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告白

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頬に感じる初夏の夜の少し肌寒い風。
浜に打ち寄せる波の音が心地良く耳を打つ。
深夜22時半。
真っ暗な湖畔をただ一人、僕だけが歩いている。
すでに人通りはない。
いつもは夜釣りを楽しむ人がまばらにいる湖畔だが、今夜人影が一つもない。
加えて新月。
街灯もまばらな湖畔はこれでもかというほどに暗く、水面に映る対岸の灯がこれ以上ないほどに美しく映えていた。
僕は丁度良い大きさの石を見つけるとそこに腰掛け、吹き付ける湖風に眼を閉じる。

「気持ち良い……」

ここにいると心が安らぐ。
どこまでも広がる雄大な湖。
満天に散りばめられた輝く星。
心に暖かさを感じさせる、湖岸に輝く無数の灯り。
悩みも迷いも全てを忘れさせてくれる景色がそこにあった。
だから僕は昔から心が沈んだ時にはいつもこの浜辺に来るのだ。
この美しい景色に癒されるために。
『母なる湖』。
その二つ名は伊達では無い。

「湖岸か……」

湖岸といえば……。
ふと今夕の出来事が脳裏に蘇る。

「錦……守世……」

僕の好みどストライクの少女。
僕に告白してきた女の子。

「///」

思い出したら恥ずかしくなってきた。
はぁ、と息を大きく吐いて心を落ち着ける。

「違うだろ、彼女のことから気をそらすためここにきたんだろ……」

自分に対する恨み言を連ねる。

そう、彼女のことを思い出そうと湖岸に来たのでは無い。
こんな夜中に湖岸にまで来た本来の目的。
それは『錦守世』という少女から思考を引き剥がすことだ。

『私と付き合ってください』

数時間前、僕は彼女からいきなりそう言われた。
初対面の、それも好みのど真ん中を射抜く容姿の少女にそんなこと言われて動揺しない男子高校生がいるだろうか。
僕は無理だった。
だから心を落ち着かせようと湖岸にきたわけだが……。

「よく考えたら湖岸で告白されたのに湖岸に来たら余計思い出すだろ……」

つい癖で動いてしまったことを激しく後悔する。
自分の馬鹿さ加減を呪いながらもう一度空を見上げる。
無限に広がる星の海。
これを彼女に見せたらなんというだろうか……。

気づかぬうちに再び錦に思いを馳せたその時。

頬を撫でていた風が止んだ。
同時に視界から星の灯りが消え失せる。
一瞬遅れて身体が締め付けられような感覚。
何が起きているのか。
何も分からない中、感じることは一つだけ。

何かが、いる。

腹の底から凍りつくようなおぞましさと全身が焼き尽くされるような存在感。
今まで生きてきた中では感じることのなかった、死という概念。
軽く風が吹くだけで命の灯火が消えてしまいそうな、そんな絶望感。
そうした負の概念全てが僕を舐め付けているように感じた。
身じろぎひとつ出来ない。

「ああ……」

何が起きているのか全く分からない。
息が出来ない。
声も出ない。
何も見えない。
ただ、何かとてつもない存在がそばにいるということだけがわかる。

「あ……ああっ!!」

恐怖が全身を満たす。
思考は凍りつき、意識が朦朧としていく。
身体から何かが抜けていくような感覚。

これが……死……。

何も分からない。

もうダメだ……。

もう……。

だめ……。

「でやぁぁあ!!!」

近くで声が聞こえた。
と、その瞬間、緊張から解放される。
座っていた石から思わず崩れ落ち、片膝をついたままむせ返るように荒く息をつく。
同時に、汗が全身から吹き出してきた。
腕時計を見ればほとんど時間は進んでいない。
たった一瞬の出来事。
その一瞬が、永遠にも続くような地獄のように感じた。

「一体……?」

「大丈夫ですか?」

何が起きたのか混乱していると、突然背後から声がかけられた。
聞き覚えのある声。
ハッと振り返るとそこには小さな影がひとつ。
その影が優しい光に包まれ、次第にその顔が明らかになる。

