上 下
13 / 13

最終話 業火

しおりを挟む
 振り下ろした斧は、見事に火炎瓶を叩き割った。流れ出した灯油が布の炎に引火し、辺りを火の海に変えた。赤い舌のようにゆらめく炎が、地を白く染める雪を溶かしてゆく。俺は灯油が付着して燃え出した斧を投げ捨て、すぐにその場から離れた。
 炎に舐めつかれたのは、雪ばかりでない。白無垢を着たようなムカデの体も、灼熱の業火に包まれた。ムカデは長い体をやたらめったにくねらせ、冷凍ガスを吐き散らしながらのたうち回ったが、油による炎はそう簡単に消えるものではない。
 暴れるムカデは、さっき跳ね飛ばされて転倒した台車にのしかかった。段ボール詰めのガスボンベが、燃え盛る長躯の下敷きになる。

 ――その瞬間、まるで特撮映画で見られる、絵にかいたような爆発が起こった。

 強烈な空気の振動が俺の腹にまで伝わり、肋骨がずきりと痛む。黒い煙と赤い炎が撒き上げられ、ムカデの白い体を覆い隠した。
 俺の体からふっと力が抜け、アスファルトの上に尻餅をついて座り込んでしまった。ムカデはもう動かなくなっていたが、それでも炎は燃え続けている。ばちばちと爆ぜるような音だけが、俺の耳に聞こえていた。

 それからしばらく後のこと。俺は鍾さんの寝ているところに、よろよろと歩いていった。鍾さんの傍でしゃがんだ俺は、そっと彼の首筋を触ってみた。凍らされて地下室に運ばれた森川さんと同じように、ぞっとするほど冷たかった。

「鍾さん、鍾さん」

 俺は頬をぺしぺし叩きながら、鍾さんを起こそうとした。しかし、やはりこの大男はうんともすんとも言わなかった。さっきまで生きていた男が、今はこうだ。命の終わりとは、こういうものか……
 俺は立ち上がると、今度はメグミさんの方に向かった。緑のモッズコートが、雪中に伏しているのが見える。俺はそっと彼女の体を起こした。雪にまみれた顔面は蒼白で、牙に貫かれた腹は血で汚れている。鍾さんと同じく、その体は冷たくなっていた。
 メグミさんは冷凍ガスを浴びただけでなく、毒牙によって穿たれてしまった。はっきり言って、生存はほとんど望めない。

「……頼む……」

 微かだが、息があった。言葉も話せるようだ。意外な反応に、俺は面食らった。彼女は懐から車のキーを取り出して、俺の方に差し出してきた。俺は黙って、それを受け取った。
 以前、アフリカでとある男が毒蛇に噛まれたが、蛇の毒牙が長すぎて肉を貫通したため、毒を注入されなかった、という話を聞いたことがある。ムカデの牙に体を貫かれたメグミさんにも、同じようなことが起こったのではないか。その上、メグミさんは鍾さんと違って、それほど長い時間冷凍ガスを浴びていない。だから、彼女は何とか意識を保っていられたのだろう。
 とはいえ、冷凍ガスを浴びた上で腹を貫かれた彼女は、ほとんと死を確約されたようなものだ。すぐに死ねない分、きっと今この間も地獄の苦しみを味わっているに違いない。

「……あの箱を……焼いてくれ……」

 あの箱、というのは、白石が持ち去った木箱のことだろう。メグミさんは元々、白石が持ち去ろうとしたホルモン剤を処分するためにやって来たのだ。彼女が来なければ、俺は間違いなく死んでいた。

 それが、彼女の最期の言葉となった。

「分かった……分かったから……起きてください」

 力なく倒れ伏した彼女は、どんなに体を揺すっても起きなかった。

 あまりにも、人が死にすぎた。これは、きっと悪い夢だ。起きたら俺は実家の布団の中なんだ……俺はそう願った。そんな願いを嘲るかのように、吹き下ろす冷たい風が、俺の頬を突き刺す。
 俺は雪の上に、がっくりと膝を折った。こぼれ落ちた涙が、ぱりぱりに凍りついた緑のモッズコートを濡らした。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...