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3章 歓びの里 [鳥の妻恋]編

3-2  涙を止める方法

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 こちらはランド視点のお話になります。
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「彼女の瞳に口づけてくださいますか? それで多分止まるだろうと――ランド?」

 エンジュが不思議そうに名前を呼んだのは、ランドがカチンと固まったせいだ。

「な……っ?! 俺が、ですか? っていうかなんでそんな方法で?」

 狼狽えながらも、声を抑えてひそひそと言い返す。慌てふためくランドに、エンジュが美しい眉を訝しげにひそめる。さらにこともなげにひと言、つけ加えた。

「あなたの方が妥当だと思ったのですが…出来ませんか?」

 人前でフェイバリットに口づける?! 口にではないとは言え、肌に直接、唇で触れる?!

 分かりやすく顔を真っ赤にして目を白黒させる。問いかけるようなエンジュの視線に、ぐっと下唇を噛んでしばし考え込むも、やがて小さく首を振った。

「む、無理だ」
「仕方ないですねぇ――後で文句を言わないでくださいよ?」

 言うなり、くるりとフェイバリットに向き直る。意味が分からず「え」とランドが小さく声を上げた。

「何を――」

 すらりとしたエンジュの体が音もなく立ち上がると、寝台の上、娘のすぐそばに腰を下ろす。

「可哀想に。そんなに泣かないで…。美しい目が腫れてしまいますよ」

 片手が白い髪をさらりと撫で下ろし、もう片方の手が頬を伝う涙をそっと指で拭う。

 その手が流れるような動作で顎にかかったのを、ランドは見逃さなかった。ぎょっと目を瞠る。

「おい――」

 何をするつもりだ? と終わりまで口に出す前に。

 「失礼しますね」という凛とした声が耳に飛び込んだ。指で相手の顎を固定したまま、ほんの少しばかりエンジュの顔が前に突き出される。

 眼前に迫る美貌に、フェイバリットの瞳が驚いて見開かれるのが、エンジュの背中ごしに見えた。

「ま―――っ!!」

 呪縛をかけられたように固まっていた体が、急に自由になった。弾けるように足を踏み出すも、一歩遅かった。

 チュッと生々しい濡れた音が、やけに大きく室内に響く。その瞬間、ランドの視線の先で、ぼっとフェイバリットの顔が真っ赤に染まるのが見えた。

 ゆっくり体を離し、首まで真っ赤になった顔を見下ろしたエンジュの口から「おお」という感嘆の声が上がる。

「エンジュ…さま? こ、ここれは…?」

 フェイバリットは突然の目蓋への口づけにひたすら戸惑うばかり。

「良かった。涙は止まったようですね?」
「――ええと。おかげさまで?」

 たしかに驚きのあまり涙は引っ込んだ。――だがこの方法が果たして正しいのか?

 いまいち現状を把握できず、フェイバリットは火照る頬を押さえる。ランドはただただ呆然と固まるばかりだ。真っ赤に頬を染めるフェイバリットに、ふふっとエンジュが小さく笑った。

「すみません。驚かせてしまったようですね」
「あの。は・はいっ、その通りです…っ!」
「ふふっ。正直な方ですね。ああ…お顔がまだ真っ赤なまま…なんとお可愛らしい。たかだか目蓋への口づけなのに、とても初心うぶなのですね。私は嫌いではありませんよ?」

 フェイバリットがあわあわしているうちに、エンジュが歌うように語りながらその長い指で赤くなった頬に触れようとした。

 その手首を――がっしりと掴む第三の手があった。ランドだ。

 沸騰寸前だったフェイバリットはあからさまにホッとする。エンジュは不思議そうにその手の持ち主を見る。

 いきなり手首を掴むという暴挙に、ランドは謝罪の言葉を口にする。――しかしその手を離すことは出来なかった。

 この自由な人を黙って放置すると、ロクなことにならない。その事を、嫌というほど知っているからだ。

 ランドにとって、目の前で起こった一連の出来事は衝撃すぎた。驚きのあまり、初動が遅れてしまったことは否めない。

 それはさておき、エンジュの距離がやたら近すぎる。しかも雰囲気が甘い。線は細くとも、今はしっかりと女性を口説くに見えるのが不思議でならない。

「なんですかコレ? 今、彼女とお話しているのですが」

 不可解とばかりに眉を顰めて、と言いながら手首を掴む手をチラ見する。

 さすがにこれ以上、非礼を働くわけにもいかず、ランドはおずおずと手を離す。

「いや――その」

 あんた、俺を口説いていなかったか?! ――とはさすがにフェイバリットの前で言えない。

 フェイバリットは口ごもるランドに、不思議そうな目を向ける。その隣のエンジュもまた然り。

 フェイバリットはともかく。青天の霹靂とばかりにきょとんとするエンジュを見て、ランドは内心、舌打ちをする。

(その顔、すげえムカつく)

