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第四十五話 田管対五十万
「敵軍は十万か」
報告を受けた呉同が、指揮官用の馬車の中で呟いた。
呉同の率いる魯軍は、南下して巍水の北側に到着した。敵の国都を狙うには、まずこの川を渡る必要がある。
五十万の軍を、呉同一人で直接指揮しているわけではない。実際には軍を分け、複数人の副将にそれぞれ率いさせている。だが、それらの連携はあまり上手く行っていないようで、北岸に到達して軍を停止する頃合いはばらばらであった。明らかに、足並みは揃っていない。
それでも、蔡軍との戦いで多少損耗したとはいえ、まだ四十数万の兵力を擁している。十万の兵なんぞに、負けるはずはない。そう固く信じている呉同は、一斉に渡河を開始した。
「来たな、呉同め」
五十万近い大軍勢による渡河である。横に大きく広がった兵が、まるで大蛇の体のように東西に連なっている。それらが、じわりじわりと南岸へと近づいてくる。兵の多さよりも、寧ろよくぞここまで軍船を用意したものだと田管は感心した。
「よし、攻撃開始!」
その大軍勢が川の中程にまで近づいた時機を見計らって、田管は攻撃を指示した。太鼓がけたたましく打ち鳴らされ、それによって前線へと攻撃指令が送られる。投石機による攻撃と、弓弩の兵による矢の斉射が始まった。
渡河中の軍というのは、最も無防備である。魯軍の兵士たちは、水上にあっては満足に身動きが取れず、頭上から降る岩石や矢弾を避ける術がない。運悪くそれらの直撃を受けた兵士がそのままひっくり返って倒れるのを見て、その近くの兵たちは恐怖と安堵の心情を同時に抱いた。
敵の足並みは揃っておらず、横に広がった敵軍は、突出した部分や逆に出遅れた部分などで凸凹であった。田管軍は、なるべく敵軍の突出した部分を狙って、その頭上に集中して射撃を加えた。
「よし、いい感じだ。全軍退却!」
敵が上陸するよりも前に、田管は退却の指示を出した。退却の合図を意味する銅鑼が打ち鳴らされ、兵士たちは背後の道へと撤退を始めた。渡河中を狙った攻撃で敵を削ったとはいえ、まだ彼我の兵力差は歴然としたものがある。今は決戦を仕掛ける時ではないのだ。
田管軍は逃げに逃げ続けた。当然、これを無視することのできない魯軍は追撃を始める。そうして、田管軍は細い道の続く険阻な地に入り、そこをひたすら突き進んだ。魯軍もこれを追いかけ、隊列を細長く引き伸ばしながら追いかけてゆく。
その時であった。草木のがさがさと揺れる音と共に、道の両側の山に埋伏していた蔡軍の兵士が、魯軍の左右に突如出現したのだ。それらは弓弩を構え、鏃の先を魯軍へ向けている。
「しまった、伏兵か!」
魯軍の頭上に、黒い雨が降り注いだ。田管は、最初からこの地へ誘い込むつもりで軍を撤退させていたのである。大軍が細い谷道に入れば、当然隊列は長く伸び、側面の防御力は低くなる。そこを伏兵によって攻撃する算段であった。
蔡軍が降らせたのは、矢弾のみではない。岩石、丸太なども斜面の上から落とされ、魯軍に襲い掛かった。矢などよりも、寧ろこちらの方が確実に魯軍を苦しめた。岩石、丸太と、前列の兵士の死体で、進軍の足は大いに鈍らされた。
「ええい、小癪な……」
呉同は苦虫を噛み潰したような顔で、前線から続々と届けられる伝令を聞いていた。
ようやく魯軍が谷道を抜ける頃には、その軍は三十万程に減っていた。実に二十万近くの兵が命を落とした計算になる。蔡軍が矢弾を撃ち尽くして撤退を余儀なくされるまで攻撃を加え続けたのであるから、その死者数も当然であった。それでも、目下の敵は十万程の数であり、決戦を挑めば十分に勝算はある。何せよ、目前の敵の兵力は十万程度で、数においてはまだ自軍が敵軍を呑んでいるのだ。
