【完結】愛され妻は演技です 〜愛されない公爵夫人は「旦那様溺愛計画」を実行中〜

針沢ハリー

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34.前世の私と夢の話


 屋敷に帰る馬者の中で、私は、窓の外を見ているクライドの横顔を見つめていた。

 もう泣いてはいないけれど、目元は赤い。でも屋敷に着く頃には目立たなくなっているだろう。

 彼が感情的になるのを初めて見た。怒っている時も、彼は本心を全て見せてはいなかったと思う。
 大人としてはそうする必要があるけれど、彼は子供の頃から大人びていたというのは屋敷の使用人達からよく聞く話だ。

 私はクライドは、小さい頃からとても我慢をしてきたのではないかと思った。
 そして、彼にとっては急にできたお姉様が唯一の気を許せる相手だったのだろう。その相手に恋心が芽生えるのは理解が出来る気がした。


 夕食の前も後も、彼は執務室に籠っていた。食事中も口数はいつも以上に少なかった。
 そんな調子だったから、私は彼が今日は夫婦の寝室に来ないかもしれないと思っていた。

 でも彼は私が寝支度を整えた頃には夫婦の寝室にやってきて、私の隣に横たわるなり、いつもの冷静な声で言った。

「昼間はすまなかった。醜態を見せた」

 私は彼から謝られたくはなかった。彼は当たり前の反応をした。悲しかったから泣いたのだ。でも、彼にそう言ってもきっと理解出来ないだろう。

 だから、私は彼の言葉を遮って、あえて楽しそうな声で言う。

「ねえ、クライド様。あなたには夢がおありですか?」

「夢……? 私は王太子殿下のお役に立たねばならない。だから、宰相になれればいいと思っている」

「それは……夢ではなくて、そうならなければ、というお話のような気が……。いつからそうしたいと思っておられたのですか?」

「さあ。気づいた時には父上にそう言われていたから」

 クライドは当然ではないかと言うようにこちらを見てくる。

 思っていた通り、彼は自分の好きな人生を選択出来なかったのだ。
 それは今の私も同じだ。前世の記憶を思い出すまでは、誰か身分の釣り合う相手に嫁いで、子供を生み、社交をするだけの人生に何の疑問も持っていなかった。

 でも、彼がそのせいで感情を押し殺して生きてきたのだとしたら、それはとても悲しい。

「クライド様。それは夢とは言いません。お父様の夢だったかも知れませんけれど、あなた様とは無関係だわ」

「……父上の夢……?」

「そうです。いえ、夢というよりも、野望、でしょうか」

 私は、立っている時とは違って、同じ目線で横たわる彼の手を握った。

 そして、前世の自分の人生に思いを馳せる。遠いようで、つい最近の出来事のような不思議な感覚の記憶だ。

「ある国に、親に逆らって女優になった娘がいたのです。親は二人とも公務員……位は高くありませんが、官吏のようなものでしたから、娘にもそうなるべきだと言いました。でも、娘の夢は女優になって舞台や、まあ、他にもいろいろありますけれど、お芝居をすることだったのです」

「……官吏の娘が女優? それはあり得ないのでは? 常識的に考えて」

「えっと……。その国では、人は自分次第で何にだってなれたんです。身分制度もほとんどなくて」

 この世界の人に現代日本の常識を説明するの無理なので、適当に誤魔化すしかないけれど、それもなかなか難しい。

「……聞いたこともない話だが……。それで? その娘は女優になったのか?」

「はい! 主役も、小さな劇場でのお芝居では務めたこともあって! でも、お芝居をしてもらえるお金だけでは生活をしていけなくて、他に商店のようなところで働いていました。そして、もっと大きな舞台に立つことを夢見ていました。でも、夢の途中で死んでしまったのです」