 ランドの苛立ちはもはや抑えきれないほどに膨れ上がっていた。

 この美貌の主のことがまるで掴めない。
 フェイバリットが眠っている間、あれほどこちらをグイグイと押してきたくせに、打って変わって今はまるで男のように彼女に迫っている――迫っているようにしか見えない。

「何か言いたいことがあるのなら、早くおっしゃってもらえませんか?」

 責めるような声にせっつかれながら、結局ランドは口惜しく唇を噛むばかりだ。先ほど聞こえた生々しいリップ音はまだ耳に残っている。

 しかも位置的にはっきりと見えなかったとは言え、一瞬、二人の間はゼロ距離と言えるほど密着したのだ。そのことにランドの胸の中がもやもやとする。

 それはフェイバリットに手を出されたことへの苛立ちなのか――それとも軽々と好意の対象を変えてしまうエンジュの不実をなじりたいのか。



(いやいや冷静になれ。引きずられてどうする)

 ランドは頭をひと振りして、気を落ち着けるようにゆっくりと深呼吸を繰り返す。

「困ります。エンジュ様。このような真似。まだ成人前とは言え、彼女も年頃の娘なのです。口にこそ出しませんが、さぞ困っていることでしょう」

 びしりと言い切られて、作りものめいて美しい彫像のような顔がぴくりと動く。澄んだ瞳がちらりとフェイバリットへと動いた。

「困る…そうなのですか?」

 甘い流し目から漂ってくる匂い立つような色香を前に、フェイバリットは慌てて目を背ける。

 頭から湯気を出す勢いで、真っ赤に茹だった顔をさらに深く俯かせ、やがて小さくこくりと頷いた。

「……その、私など恐れ多くて……」

 絞り出すような声に、はあっとエンジュが大きな溜め息と共に吐き出した。

「――なるほど。やはり私ではなくランドの方が良かったのですね」
「なっ?!」
「ふあっ?!」

 ランドと同時に、娘の口からも奇妙な声が飛び出した。

「エンジュ様。悪い冗談はおやめください」
「おや、冗談などではありませんよ。それは女性に対して失礼でしょう。それともランドは冗談で口づけをするのですか」
「! するわけがないでしょう?! あなたこそ軽々しく口づけをしすぎではありませんか? この間は俺に口づけをしたくせに――」

 正確に言うと、口づけたのはランドその人にではなく、ランドの“てのひら”にだ。

 だが焦るあまり、肝心なところがすっぽ抜けたことに、幸か不幸かこの時ランドは気づかなかった。

 「ああ、なるほど」と低く呟いたエンジュの頬がほんのりと色づく。

「つまりあなたは、私が彼女に口づけたことに苛立ちを感じているのですね? これはもしや俗に言うヤキモチというものなのでしょうか…」
「え? あ――いや」

 熱くもないのに嫌な汗が額に浮かぶ。ちらりと視線をずらせば、大きく見開かれた赤い瞳とまともにぶつかった。

 ………オレハ今、何ヲ暴露シタ?

 やらかした――そう思ったが吐いた言葉は戻らない。

「そ・そもそも涙を止めるために口づけをするものでは、な・ないかと。口づけはとても意味の深い行為です。誰かれ構わず軽々しくしていいものではありません――もちろん相手の同意も取らずにするなど、もってのほか」
「ええ――そうなのですか?」

 その声は心底、心外だと言わんばかり。それだけでなく全く納得がいかないという表情である。

 視線を滑らし、エンジュは物言いたげな視線をフェイバリットに向ける。

 だがこちらも、ランドと同じと言わんばかりにコクコクと小さく頷くばかり。あからさまにがっかりとエンジュは肩を落とす。

 二人からそろって非難めいた視線を向けられ、さしもの美貌の賢人も最後には長い前髪をかき上げ、ふ――っと深い溜め息を落とした。

「ふむ。たしかにあなたに口づけた時も、了承を得ましたものね」
「「!!」」

 それはランドが不感症でないか、確かめてみるかという提案を受け入れた流れで口づけをされただけ――互いに望んでしたものではない。けして。

 しかもあくまで掌にだ。それに、もしも口づけだと予告されていたら、ランドが承服することもなかっただろう。

 背中にじっとりと冷たい汗を感じながらフェイバリットを見ると、初心な娘は顔を真っ赤にしてぷるぷると小刻みに体を震わせている。どうやら刺激が強すぎたようだ。

 というよりもこの流れはまずい。すっかりフェイバリットに誤解されてしまっている。

 それだけでなく、このままでは“二人は公認の仲できている”などと周知されかねない。それは――もっとまずい。

 窓から射し込む日射しに、すっかり室内は明るさを取り戻している。今日も今日とてすがすがしいくらいの朝日和あさびよりだ――なのに。

 ――午後から雨になりそうだ。 
 ランドは、まぶしげに窓の外に目を細めた。
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