その、谷道の出口から少し離れた平原に、田管軍十万は待ち構えていた。確かに魯軍は数において勝っているのだが、その疲労は色濃い。対して田管軍の方は、蔡軍の伏兵が時間を稼いでくれたおかげで休養を取る余裕が生まれ、その兵は英気に満ちている。
その、両軍が、平原で衝突した。疲労に喘ぐ魯軍は、数の利を活かせぬまま、その前列はあっさりと崩壊した。だが、そのまま田管軍が押し切ってしまえる程、勝負は甘くはない。次から次へと後ろから繰り出される魯兵に、今度は田管軍の側が疲弊し始めた。戦線は、徐々に南に押され始めてゆく。
「まだだ! 持ちこたえよ!」
馬上で、田管は腹に力を込めて声を振り絞っている。耐えれば、彼らには勝算がある。勝つためには、何としてもここで踏み止まらねばならなかった。
平原での開戦から三日目のことである。
この日もまた、魯軍が数に任せて田管軍に攻めかかってきた。だが、田管の元に、真っ青な顔をした兵が、伝令にやってきた。
「や、奴が……奴が来ました!」
「奴とは誰だ」
「その……仮面の……魏遼です! 奴の率いる五百騎が物凄い勢いで本陣に接近してきています!」
紫電一閃、田管の頭に、稲妻が走った。まさか、このような所に魏遼が出てくるとは、思いもよらなかった。普の領内で彼と戦ったのを最後に、彼は行方知れずとなっていた。それが巡り巡って魯兵となっているとは、予想だにし得なかった。
「私が出る。蘇斉、この場は預けた」
「はっ、御武運を」
田管は、指揮を副官の蘇斉という男に預け、かねてより自分に付き従ってきた選りすぐりの騎兵五百を選び抜き、これを率いて迎撃に出た。
この時、田管の心は、俄かに昂っていた。魏遼を討ち果たす、またとない機会が巡ってきたのだ。魏遼のことは、呉同と同じぐらい、清算しなければならない過去である。
「待っていろ、魏遼。その首は私が貰い受ける」
報告を受けた呉同が、指揮官用の馬車の中で呟いた。
呉同の率いる魯軍は、南下して巍水の北側に到着した。敵の国都を狙うには、まずこの川を渡る必要がある。
五十万の軍を、呉同一人で直接指揮しているわけではない。実際には軍を分け、複数人の副将にそれぞれ率いさせている。だが、それらの連携はあまり上手く行っていないようで、北岸に到達して軍を停止する頃合いはばらばらであった。明らかに、足並みは揃っていない。
それでも、蔡軍との戦いで多少損耗したとはいえ、まだ四十数万の兵力を擁している。十万の兵なんぞに、負けるはずはない。そう固く信じている呉同は、一斉に渡河を開始した。
「来たな、呉同め」
五十万近い大軍勢による渡河である。横に大きく広がった兵が、まるで大蛇の体のように東西に連なっている。それらが、じわりじわりと南岸へと近づいてくる。兵の多さよりも、寧ろよくぞここまで軍船を用意したものだと田管は感心した。
「よし、攻撃開始!」
その大軍勢が川の中程にまで近づいた時機を見計らって、田管は攻撃を指示した。太鼓がけたたましく打ち鳴らされ、それによって前線へと攻撃指令が送られる。投石機による攻撃と、弓弩の兵による矢の斉射が始まった。
渡河中の軍というのは、最も無防備である。魯軍の兵士たちは、水上にあっては満足に身動きが取れず、頭上から降る岩石や矢弾を避ける術がない。運悪くそれらの直撃を受けた兵士がそのままひっくり返って倒れるのを見て、その近くの兵たちは恐怖と安堵の心情を同時に抱いた。
敵の足並みは揃っておらず、横に広がった敵軍は、突出した部分や逆に出遅れた部分などで凸凹であった。田管軍は、なるべく敵軍の突出した部分を狙って、その頭上に集中して射撃を加えた。
「よし、いい感じだ。全軍退却!」
