こどくのさきに

睦月マコト

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冬の日

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 僕なんかが傍にいてはいけない。
 そう、思うのだ。水崎千尋みずさきちひろは、どうしようもないほどに。
 傍にいたいと思えば思うほど、千尋は強くそう思う。
 誰かを好きになったなら、自分よりもその人を幸せにできる人がいるだろうと身を引く。千尋はそんな人間だ。
 傍にいてはいけない。
 でも、傍にいたい。
 何度思ったかわからない願いにも等しい千尋の感情は。未だかつて成就したことはない。
 だから千尋は、たくさんの恋心を偽ってきた。
 自分の胸に押し込めて、ゆっくり融かして、自らの内に生まれた恋心を他の誰に知られることもなく、なかったことにする。そうして溜まった感情の澱が辛いと叫び、愛を求め、また澱が溜まる。
 そんな澱の叫びを聞いたのか、千尋に手を差し伸べてくれた人がいた。だが、千尋はこんな自分に手を差し伸べてくれる大切な人の傍に自分がいてはないと、その人の好意を素直に受け取ることができなかった。
 決して周囲に人がいなかったわけではない。だが、千尋にとってはその誰もが大切すぎて、触れることができなかった。
 自分から望んで、望まない孤独を手にした人。それが水崎千尋だった。

 いつか、素直に誰かを愛してみたい。

 愛してるだなんてわがままを言いたい。

 傍にいたいなんて自分勝手を言いたい。

 そんな願いを抱きながら、しかし千尋のように身を引くような人間が、自分が幸せにしたいと思えるまでに愛情を抱ける人が目の前に現れないまま、千尋が成人した年のことだった。

 幾度となく願いを無視され、叫ぶことを諦めていた千尋の中の澱が乾いた声をあげた。

 この叫び声が懐かしいと思えるほどに聞いていなかった。もう澱すら融けてなくなって、夜に人知れず零す涙になって消えてしまったと思っていた。
 だが、千尋の澱は人知れず消えてしまったのではなく、人知れず溜まっていただけだった。決して減ることなく、増え続けていたのだ。
 そうして胸いっぱいに溜まった澱達が一斉に叫ぶ。