「君は……!」

姿を現したのは一人の少女。
錦守世が立っていた。
深夜なのに運動をするような服装。
そしてその手にはスマートフォン状の何か。
彼女を照らす光はそれを光源としていた。
輝くそれを右手に握り、錦は僕を見下ろす。

「これはどういう……」

「話は後です。とりあえず早くここから逃げてください」

錦は僕の言葉に被せて指示を送ってきた。
初めて話した時と変わらないか細い声。
だが、その言葉は今までとは全く異なる力強いものだった。

「あと、早く返信くださいね」

「あ、ああ……」

錦に頷いて立ち上がり走り出した僕の足は、次の瞬間再び動きを止めた。

「は……?」

目の前で起きた信じられない光景に、呆気にとられる。

「消え……た……?」

目の前にいたはずの錦の姿が、一瞬にして消えたのだ。
驚きのあまり思わず膝の力が抜け、僕は地面にへたり込んでしまった。

「これは……夢?」

そのまま、数十秒か数分か。
夢現つのまま幾らかの時間が過ぎた頃。

「うわっ!!」

僕の目の前に再び突然、錦が現れた。
驚き、思わず声を上げた僕の顔を心配そうに覗き込む。

「大丈夫でしたか?」

数秒前までそこには何もなかった。
何も存在しなかったその空間から、錦が現れたのだ。
信じられない出来事にただ呆然とするばかりで何も答えることができない。

「逃げてって言った……のに!?」

言葉を継ぐ錦が、びっくりした表情になる。
その顔を見たのを最後に、暗くなる視界。

……ああ、これが気絶ってやつか。

そんなことを思いながら、許容値を超えた驚きで僕は気を失った。

**************

「う……んん……」

目を覚ますと、天使のような女の子の顔がすぐ近くにあった。

「いや、天使っていうより女神……か?」

「何言ってるんですか?」

頭がぼんやりとして空回りする。
上の空で呟いた僕に、容赦ないツッコミが突き立てられた。

「ここは?」

霞がかかる頭が少しずつ晴れていく。
それと同時に直前のことがだんだんと思い出される。

「あっ」

消えたり現れたりした錦守世。
いきなり叩きつけられた無理解。
間近に感じた、『死』。

「うっ……うわぁ!!」

全て思い出した。
思わず叫び声をあげる。
それと同時にそんな僕を不安げに見つめる錦の視線に気がつき、身体の震えを必死に抑える。

「……ごめん……取り乱した」

「いえ。大丈夫ですか?」

「ああ……」

全く大丈夫ではない。
頭は混乱して沸騰しそうだ。
けれど、そんなことは言えるはずがない。
少女に対して強がりながら周囲を見回す。
いつものように静かな夜。
あまりにもいつも通りすぎて、さっきの出来事が夢のように感じる。
えにもいわれぬような気持ち悪さ、この世のものでは無いような存在感に睨まれたあの時間は、夢と言われた方が信じてしまいそうなほど現実離れしたものだった。
あれは現実だったのだろうか。

「さっきのは一体……? あなたが僕を助けてくれたんですか?」

あの出来事は何だったのか。
錦は何をしたのか。
そもそもなぜ彼女がここにいるのか。
いくつも疑問が湧き上がる。
けれども錦はそんな僕の質問に何も答えない。
身体を起こそうと身じろぎをする僕を黙ったまま手伝うと、座りこんだ僕の右隣にそのまま腰を下ろした。

「ちょ……!」

女の子と並んで座るなんて経験がない。
びっくりして疑問が吹っ飛んだ。

「……」

「……」

……気まずい。
お互いに何も言うことが出来ず、ただ気まずい時間が流れる。
とは言ってもどうしていいか分からない。

「……あれ?」

どうにかせねばと何となく辺りを見回してみると、僕たちの周辺だけが異様に明るいことに気がつく。

「朝……か?」

いや、違う。
僕らの周囲だけが異様に明るいのだ。
そこで初めて気がついた。
僕らは光り輝くテントのようなものの内側にいた。
いや、目を凝らしてみると細い光の糸が僕らの周りに縦横に走っているのが分かる。
織られた無数の糸がまるで蚊帳かテントのように僕達の周りを覆っているのか。

