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歓びの里 [ランド、七日間の記録]編

日録1 別れじゃないから

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 お待たせしました。
 また、お付き合いいただけると嬉しいです。

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 その人は「別に取って食ったり、しませんよ?」などと言った後にさらりと。

”まあ――今のところは、ですけれどね”

 笑いを含んだ声で言い、それはそれは魅惑的な笑みを浮かべる。

 ――あ、この人性質たちわりい。

 瞬間、不穏なひと言を放った佳人(?)を前に、そんなことを思った。その際、うっかり言葉遣いが数年前のものに巻き戻ってしまった。

 当時はまだまだヤンチャだったから。腹の中だからそう問題ではない…はず。目の前の翠玉すいぎょく色の長い髪をした麗人は、先ほどの発言などまるでなかったように、綺麗に口を拭って涼しい顔をしている。

 (つくづく…)とランドは平静を装った顔の下で苦笑した。相手は筋金入りだろうが、自分も若輩者ながら、なかなかの狸に成長しつつある。多少なりともその自覚はある。

(リヴィエラ様につき従っていると自然にそうなるよな…)

 師の技は弟子へと受け継がれていくものだ。だからけしては、自分の持って生まれた才能ではない。ランドは半ば開き直ってそう思った。

 長い時を生きる師は古狸…それどころか老獪な化け狸。自分はようやく半人前の狸というところか。

 それでもここまで成長したということだ――喜ばしいことに。

 ちなみに表情に乏しい割に、腹芸の全く出来ない内弟子は例外――言わずとしれず、目の前でこんこんと眠る娘のことである。
 
 この美しい赤い瞳は思った以上に表情豊かで、心の中がそのまま瞳に表れてしまう。彼女の場合、おそらく本心を隠すという技を披露する日はやってこないだろう。

 褒められたことではないが、いかにもそれが彼女らしくて、思わず笑みがこみ上げる。願わくば、そのままの彼女でいて欲しいと思うのは、ランドの我が儘だろうか。

「この後はどうされますか? あなたもお疲れでしょうし、少し休まれてはいかがでしょう。お部屋を用意させますよ」

 疲れた体は、まるで砂を詰めた袋をいくつも括りつけたようにずっしりと重い。ありがたい申し出だ――しかし。

 ちらりと眠るフェイバリットの顔を見て、ランドはいやと首を振る。

「もう少し、彼女に付き添っています」

 フェイバリットは当分、目覚めない。それはわかっているが、どうしても一人残してこの場をすぐに離れることが躊躇ためらわれた。

 自分の心配性に呆れつつ、これはもう性分だからどうしようもない。エンジュは呆れるでもなく、そんなランドに、黙ってただ優しい眼差しを向けるばかり。

「…わかりました。部屋の外に人を控えさせておきますので、必要なものがあればいつでも言ってくださいね」

 その後は気を利かせたのか、ランドが気づいた時には、そっと部屋から出て行った後だった。

 エンジュが部屋から立ち去った後、ランドは寝台のそばの腰かけに再び腰を下ろした。座った途端、体が沈み込むような疲労感をはっきり自覚した。

(これは…しばらく立ち上がれそうにないな)

 思った以上の己の疲弊具合に、ランドは長い息を吐いた。落ち着いて、部屋の中を見回す。物は少ないが、白塗りの壁に木目の美しい板張りの天井。ガラスのはまった窓からは柔らかい日差しが差し込んでいる。

 けして豪奢ではないが、どれも上質なものばかりということが分かる。暑くもなければ寒くもない。夜の訪れに警戒をする必要もない。

 建物に守られて不安もなく、ゆっくりとくつろぐのはどのくらいぶりだろう。つい先ほど絶望するほど追い詰められたことがまるで嘘のようだ。

 困っているからと、あっさりと得体の知れない子供二人を受け入れてくれたエンジュには後で改めてお礼を伝えなければと思う。

 部屋をぐるりと見回した後、静まり返った部屋の中でよく耳を澄ませると、娘のすうすうという寝息が聞こえた。

 いつもと変わりない、穏やかな寝息を立てる娘を見下ろす。白い顔は心持ちいつもより血の気が失せて見えた。

 ふと思い立って額に触れ、さらに耳のつけ根の辺りを指で触れる。寝汗をかいていないかどうか、または逆に体が冷えていないかを確認するためだ。

 露宿の夜の冷え込みは厳しい。なので寒くないようにしっかり温かくして寝かせるのだが、うっかりやり過ぎて途中で大汗をかくこともままある。

 ある時、寝汗に気づかずにいたら、汗で体が冷えて結局、鼻をグズグズ言わせたことがあった。

 それ以来、彼女が寝入った後に、暑さ寒さが適温か、ほぼ毎日のように確認している。ランドにとっては、火の様子を見るのに夜一度は起きるのだから、大したことではない。

 とは言え、さすがにこれは過保護だと自覚している。このことを知れば、きっとフェイバリットは負い目に感じてしまうに違いない。なのでこれは内緒だ。

 疲れていないか、腹を減らしていないか。甘えん坊で頼りない弟がいたから、世話焼きが習い性になっているのかもしれない。

 あれこれ気を回すランドに、いつだったかフェイバリットが困ったような顔をして「お母さんみたい…」とつぶやいたことを思い出す。 

 眠るフェイバリットは、睫毛一本ぴくりとも動かない。これだけ動かないのなら、時々体の向きを変えてやらないとすぐに床ずれが出来てしまいそうだ。

 そんなことをついつい考える自分に苦笑が洩れてしまう。

 魂がここにないと言われても、にわかには信じがたい。そう思うほど、目の前の寝顔は安らかだった。

 ――今頃、懐かしい故郷ふるさとで、大好きなの方と再会を果たしただろうか。どれほど彼女が養父を慕っているか、昔からそばで見てきたランドはよく知っている。

 少し――妬けるくらいに。

 そっと小さな手を取った。その手がじんわりと温かい。

(大丈夫――生きている)

 ランドはその手を両の手で包み込むようにすると、顔を寄せた。

「…しっかり、甘えてこいよ」

 でもって。思う存分里帰りを満喫したら――。

「ちゃんと俺のところに、戻ってきてくれ…」

 指先にそっと口づけると、静かに声を落とした。
 
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 読んでいただき、ありがとうございます。

 当面、更新は水曜10時頃の予定です。
 次回も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
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