 あの人のことが好きだ、と。

 それは今年度に入って、千尋が始めて大学にマフラーを巻いて行った日のことだった。






 五限が終わる頃には既に陽が暮れていた。
 人工灯に照らされた室内の空気は固く、廊下に鳴る靴音は、一人で歩いているとどこまでも音が響いていきそうなほどに柔らかさを感じさせない。
 教室から出て行く人と暖房の温度だけがわずかに廊下の空気を柔らかくするが、窓ガラスの外にそびえる裸の木と夜の闇がその全てを吸い取ってしまい、冬特有の張り詰めた空気を軟化させるには至らなかった。
 曇天のようなどんよりとした心の重みと、昨日よりずっと乾いた廊下。窓ガラスには廊下とそこを行き交う人々が映り、千尋の中性的な顔も窓ガラスは例外なく映し出している。
 窓ガラスに映った自分がダッフルコートの留め具をしっかりと留めているのを見て、ため息を一つ。
 想像以上に重い自分の息と共に、もう冬だなあ、と、千尋は実感する。
 こんな寂しい季節に人のいる場所にいることを、千尋はあまり好まない。
 早く帰ってちゃんと一人になろう。
 同じ授業を受けていた学生たちの話し声を遠くに聞きながらそう思った千尋だったが、はたと思い出したことに足を止め、思案する。
 千尋が大学二年生として過ごす時間もあと数カ月、三年生になればどこかしらの研究室に所属しなければならなくなるのだが、千尋はまだ所属先を決めかねている。
 そのことに関して、千尋は今入っているゼミの西教授に「いつでも相談においで」と六日前に言われていたのだ。
 そういったことを言われてからすぐに相談に行かないことは、せっかく受けた好意を無下にしてしまっているようで千尋は申し訳なさを感じてしまう。だが、いつでもなんて言葉を鵜呑みにしてアポも取らずに教授室に行くことも憚られる。
 あの穏やかという言葉を人間の形にしたような西教授であればアポ無しの相談も許されるのかもしれない。だが、そうやって受け入れてくれそうな人だからこそ尽くしたい礼儀もある。
 無礼を許してくれる人にこそ礼儀を尽くす。千尋はそんな人間だ。
 ただ、この場合待たせないこととアポを取ることのどちらが礼儀になるだろう。千尋は圧倒的に後者であるとは思うものの、やはり礼儀とは別な心情も考えて、悩む。
 再び固まりだした廊下の空気を感じながら千尋の出した答えは「教授室の前まで様子を見に行く」という曖昧なものだった。
 講義を受けていた三号館から西教授の教授室のある一号館へ、暗くなったキャンパス内を千尋は歩く。
 耳に挿したイヤホンからはスローテンポの落ち着いた曲が流れており、いつもより幾分か重い千尋の心に寄り添うように優しいペースで、しっとりと歌う女声が千尋の耳から身体に、心に入って行く。
 そんな音楽に心地よさを覚えながら、千尋は頭の中で西教授がいた場合に考えられる反応とその対応、いなかった場合に送るメールの文面等々を考える。
 いてくれて、受け入れてくれて、話ができればそれが千尋にとっては一番楽だ。
 楽なのだが、憂鬱。相反するように見えるが、この感情は共存し得る。
 千尋を憂鬱にさせる様々な理由が頭と胸に渦を巻き、大きく吐いた息と共に外に出ることなく身体の中に留まり続ける。イヤホンから流れる曲はアップテンポの陽気なものに変わったが、千尋の足は音楽のリズムとは裏腹に回転が遅くなっていった。
 いつもなら十分で行ける道のりに十三分かけて一号館の玄関ホールに到着した千尋は、教授室に向かう前に音楽を止め、イヤホンを外す。
 そこで、ふと違和感を覚えた。
 カナル型イヤホン特有の耳から抜ける感触を確かに味わった千尋だったが、千尋の耳にはまだ微かに音楽が聞こえてくるのだ。
 聞こえてくるのは、耳を柔らかくくすぐるような小さな音。ほんの少しでもその場を動けば千尋の耳に届く前に力尽きてしまいそうな、弱々しい音の波。
 誰もが気に留めることもなく過ぎ去ってしまうような、独りぼっちの音。

 そんな小さな音が、千尋の心にそっと触れた。

 気がつけば千尋は、音の近くなるほうへ惹かれるように歩き出していた。
 本来の目的を無視したその足取りに憂鬱という重石はなく、キャンパスを歩いていた時よりもずっと速かった。
 憂鬱な私用を忘れて廊下を歩く千尋の耳に靴音は響かない。千尋は、ただただ大きくなっていく孤独な音楽だけを聴いていた。
 千尋の心に指先で触れるだけだった音楽は、今は心をすっぽりと包めるほどに大きくなっている。ピアノの音に包まれ、時折聞こえてくる女性の歌声に撫でられ、時に孤独が軽く爪を立てられ、千尋の心はじわりと帯びていただけの熱を強くしていく。
 身体をすり抜けて心に直接触れるような、透明な音楽が漏れ出る場所。そこは、ピアノの練習室として生徒が使うことのできるとある教室だった。
 はっきりと自覚できるほど速い鼓動の理由は、考えるまでもない。
 薄く開いた扉から漏れ出る音は、最初に玄関ホールで聞いた時よりもずっと近く、音の輪郭がはっきりとつかめるほどに明瞭に鼓膜を揺らす。
 その音に、千尋は既に虜になってしまっていた。
 耳をくすぐるような小さな音で心を惹き、全身に染み渡るような明瞭な音で虜にする。そんな音を奏で、歌うのは一体どんな人なのだろう。
 考えるよりも速く好奇心が千尋の手を動かし、教室の扉をゆっくりと開け始める。
 扉が開くにつれてより明瞭になっていく音。そして、露わになっていく教室の中の光景。
 千尋の心は、まるで異世界への扉を開けるような緊張と高揚に満たされていた。
 満ちていく感情が溢れ、扉を開けるには不必要なほどに、千尋の手に力が入る。
 やがてその感情が全身を突き動かすほどに溢れだした頃、千尋は扉を開け切り、千尋を虜にした音楽が作り出す世界と繋がった。

 美しい、と、そう思った。

 遮るものがなくなり、濁りのない透明な音が耳を満たすことも
 夜闇と人工灯に混ざって音を奏でる黒いピアノのある光景も
 鍵盤を撫で、どこか遠い世界を見て歌う女性も、全て。