敵が上陸するよりも前に、田管は退却の指示を出した。退却の合図を意味する銅鑼が打ち鳴らされ、兵士たちは背後の道へと撤退を始めた。渡河中を狙った攻撃で敵を削ったとはいえ、まだ彼我の兵力差は歴然としたものがある。今は決戦を仕掛ける時ではないのだ。
田管軍は逃げに逃げ続けた。当然、これを無視することのできない魯軍は追撃を始める。そうして、田管軍は細い道の続く険阻な地に入り、そこをひたすら突き進んだ。魯軍もこれを追いかけ、隊列を細長く引き伸ばしながら追いかけてゆく。
その時であった。草木のがさがさと揺れる音と共に、道の両側の山に埋伏していた蔡軍の兵士が、魯軍の左右に突如出現したのだ。それらは弓弩を構え、鏃の先を魯軍へ向けている。
「しまった、伏兵か!」
魯軍の頭上に、黒い雨が降り注いだ。田管は、最初からこの地へ誘い込むつもりで軍を撤退させていたのである。大軍が細い谷道に入れば、当然隊列は長く伸び、側面の防御力は低くなる。そこを伏兵によって攻撃する算段であった。
蔡軍が降らせたのは、矢弾のみではない。岩石、丸太なども斜面の上から落とされ、魯軍に襲い掛かった。矢などよりも、寧ろこちらの方が確実に魯軍を苦しめた。岩石、丸太と、前列の兵士の死体で、進軍の足は大いに鈍らされた。
「ええい、小癪な……」
呉同は苦虫を噛み潰したような顔で、前線から続々と届けられる伝令を聞いていた。
ようやく魯軍が谷道を抜ける頃には、その軍は三十万程に減っていた。実に二十万近くの兵が命を落とした計算になる。蔡軍が矢弾を撃ち尽くして撤退を余儀なくされるまで攻撃を加え続けたのであるから、その死者数も当然であった。それでも、目下の敵は十万程の数であり、決戦を挑めば十分に勝算はある。何せよ、目前の敵の兵力は十万程度で、数においてはまだ自軍が敵軍を呑んでいるのだ。
その、谷道の出口から少し離れた平原に、田管軍十万は待ち構えていた。確かに魯軍は数において勝っているのだが、その疲労は色濃い。対して田管軍の方は、蔡軍の伏兵が時間を稼いでくれたおかげで休養を取る余裕が生まれ、その兵は英気に満ちている。
その、両軍が、平原で衝突した。疲労に喘ぐ魯軍は、数の利を活かせぬまま、その前列はあっさりと崩壊した。だが、そのまま田管軍が押し切ってしまえる程、勝負は甘くはない。次から次へと後ろから繰り出される魯兵に、今度は田管軍の側が疲弊し始めた。戦線は、徐々に南に押され始めてゆく。
「まだだ! 持ちこたえよ!」
馬上で、田管は腹に力を込めて声を振り絞っている。耐えれば、彼らには勝算がある。勝つためには、何としてもここで踏み止まらねばならなかった。
平原での開戦から三日目のことである。
この日もまた、魯軍が数に任せて田管軍に攻めかかってきた。だが、田管の元に、真っ青な顔をした兵が、伝令にやってきた。
「や、奴が……奴が来ました!」
「奴とは誰だ」
「その……仮面の……魏遼です! 奴の率いる五百騎が物凄い勢いで本陣に接近してきています!」
紫電一閃、田管の頭に、稲妻が走った。まさか、このような所に魏遼が出てくるとは、思いもよらなかった。普の領内で彼と戦ったのを最後に、彼は行方知れずとなっていた。それが巡り巡って魯兵となっているとは、予想だにし得なかった。
「私が出る。蘇斉、この場は預けた」
「はっ、御武運を」
田管は、指揮を副官の蘇斉という男に預け、かねてより自分に付き従ってきた選りすぐりの騎兵五百を選び抜き、これを率いて迎撃に出た。
この時、田管の心は、俄かに昂っていた。魏遼を討ち果たす、またとない機会が巡ってきたのだ。魏遼のことは、呉同と同じぐらい、清算しなければならない過去である。
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