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第一章 五里霧中の異世界転移

第十二話 見知らぬ自分

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 藍白あいじろの家の寝室は、管理小屋と似た造りで扉の奥が水まわりだった。
 だが、建具や家具は格段に上質だった。洗面所の篭に新しい着替えとバスタオル代わりの木綿の布類が用意されていた。香澄かすみは、とりあえず穴のあいたリネンのシャツを脱ぎ、軽く畳み床に置いた。

 ふと、洗面台を見ると、窓ガラスの向こう側に下着姿の少女がいた。
 少女は、スラリとした身体で、腰まである長いストレートの黒髪が光を弾いて輝いていた。ガラスはわずかにいびつで、彼女の表情までは、よく見えなかった。香澄が近づいて行くと、少女もこちらに近づいてきた。
 少女は華奢な体格だが、香澄が羨ましくなる程の胸の持ち主だった。
 しかも、背も高く手足の長いモデル体型だった。顔も小さく、鼻筋が通り、長い睫毛の下の瞳は、紫色に金を溶かして流し入れた様な不思議な色をしている。十代後半か二十代前半か、彫りの深い欧米人というより、どこかアジアの香りがする、不思議な顔立ちの美少女だった。
 香澄は、黙って見つめているのも失礼だと考え、軽く会釈えしゃくした。すると、まったく同じタイミングで同じ動作を、ガラスの向こう側の少女もした。
 香澄は、一瞬何が起きているの分からなくなり、そして目を見開いて驚いた。

「わ、わたし、な、の? ………………!!!」

 香澄は、聞き慣れた自身の声ではなく、高く澄んだ声が自分の口から響いて、更に驚愕した。香澄は、あまりの事に目眩がしてきた。
 自分の身体を見まわして、細く長い腕や脚、お腹まわりが薄い身体に、白く滑らかな若い肌を確認していった。向こう側の少女も全く同じ動作を左右を反転させてするのだった。

 目の前の洗面台にあったのは、ガラス窓ではなく鏡だった。

「あ、あ、あ、やだ、なに? どうなってるの?」
「ねぇ? 香澄ちゃん。あいつら、酷いよね。こんなに可愛い女の子に、容赦なく魔術をかけて誤魔化して騙すだなんてね」

 いつの間にか、藍白が、背後から鏡の中の少女の身体を抱きしめていた。すっぽり抱きしめられた姿を見ると、少女が藍白よりも頭一つ分背が低いのが分かった。
 香澄は、藍白と密着した背中と廻された腕を熱いと感じなから、ハクハクと息をしようとしても、上手く肺に吸えなくて苦しんでいた。鏡の中の少女の顔が苦しそうに歪んだ。いや、香澄の顔が、だ。

 ………………?!

 香澄は誰かの悲鳴を聞いた。嫌だ、怖い、助けてと、叫んでいる。暴れる香澄を、藍白が押さえていた。香澄はぼろぼろと涙を流しながら、藍白にすがりついた。

「あ、藍白、おばさんでも、中年太りでお腹ぽっこりでも、綺麗じゃなくても、わたしは、わたしの身体だからこそ、わたしでしょう? 五十年間、赤ん坊の頃からずっと付き合ってきた身体なんだから …… 。ねえ、藍白、わたしは本当は死んでたの? これは、異世界転移・・・・・じゃなくて、異世界転生・・・・・なの?!」

 藍白は、眉を下げた困った顔をしていた。

「僕には何の事だか、よく分からないけど、香澄ちゃんは、香澄ちゃんだよ。僕が大好きな可愛い女の子だよ。大丈夫。大丈夫だよ」

 香澄の顔は涙でぐちゃぐちゃになったが、呼吸はやっと落ち着き、この身体に感じた恐怖が治まったとき、温かな体温に気がついた。香澄は、藍白に抱きしめられたまま洗面所にいることを思い出した。

「……そういえば、わたし、下着姿だよね」

 藍白の右手は、香澄を正面から抱きしめて背中側から身体を支えていた。香澄が、パニックから立ち直れたのは、藍白が暴れる彼女を、きつく抱きしめてくれていたおかげだった。
 しかし、左手は、さっきから腰とお尻の辺りを、さわさわと撫でまわしていた。

「 …… 藍白。あんたの左手は、何をしているのかな?」
「あ、ごめん。つい、柔らかくて、えっと、触り心地が気持ち良くて、僕だって一応、成人したばかりでも男だし、あ、でも、ちゃんと大人になるまでは、触るだけで我慢するからねっ!がぁ!グウッ!」

