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透明事変
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「目が覚めると透明人間になってた」なんて、誰も信じちゃくれないだろうけど、事実、僕には姿も影もない。その朝は本当に整理がつかなかったけど、あれから数週間、僕は不自然なくらいに安堵に包まれている。この姿での生活にはもう慣れたし、案外悪くない。誰にも見られることがないから何も気にすることも無いし、なんだってやれる気がする。僕の中で何かが落っこちて、すごく体が軽くなった。落としてよかったものなのかは知らないけど、きっと僕を邪魔するなにかであったことは確かだ。
今日もいつも通りの一日が始まる。ゆっくりベッドから起き上がって洗面台に向かう。歯ブラシを手に取って、チューブから歯磨き粉を押し出して口にくわえる。そのとき、ふと鏡を見た。誰も居ない不自然な脱衣所が映る。そして無意識にこう呟いた。
「お前は誰だ。」
ぞっとした。鳥肌と冷や汗が止まらなかった。何故気づかなかったんだ。世界から弾き出されて、僕はたった一人になってしまったのだ。もう誰にも見つけられることは無いということに、僕はその時初めて気づいた。何も考えずに一目散に玄関をとび出て、寝巻きのまま歯ブラシを咥えながら、街中を駆け回った。走りに走って足が動かなくなるまで走った。とにかくどこかへ逃げたかった。
商店街の路地裏を見つけて、思わずそこへ飛び込んだ。何も考えたくなかった。商店街の雑踏から外れ、隔絶されたかのような静寂が広がっていて、僕はただ一人ぽつんとフードをかぶり、うずくまっていた。
「また逃げるのか?」
頭の中で聞き覚えのあるざらついた不快な声が反芻する。耳に手を押し当てて、さらに塞ぎ込む。でもそんなことはお構い無しに声が響いてくる。
「また逃げるのか?」
「黙れ、、」
「まだ、逃げ続けるのか。」
「うるさい!お前に僕の何が分かる!」
顔を伏せながら、その誰かに向かって怒号を鳴らす。僕の怒気に怖気付いてか、はたまた呆れてしまったのか、その声は聞こえなくなった。
「皆何も知らないくせに。」
僕はただ虚空を見つめ、時が流れるのを待っていた。
随分と時間が経ったようだ。黄昏始めた空模様が当たりを桔梗色に染めて、世界の終わりのような空間が今目の前に広がっている。
不意に声がした。
「どうして泣いてるの?」
路地裏の入口の方に目をやると、黒いパーカーを着た少女が立っていた。
泣いてる?誰が?
心当たりが無く、周りを見回してみる。やっぱり誰も居ない。
「違う。きーみ。」
少女はどう見ても僕の方を指さしている。ありえない。僕は透明人間なのだ。誰にも見えるはずは無い。でも、もし、仮にも僕の姿が見えているのなら……。いつの間にか泣いていたことも忘れて、深呼吸して、ゆっくりと口を開く。
「僕が、、見えるの、、?」
彼女は顔色一つ変えずに言う。
「見えるよ。私も君と同じだから。」
「僕と、、同じ?」
腑に落ちない彼女の返答に戸惑いながら、真っ黒に透き通る彼女の瞳を見つめる。何とはなしに綺麗だとストンとそう思った。
「目を見れば分かるよ。君は私と同じ目をしてるもの。君も私も同じ目的で、きっとここに来たってそう思えてならないの。」
「……ただの偶然だよ」
少し間を開けて、弱々しく言った。
「偶然なんかじゃないよ。あなたも思ったんでしょ。消えちゃいたいって。」
「違う、僕はそんな……。」
僕ははっとして口が止まる。彼女は僕の傍に腰を下ろし壁に寄りかかる。目を丸くした僕を見て彼女はどこか曇った表情を浮かべて微笑みながら続ける。
「私ね、、、家出してきたの。だから、行くとこなくて、、それで無鉄砲にさまよってたら、気づけばここに立ってた。」
「帰らなくていいの?」
「帰りたくないの。もう全部やになっちゃって。」
ぎこちない様子で笑ってみせる。
「そっか、、僕も同じなのかもしれない。 」