 あの頃の、夢の途中の楽しい日々のままで、私の記憶は止まっている。


「それは……無念だったろうな」

「まさか! 不運ではありましたけど、夢に破れたわけではなくて、追いかけながら死んだんです。希望に満ちたまま。だから、後悔はしていないんです!」


 そうなのだ。前世の私はそういう人だった。
 最後の瞬間、死ぬかもしれないと思った時も、やれるだけのことはしたと満足感を得るような人だった。

 きっと、両親や仲間たちや友達は、若くしてこの世を去った私を、無念だっただろうと可哀想に思いながら送り出したのだと思う。
 でも、それは違う。

 今のミレニアの人格は、その記憶を思い出すまで、誰それが若くして……と大人たちが嘆くのを、そう思うのが当然だと思っていた。

 でも、前世の記憶を自分のものとした時に知った。それだけではないのだと。
 どんな状況になったとしても、後悔せずに生きて、そして死んでいくことができるのだと。


 私はクライドに微笑みかけた。
 私は平凡な伯爵令嬢として生きながら、いろいろやらかしてきたけれど、後悔はこれっぽっちもしていない。

 私の目の前で、真剣に考え込む表情のクライドには、おそらく説明して分かってもらえるものではない。
 でも、彼にも後悔の残る人生は送って欲しくないと、彼を大切に思うようになってしまった私は願ってしまうのだ。

 クライドは、私を見ると困ったように笑った。

「私にはよく分からない。夢、などというものについて考えたことがない。……その、不思議な話に出てくる娘のようにはなれそうにないな」

「そんなに難しく考えることはありません。好きなことをしていたら、きっと楽しいのです。クライド様は宰相になったら楽しそうですか?」

「どうだろう。だが、誰にでもなれるものではないし、国を豊かにするために力を尽くすのは意味のある行為だと思う」

「確かにそうですわね。でも、どうせならご自分が楽しくて、せずにはいられないと思うこともしていただきたいわ」

 クライドは微笑むと「そうか。だが私には勉学や仕事以外に、何かをしたことがない」と、やはり寂しいことを言う。

 私は、そんな彼の頭を抱き込むようにした。そしてそのサラサラの髪を撫でる。彼はされるがままに、大人しくしている。

「宰相にならなくても、公爵家は爵位を取り上げられはいたしませんでしょう? 領地も、名誉も」

「そうだな、それはないだろう。殿下のご期待には応えられないが……」

「それは嫌ですか?」

 彼はまたしばらく考え込んでから言った。

「主従関係にはあるが、最も友人に近い人だったから」

「では、公爵家の発言権が低下しないようにだけして、殿下にお味方しつつ、旦那様はご自分の夢を探してみてもいいかもしれませんわね」

「子供の頃ならともかく、私はもういい大人で……」

「あら! 年齢なんて関係ありますか?」

 前世の記憶が三十年分ある私は、まだ二十歳の彼の言葉に驚いてしまった。まだまだこれから、何でもできる年なのに。

 もちろん前世の頃よりも、この世界の人々の寿命は長くはない。でも、残された時間がほんの少しだったとしても関係ない。
 いつだって、何だってやれるのだと、途中で終わってしまっても、楽しめればいいのだと、心の中で前世の自分が笑っている。

「ねえ、クライド。今までしてこなかったことがたくさんあるなんて、それは素敵なことだわ! だって、楽しいことを、これからたくさん試せるのですもの!」

「……そんな生き方があるのか……」

「あります! もちろん、ご身分の問題で、ものによっては周囲から止められることもあるでしょうけれど、やりようはあるはずです」

 彼は私の腕の中から抜け出して、なぜか私にキスをした。

「そなたは、これから何がしたい?」

(え、私? えっと……。私が今したいのは何かしら……?)

「……私も分かりません……」

「そうか……。一緒だな」

 クライドは優しく笑う。笑顔でいてくれるのが嬉しくて、こちらからもキスをする。
 そうすると、彼は私の頬を撫でて、視線を遠くに向けた。

「一つ、したいことがある」

「まあ。もう何か思いついたのですか? 教えていただいても?」

 私は彼の長い指をいじりながら聞いた。ペンだこや、あちこちに剣を使う人特有の皮膚が硬くなった場所がある。父や兄弟も騎士だから、それにはなじみがあった。

 でもその手が逃げていって、なぜか私は彼に抱き寄せられる。もっと触っていたかったのに。

「クライド様……?」

 私が見たその彼の顔は、今までで見た中で一番優しかった。

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