 香澄は、藍白のアゴに、頭突きをかました。藍白は、アゴを両手で押さえ、涙目で恨みがましく香澄を見つめてきた。

「セクハラ大魔王に、情け容赦は無用でしょう!」

 香澄は、藍白のお陰で冷静になれたと思っていた。でも、感謝はしたくなかった。少しだけなら感謝しているが、セクハラ大魔王をつけあがらせたくなかった。

「 どこ、撫でてるんだ! 藍白、もう大丈夫だから出ててね!」

 香澄は、藍白を洗面所から追い出してから下着を脱ぎ、お風呂に続く引き戸を開けると、からりと音がした。お風呂は、ひのきの香りがする木のお風呂だった。棚に小瓶が並び、シャンプー、トリートメント、ボディソープと、うねうねした文字らしき図形が手書きで書かれていた。
 そう、日本語ではないのに、香澄には読めた。翻訳魔法のおかげだろうが、文字情報にも有効なうえに、高機能辞書代わりのアレクシリスがそばにいなくても、大丈夫なのが不思議だった。
 以前の自分より、長く量が増えた髪を丁寧に洗い、くるくるとねじって頭の上でまとめ、身体を洗い流して、久しぶりの湯船に浸かった。

「ああ、気持ち良くて生きかえる~。いや、なんだか今のわたしには、その発想は微妙。お湯の中で揺れる身体のラインが違和感はんぱない~っ! 他人様の身体に見えるのに、腕をさすれば感覚は、間違いなく、わたしの身体って、どうなってるんだ? はあ、まいったな」

 あの濃霧の朝の後、香澄が『管理小屋』で目覚めてアレクシリス達と出会い会話を交わした内容を思い出して考えてみた。あの時の自分は、普通じゃなかった様だと思った。

 ーーーーーー 認識阻害の魔術。

 香澄は、悩んでいた。もし、アレクシリス達が言っていたように、魔力の暴発を起こす可能性があったのが事実だったとしても、順序だてて説明していけば、パニックを起こさない様にする事は、可能だったのではないだろうか?
 そして、姿が変わった事も、落ち着けば受け入れていけるはずだし、今ある違和感も時間が経てば、馴染むだろう。この姿になってしまったものは、仕方ない。それに、美少女なんだからいいじゃないかと思っていた。後半は、楽天的な思考の持ち主だから言える言葉だろう。

「いったい、何故?自分達に有利な情報だけを正しいと認識させたかったから?不要な情報を阻害するなんて、めんどくさそうな魔術をかける理由が、分かんない。そんな事を、わたしにする必要、本当にあったの?」

 お湯から持ち上げた腕が、水滴を弾いていくのを、香澄はさすが若い肌は違うなと、感心しながら独り言を呟いた。

「一番の目的は、無条件に信頼を得る事かな?初めての異世界で、最初に出会ったアレクシリスさん達を無条件に信用して、依存させて、彼らの話しに疑いを抱かせないように手懐けて、国の為の駒となるように洗脳したかった …… とか? うわぁ、だんだん、考えが黒くなってきた」

 香澄は、なにもかも信じられなくなりそうで怖かった。思考が、ぐるぐるして纏まらなかった。

「香澄ちゃん。逆上のぼせてないかな? 大丈夫?」

 突然、ガラッと引き戸が開られ藍白が入ってきた。香澄は、手元に用意しておいた空の湯桶を藍白に投げつけた。ストライク! で、顔面に見事に当たり、藍白は引き戸の向こうに倒れた。
 その後、藍白を追い出して、さっさと、着替えた。着替えに用意されていたのは、大正ロマン風の飾り襟が付いた、紺色系の花鳥柄のほとんど日本の着物を簡略化したような物と鼠色に朱色がさし色の渋い帯で、組み合わせると可愛いらしい印象の衣装だった。

 着替えが済むと、藍白は魔法で香澄の髪を乾かした。香澄は、自分で編み込みの三つ編みを数本つくり、後頭部で一つに纏め、リボンで結い上げた。
 その様子を、藍白は目を輝かせながら、見つめていた。香澄がじいっと、金色の瞳を見つめ返してよくよく観察してみると、縦線の瞳孔が広がったり、狭まったりしていて、本当に竜なんだなと思っていた。







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