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第五十一話 あいつの為に言っているんだ

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「この件は恐らく、奥様が仕組んだことでしょう。奥様なら、バルト卿のことを知ってもおかしくないし、リーリアに接触してバルト卿の名を出すよう指示したのでしょう。お嬢様は勘がいいから、呼び出すのに不自然な方法をとればすぐに勘づかれると睨んだのでしょうね。…全く。油断のならない女狐ですね。」
「ルイ。少し気になる事が…、ルイ?」
その時、アルバートはルイに視線を向けるがその表情にギクリ、と顔を強張らせた。無表情だがルイの冷淡な光を宿した瞳は今にも誰かを殺してしまいそうな程に殺意に満ちていた。その誰かとは聞くまでもないだろう。
「ルイ。間違っても…、先走るなよ。母親殺しの汚名を被ったりするな。」
「…君、それ本気で言っているんですか?」
静かに淡々と呟かれる。
「この貴族では親が子を、子を親が切り捨てるなんてよくある話ですよ。貴族の世界では目的の為なら、平気で身内を手にかける。…よくある話です。まあ、君には分からないでしょうね。僕や姉上、リヒターと違って…、君は甘やかされたお坊ちゃんですから。」
ルイの冷ややかな視線にアルバートは黙り込んだ。
「グレース様は君を叩いたことはありますか?罵倒したことはありますか?お前なんて、産まなければ良かったと存在を否定したことは?実の子供に父親を重ねて愛の言葉を強要したことは?次期当主としてこれ位できて当然だ、むしろもっと上を目指せと命令したことは?」
「…。」
「ないんでしょう。そうでしょうね。グレース様は姉上と似た清廉潔白な貴婦人だ。母親として純粋で深い愛情をあなたに注いだことでしょう。…そんな奴に…、僕や姉上の苦しみが分かるものか!」
ガン、と殴りつけるようにカップがソーサーに勢いよく音を立てて置かれた。カップの底はひびが入っていた。だが、誰も咎めない。
「…俺には、分からない。けど、知ることはできる。小さい頃から俺はリエルとよく遊んだ。だから…、少なからず俺はあいつの苦悩を知っているつもりだ。」
甦るのは、庭の片隅でしくしくと泣いているリエル。話しかければその頬は腫れ、涙で濡れていた。
『ねえ、アルバート…。どうして、お母様はあんなにあたしを嫌うの?あたしが醜いから?だから、どんなに頑張ってもお母様は私を見てくれないの?』
知っていた。リエルが母親に褒めてもらうために人一倍努力をしていたことは。刺繍を何度も練習して、指に針を刺して失敗しながらも練習を重ねていた。出来上がった刺繍を母親にプレゼントしたがそれを無情にもリエルの前で引きちぎり、ゴミ箱に捨てた。ピアノやヴァイオリン、歌、勉強、リエルは自分の容姿に自信がない分、他の分野で補おうとしていた。夜遅くまで勉強し、血の滲むような努力を重ねていた。寝不足のせいか時々、アルバートの肩に凭れてうたた寝をするリエルを見るのはよくあることだった。
『あたしも…、アルバートみたいに綺麗に生まれていたら…、そうしたら、お母様もあたしを見てくれたのかなあ。』
ぼそりと寂しそうに呟き、涙ぐむリエルの言葉にアルバートは何も言えなかった。あの時のリエルの泣き顔を今でもアルバートは忘れることができなかった。
「誤解のないように言っておくが…、俺は別につまらない正義感の為に忠告したんじゃない。あいつの為だ。」
「…どういう意味ですか。」
「母親殺しの汚名を被ったお前を知ればあいつがどう思う?それこそ、あいつの心に一生の傷を追わせることになるんだぞ。」
ルイは黙ったままアルバートを見つめた。その瞳からは先程の冷淡な光は消え、凪いだ光に戻っている。
「そう、ですね…。あの女には生きたまま罪を償わせる。それがふさわしい末路ですね。たまには、君もまともな意見を言うではありませんか。アルバート。」
「お前は一言、余計なんだよ。」
「話を戻しますが…、旦那様。例の件、裏が取れました。」
リヒターはそう言い、書類を取り出した。
「それは?」
「我がフォルネーゼ領内で起きた不審な事故の実態調査結果です。旦那様のご命令で少々、調べていました。」
「何があったんだ?」
「実はここ最近、不審な事故がありまして。水路が破壊されていたのです。始めは自然災害によるものだと思っていたのですが実際に目にすると明らかに誰かの手で壊されたかのような仕業でして。お嬢様がすぐに対応したおかげで被害は最小限に抑えられましたが…、どうも偶然とは思えず…、」
「つまり…、何者かがフォルネーゼを害そうとしていると?」
「ええ。そして、目撃情報によると…、黒猫を目にした目撃者がいるのです。」
黒猫。その名にアルバートは眉を顰めた。
「やはり、黒猫はオレリーナとも…?」
「そこまでは裏は取れてません。ですが、君も疑念は抱いているのでしょう?だからこそ、君はリヒターを通じて僕達に協力を仰いだ。敵を炙り出す為に。セイアスや君のハニートラップでは実態は掴めないと判断したから。」
「そうだ。セリーナは…、本当に何も知らないみたいだ。」
「悪い男ですね。君は。目的の為なら、平気で女に偽りの愛の言葉を囁くなんて。」
「そうだな。最低な男だとは理解している。だが、俺は…、目的を果たす為なら何だってすると決めたんだ。」
ルイは一瞬、目を瞠ったがフッと口角を上げた。
「…まあ、その点だけは同意しますよ。僕と君は同じ目的の為なら協力できる。」
「ああ。」
二人の視線が交差する。始めに口を開いたのはルイだった。
「共にあの女の悪事を暴きましょう。僕の母にして、敵でもあるオレリーナ・ド・フォルネーゼを。」
ルイの瞳は酷薄な光を放っていた。それは身内ですらも切り捨てる冷酷な目をした裏の当主の顔だった。
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