また虚空に目を戻し、物思いにふける。
僕もあの時、たしかに思った。「消えてしまいたい」と。
別に死にたいと思うほど辛いことは無かった。虐められてもないし、友人もいた。だけど、僕は心のどこかで孤独なんだ。世界と僕との間に隔たりというか歪みというかそんな隙間を感じる。このやりようのない気持ちをどこに置けばいいのかわからなくて、誰にも見られることない場所に隠したくて、一瞬でいいから、消えてしまいたいと思った。
いつからだろう。何も感じなくなったのは。私の心が閉じてしまったのは。綺麗な野花を見つけても、夕焼けを見ても、もう何も感じなくなっていた。両親の口喧嘩だけが響く重苦しい家で部屋にこもってただただ、耳を抑えていた。
何に対しても無気力になって、家から出ることも無くなった。
誰にも会いたくないし、何も信じられない。
ああ、私は透明人間なんだ。
ふとそう思った。
消えたいという感情は僕の心に埃のように降り積もって、やがて強い力を持つようになり、僕を現実から遠ざけた。生きているのに死んでるみたいで、壁がないのに聞こえなくて、距離がないのに届かなくて。僕は次第に埋もれていった。何も無いこの社会とかいう空間に。気づけば僕は「ここ」にいなくて僕は、「世界」と重なってしまったんだ。
でも、、、、、、
「私たちは一人じゃなかった。」
はっとした。この世の秘密の天啓に触れたかのように。
どうして忘れていたんだろう。
あの時落としたもののやさしく、あたたかなものに。
ずっと見てなかった。いや、見てないふりをしていた。
自分が一番不幸なんだと思いたかった。いちばん辛いのは自分で、だからいつかきっと僕は報われるんだって。無責任な願望を人に期待して、こじつけがましく当てつけにして、僕は……。
「またやり直せるかな。」
「きっと。私たちはもうひとりじゃないもの。」
彼女の頬にも僕の頬にも涙が伝っていた。
あんなに重たかった腰が急に軽くなった気がした。
すっと立ち上がって、彼女に手を貸す。
彼女は僕の手を掴んで言った。
「ありがとう。」
「こちらこそ。」
路地裏から抜け出て、二人で歩いたペデストリアンデッキはいつもより涼しい気がした。
今日もいつも通りの一日が始まる。ゆっくりベッドから起き上がって洗面台に向かう。歯ブラシを手に取って、チューブから歯磨き粉を押し出して口にくわえる。そのとき、ふと鏡を見た。誰も居ない不自然な脱衣所が映る。そして無意識にこう呟いた。
「お前は誰だ。」
ぞっとした。鳥肌と冷や汗が止まらなかった。何故気づかなかったんだ。世界から弾き出されて、僕はたった一人になってしまったのだ。もう誰にも見つけられることは無いということに、僕はその時初めて気づいた。何も考えずに一目散に玄関をとび出て、寝巻きのまま歯ブラシを咥えながら、街中を駆け回った。走りに走って足が動かなくなるまで走った。とにかくどこかへ逃げたかった。
商店街の路地裏を見つけて、思わずそこへ飛び込んだ。何も考えたくなかった。商店街の雑踏から外れ、隔絶されたかのような静寂が広がっていて、僕はただ一人ぽつんとフードをかぶり、うずくまっていた。
「また逃げるのか?」
頭の中で聞き覚えのあるざらついた不快な声が反芻する。耳に手を押し当てて、さらに塞ぎ込む。でもそんなことはお構い無しに声が響いてくる。
「また逃げるのか?」
「黙れ、、」
「まだ、逃げ続けるのか。」
「うるさい!お前に僕の何が分かる!」
顔を伏せながら、その誰かに向かって怒号を鳴らす。僕の怒気に怖気付いてか、はたまた呆れてしまったのか、その声は聞こえなくなった。
「皆何も知らないくせに。」
僕はただ虚空を見つめ、時が流れるのを待っていた。
随分と時間が経ったようだ。黄昏始めた空模様が当たりを桔梗色に染めて、世界の終わりのような空間が今目の前に広がっている。
不意に声がした。
「どうして泣いてるの?」
路地裏の入口の方に目をやると、黒いパーカーを着た少女が立っていた。
泣いてる?誰が?
