戻る? 私はここにいてくれても構わないし、君の希望に合わせるよ」
「あ、はい。大丈夫です。帰ります。大志さん、ありがとうございました。お世話になりました」
ぺこりと頭を下げてお礼を言うと、大志は微笑んで頷いた。
「元気になって本当によかったよ。少なくとも二週間は極力力を使わないように、集団授業は控えてね。鈴宮くんの中にはまだ吸い取った感情の澱が残っているから、無理をするとまた引きずられるよ。よくよく注意して」
「はい」
神妙な顔で頷いたら、大志は表情を緩めて「また夕方ね」と言った。
先に荷物をまとめてくれていたのか、黒いパーカーを着た嵐が大きめのスポーツ用のダッフルバッグを肩に担いでベッドの方へ近寄ってくる。
「じゃあ行くか」
と軽い口調で言われ、ひょいと抱え上げられた。
「えっ」
横抱きにされて狼狽えると、嵐は「捕まってろよ」と倫人の動揺を気にする様子もなく歩き始める。
「えっ……え?」
寝起きで頭がしゃきっとしていないのは確かだが、状況がおかしすぎてフリーズしてしまった。
──なぜ、抱っこ?
堂々と救護室から出て管理棟の玄関に向かっていく嵐の横顔を見たら、自分の方が変なんじゃないかと一瞬思ったが、玄関の守衛に生暖かい目で見られたので我に返った。
「嵐、俺歩けるから」
「いいから運ばれてろ」
確かに三日前は防災倉庫から救護室まで嵐が運んでくれたが、あの時は途中から意識がなかったし倫人も体が動かなかったから仕方がない。
でも今は、倫人は歩こうと思えば自分で歩けるのに、このままでいいのだろうか。冷静に考えたら倫人は嵐よりは身体も薄いし小柄ではあるが、それでも倫人を抱えてずっと歩くのは大変だと思う。
「いや、あの、重いし疲れるよ」
「そう思うなら俺の腕が疲れないようにちゃんと掴まってろ」
「ええ……」
聞く耳を持たない様子に呆気に取られながら、嵐は倫人がまだ本調子じゃないと思っているのか下ろす様子が全く見られないので、思い切って腕を嵐の首に回した。倫人が自分でしがみついたから体勢が安定したのか、背中に回っていた腕が少し下がり、腰と膝裏を支えてくれる。
嵐の顔が近くにあるのを意識すると動揺してしまうので、身体を軽く捻って顔を嵐の肩に伏せた。
そのうちこれはこれで抱きついているみたいな体勢だな、と気づいて結局心臓が煩く跳ねたが、くっつけるのは嬉しいから大人しく運んでもらった。
幸いなことに、授業が始まっている時間だからか、寮につくまでの間生徒には誰にも会わなかった。
嵐が倫人のパスケースを持っていて、部屋の前までついたらごく自然にカードキーで扉を開けた。
嵐に抱えられたままリビングに入ると、制服姿の凌が待っていた。授業は?と思ったが、それよりも凌が遠征に行くときのような大きなスポーツバッグを背負っているのが気になった。
「来たか」
そう言って凌は手を出してくる。
嵐が倫人をソファの上に下ろし、ズボンのポケットからカードケースを取り出して凌に投げた。
「部屋のものは適当に使え」
「おう。最上階の一人部屋、堪能するわ。拓海と章吾呼んであつもりでもやるか」
「時代を考えろ。せめてフォートナイトかマリカーにしとけ」
ぽかんとしている倫人の前で二人は軽く打ち合わせるようなやり取りをしてから、凌は倫人に頑張れよ、と軽く手を上げてあっさりと部屋から出て行った。
「ちょ……え?」
ソファに座ってきょとんとしていた倫人は、リビングの扉が閉まったのを見て嵐を見上げた。
ドサリと床に荷物を置いて、ぐるぐると腕を回していた嵐は倫人の視線に気づくとふ、と笑った。
「しばらくの間凌と部屋を交換した。まだ一人にするのは心配だから」
「……ほんとに? でも……」
目を見開いて瞬きしながら、それだと今度は嵐の気が休まらなくて大変なのでは?と、喜ぶのを躊躇してしまう。
躊躇っている倫人に嵐が「そんな目をしてもダメだ」といつか聞いた覚えのあるようなセリフを返してきた。
「とりあえず、朝飯食うか」
と言いながらキッチンの方に歩いていく嵐を慌てて呼び止めた。
「ちょっと待って。嵐、授業は?」
急な展開に混乱しつつも、嵐が部屋着から着替える様子も急ぐ様子もまるでないのが疑問だった。
とっくに授業は始まっている時間なのに、呑気に朝ごはんなんて食べていていいんだろうか。
そう思ってソファから振り返ってキッチンを見ると、嵐は棚を漁ってインスタントコーヒーが入った瓶を取り出しながら「自主休校」と答えた。
「え?! それ大丈夫?」
生徒会長がそんなことしていいんだろうか。
目を丸くしてカウンターごしにコーヒーを淹れようとしている嵐を見つめた。お湯を沸かしながら冷凍庫の中にクロワッサンを見つけた嵐が、真新しいトースターの中にそれを放り込んで倫人を振り返る。
「俺は二年もお前に会えなかったんだぞ。それを思えば自分の感情を優先して二週間くらい休んだって許される」
そう答える声音は軽かったが、倫人を見つめる目は少し切なげだったので、倫人は遠慮の言葉を飲み込んで自然にこくんと頷いた。
それを言うなら自分だって嵐ともっと一緒にいたい。正直に言うとまだ離れるのは不安だから、嵐が部屋にいてくれるなら嬉しかった。
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【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
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