「なんだこれ……」

不思議な光景だった。
何が光っているのか、そして、明らかに普通ではない光り方はどういう原理なのか。
新たに生まれる疑問に、しかしそれをグッと飲み込み最大の懸案を錦に問いかける。

「……今、何時ですか?」

遅くなりすぎると親にどやされる。
顔から血の気が引いていくのを感じた。

「泰護さんが意識を失ってから十五分ほどです」

僕が眠っていたのは予想よりはるかに短い間だけだったようだ。
その事実に胸をなで下ろす。
最大の懸案事項が解消されたことで、僕は落ち着いて現状と向き合えるようになった。

「さっきのは? いきなり消えたと思ったらまた現れて……」

「夢です」

「んなわけねーだろ……」

速攻でボケてごまかそうとした錦に呆れながら説明を求める。

「話せば長いんですけど……」

そう前置きし、錦は話し始めた。

「私たちが住む陪膳ヶ崎ばいぜんがさきは、昔から神に食事を捧げる場所として有名でした。日本最大の湖に面し、そこで取れる様々な魚介類やその豊かな水を用いて作られる様々な作物は古来より神への供物として重要なものだったんです」

さらりと言う錦に思わず待ったをかける。

「ちょっと待って下さい。 神? 冗談だろ?」

「そう思うのは無理もないですよね。神や神への供物は神聖なもの。ですからそれらは常人の目には見えません。見えないものを信じろという方が無理ですよね」

でも……と、錦は話を続ける。

「実際に千年以上の間、供物は母なるうみから神へと捧げられてきました。その神と人間の繋がりを護ることが私達の仕事です」

「護るって……何から?」

「神への供物という極上品を狙う悪玉です。陪膳ヶ崎に住む少女のうち、選ばれた者は陪膳の街とそこから神の元へ捧げられる供物を秘密裏に守る役割を担っているんです」

「なんというか……途方も無い話だな」

現実感を持って聞くことができない。

「そもそも、そんな戦いが繰り広げられていたらみんなわかると思うんですけど」

僕の問いに、ふるふると首を振る錦。

「神や神への供物、その運搬人、そしてそれを狙う悪玉は人間よりも高い次元の存在です。その存在は容易には認知できないんですよ」

「じゃあ、どう戦ってるんですか?」

「当然、供物を守り敵と戦う私たちも、それらと同等以上の高次元の存在になる必要があるんです」

「もしかして、消えたり現れたりしてたのは……」

「はい。消えたように見えたのが高次元の状態です。生身のままでは戦えない。そこで簡単に言えば変身して戦うって感じですね」

色々と説明を聞かされたが、正直ほとんど理解していない。
『神が実在して、錦はその神のために戦っている』だと?
まるで神話かお伽話のようだ。

「とても……信じられない……」

「でも、今日、泰護さんは実際にその戦いに関わりました」

「……」

彼女の言う通り、僕は巻き込まれた。
そして…………。

「僕は……感じてしまった」

あの地獄を。
威圧感を。
死を。
この肌で直に感じた。

「決して君は妄想を口にしているわけじゃないってことはわかった」

夢のようで、決して夢では無い生々しいあの感覚。
でも、それを理解することと受け入れることは別の話だ。

「正直、さっきの体験も今の君の話も……僕が生きる世界の話だとは思えない……僕みたいなただの高校生には、荷が重すぎる」

「それは……」

「それに……何故この話を僕にしたんですか? その意図が知りたい」

ずっと抱えていた疑問をぶつける。

「私はあなたと、泰護さんとお付き合いしたいんです」

突然、錦が口を開いた。
初めて会った時に、彼女が言った言葉。
命を賭け、伝統を護り戦う女の子の言葉。
今聞くと、あまりにも重いその想い。
僕には…………。

「……僕には何も……何も見えなかった……」