心当たりが無く、周りを見回してみる。やっぱり誰も居ない。
「違う。きーみ。」
少女はどう見ても僕の方を指さしている。ありえない。僕は透明人間なのだ。誰にも見えるはずは無い。でも、もし、仮にも僕の姿が見えているのなら……。いつの間にか泣いていたことも忘れて、深呼吸して、ゆっくりと口を開く。
「僕が、、見えるの、、?」
彼女は顔色一つ変えずに言う。
「見えるよ。私も君と同じだから。」
「僕と、、同じ?」
腑に落ちない彼女の返答に戸惑いながら、真っ黒に透き通る彼女の瞳を見つめる。何とはなしに綺麗だとストンとそう思った。
「目を見れば分かるよ。君は私と同じ目をしてるもの。君も私も同じ目的で、きっとここに来たってそう思えてならないの。」
「……ただの偶然だよ」
少し間を開けて、弱々しく言った。
「偶然なんかじゃないよ。あなたも思ったんでしょ。消えちゃいたいって。」
「違う、僕はそんな……。」
僕ははっとして口が止まる。彼女は僕の傍に腰を下ろし壁に寄りかかる。目を丸くした僕を見て彼女はどこか曇った表情を浮かべて微笑みながら続ける。
「私ね、、、家出してきたの。だから、行くとこなくて、、それで無鉄砲にさまよってたら、気づけばここに立ってた。」
「帰らなくていいの?」
「帰りたくないの。もう全部やになっちゃって。」
ぎこちない様子で笑ってみせる。
「そっか、、僕も同じなのかもしれない。 」
また虚空に目を戻し、物思いにふける。
僕もあの時、たしかに思った。「消えてしまいたい」と。
別に死にたいと思うほど辛いことは無かった。虐められてもないし、友人もいた。だけど、僕は心のどこかで孤独なんだ。世界と僕との間に隔たりというか歪みというかそんな隙間を感じる。このやりようのない気持ちをどこに置けばいいのかわからなくて、誰にも見られることない場所に隠したくて、一瞬でいいから、消えてしまいたいと思った。
いつからだろう。何も感じなくなったのは。私の心が閉じてしまったのは。綺麗な野花を見つけても、夕焼けを見ても、もう何も感じなくなっていた。両親の口喧嘩だけが響く重苦しい家で部屋にこもってただただ、耳を抑えていた。
何に対しても無気力になって、家から出ることも無くなった。
誰にも会いたくないし、何も信じられない。
ああ、私は透明人間なんだ。
ふとそう思った。
消えたいという感情は僕の心に埃のように降り積もって、やがて強い力を持つようになり、僕を現実から遠ざけた。生きているのに死んでるみたいで、壁がないのに聞こえなくて、距離がないのに届かなくて。僕は次第に埋もれていった。何も無いこの社会とかいう空間に。気づけば僕は「ここ」にいなくて僕は、「世界」と重なってしまったんだ。
でも、、、、、、
「私たちは一人じゃなかった。」
はっとした。この世の秘密の天啓に触れたかのように。
どうして忘れていたんだろう。
あの時落としたもののやさしく、あたたかなものに。
ずっと見てなかった。いや、見てないふりをしていた。
自分が一番不幸なんだと思いたかった。いちばん辛いのは自分で、だからいつかきっと僕は報われるんだって。無責任な願望を人に期待して、こじつけがましく当てつけにして、僕は……。
「またやり直せるかな。」
「きっと。私たちはもうひとりじゃないもの。」
彼女の頬にも僕の頬にも涙が伝っていた。
あんなに重たかった腰が急に軽くなった気がした。
すっと立ち上がって、彼女に手を貸す。
彼女は僕の手を掴んで言った。
「ありがとう。」
「こちらこそ。」
路地裏から抜け出て、二人で歩いたペデストリアンデッキはいつもより涼しい気がした。
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