供物を狙うという敵も、供物も、運び人も……。

「戦っている……君の姿も…………」

何も見えなかった。

「錦さん……君のような女の子に僕は不釣り合いだ。僕のような男は、君に相応しくない」

初めて会った時にも言った言葉を繰り返す。
だが、今では込めている想いが違う。

「関わる事で傷つけるとかいう次元じゃない。僕が君の足枷となってしまう」

「そんなことは……!」

否定する錦。
だが、たとえ彼女が危機に陥ったとしても、いや、そもそも戦っているところすら見ることができなければ助けになることもできない。
一番大切な人が苦しんでいる時に支えになることさえも出来ない。

(いや……)

たとえ彼女の戦いが見えたとしても、彼女の助けになろうとするだろうか。
さっきの恐怖を再び思い出すと全身がすくむ。
思い出すだけでも恐怖に囚われるというのに、実際にそうした場面に動けるだろうか。
きっと僕は……。

「きっと僕は、動けない。あなたの抱えているものを、僕は支えることはできない」

うなだれながら声を上げる。

「僕には……重すぎる……」

僕の言葉には答えず、錦は僕から身を離し立ち上がり背を向ける。
重いものを背負った背中。
その背中を見ながら、僕は彼女に問いかける。

「君は、どうして僕のことを……?」

どこかで会ったことがあるだろうか。
何か知らないうちに接点を持っていたのか。
なぜ、僕と付き合いたいと言っているのか。

「……秘密です」

様々な疑問を抱える僕に対して、彼女は背を向けたままたった一言だけ答えた。
期待を削がれた僕に対し、彼女は言葉を続ける。

「……私が戦っていること、そしてその戦っている私自身もあなたにとっては恐怖でしかない。 この秘密を知られてしまったら、あなたは私を敬遠するだろうということはわかっていました」

錦の言葉で気がついた。
彼女は特別な女の子ではない。
戦いはすれど、メンタリティは普通の女の子なのだと。

『ただの高校生には、荷が重すぎる』

この言葉は彼女にこそかけられる言葉なのだと。
『僕は君に相応しくない』と言う言葉は彼女を傷つけるものなのだということに。

「錦……さん」

「いきなり現れて、説明もなしに告白。そして目の前でよく分からない力を使って戦い始める。私が貴方の立場でもドン引きします」

笑いながら言う錦。
きっと、力を持つ彼女は特別扱いされる事を望んではいない。
ひとりの女の子として向き合ってほしいと思っている。
そのことに気づいても、僕にはどうするべきかが分からなかった。
何も言うことができない僕に錦は顔を向ける。

「私はあなたとお付き合いしたい。でも、私のこの想いは泰護さんを苦しめてしまうかもしれない」

「…………」

錦は、にっこりと微笑んだ。

「今、受け入れることが出来なくても良いんです。いきなり受け入れろと言うのがそもそも無理な話ですよね……」

言葉を切り、錦は逡巡する。

「だから、知り合いからでも構いません。私とお付き合いしていただきたいんです」

錦はそう言って僕を見つめる。
でも僕は……。

「……」

何も答えることができなかった。
言葉が見つからなかった。

何も答えない僕を見て、彼女は顔を伏せた。
再び訪れる沈黙。
僕からは彼女の表情は見えない。
何を彼女が考えているか、何を感じたのか。
僕には、見えない。

「……ごめんなさい。おやすみなさい」

夜の静けさを破り彼女はそう呟いた。
僕が何か答える前に彼女は僕に背を向けて駆け出した。

手を伸ばしかける。
何かを言わなければ、彼女を引き止めなければ……。
でも、言葉が出ない。

何も言うことができないまま、僕は彼女の後ろ姿をただ眺めるだけだった。
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