 扉を開け切った千尋は、教室と廊下の境界線上で立ち尽くしていた。
 息を呑むほど美しい世界が広がっている。一つ一つのパーツはとてもありふれているのに、その全てが組み合わせられた途端に世界が色を変え、およそ無機質な教室とは思えないような光景を作り出している。
 その世界で美しいのは、目に見えるものだけではない。千尋が惹かれ、この世界に辿りつくきっかけとなった音。女性の奏でるピアノの音色と歌声から成る音楽こそが、この世界を美しくしている最も大きな要因だった。
世界が、目に見えない音に塗り替えられて彩られているようだった。
 彩るのは雪の結晶のように冷たく儚い色。悲しく、寂しく、だからこそ美しい、そんな冬の夜が降りてきたような、儚い世界。
 そんな冷たい孤独の世界を自分が侵すことが憚られるような思いをしながら、しかし千尋がその場を動くことはない。
 願わくば、この世界にいつまでも触れていたい。
 そう思う千尋の目は教室をぐるりと見渡し、やがて一点で止まる。
 真っ黒なグランドピアノの向こう側。真剣な黒い瞳と、微かに揺れる黒い髪、そして、その全てと対照的な白い肌。
 その体躯を駆使し、音を奏でる美しい女性。
 その美しさが千尋の胸を高鳴らせ、同時に、女性の儚さと寂しさを湛えた瞳が胸を締めつける。
 千尋は息苦しさを覚えたが、それを苦しいと思わず、幸福に思う。この感覚は千尋が知っているもので、ずっと求めていたもので、求めるたび、宿すたび、惹かれ、焦がれながらも手放してきた感覚だ。
 千尋の目と耳が拾うのは、寂しいもの。儚いもの。美しいもの。
 心が感じるのは、熱いもの。苦しいもの。綺麗なもの。
 その全てに浸った千尋は、ふいに内から溢れる心の叫びを聞いた。

 その叫びの導くまま、千尋の身体が境界線をまたぎ、美しい世界への一歩を踏み出す。

 今まで千尋がいた世界とは別な世界へ踏み出した一歩の感触は、廊下を歩いていた時と何一つ変わらない。
 変わらないのに、心は躍る。靴越しに感じるリノリウムの感触がたまらなく心地よいという錯覚に陥りそうなほどに、千尋の心は大きく震えていた。
 だが、千尋がそれを味わうと共に、はたと音楽が止み、世界は急速に色褪せた。
音もなく踏み出した一歩。そのつま先が触れた場所から世界の色が褪せていくようで、千尋は自分が虜になるほど美しいものを自分で壊してしまったことに、垂直に落下していくような寒気を覚えた。
 儚く、美しい世界に踏み出したはずの千尋を取り巻く世界の感触は、想像していたよりもずっと冷たかった。
境界線の向こうに見た世界がまるで幻だったかのように、現実的で無機質な教室の光景が千尋の目に映る。そこに美しさはない。
 だが、そんな中でも決して色褪せないものが一つ。
 千尋を見つめる演奏者だけは、変わらない美しさを湛えてその世界に存在していた。
 千尋は美しい世界の断片に呼吸すら忘れそうになったが、寂しげな黒い瞳の中に自分の姿があるのだと認識した途端、反射的に口を開いた。
 「あ……えっと」
 見惚れていた相手にかける言葉など、千尋は今までの人生で学んできてはいない。まして自分を出すことを良しとしなかった千尋の人生において、相手への好意を示す言葉を紡ぐ機会などまるでなかった。
 「ごめん、勝手に入って来て」
 謝罪を口にしてから、千尋は自分を見つめる女性の視線が訝しげであることに気付く。
 じっと千尋を見つめる女性の視線は睨むように鋭い。幾分か敵意を感じるその視線に押し負けてしまいそうな千尋だったが、奥深くから湧きあがるものはそれを良しとしなかった。
 「ちょっと扉が開いてて、玄関ホールまで聞こえてきてたから気になって……近くに来たらピアノも歌もすごく綺麗で、聞き入っちゃったんだ。その、ごめん」
 話ながら顔色を窺い、最後に再び謝罪を付け加える。
 千尋が身に付けた処世術の一つであったが、それは女性の神経を逆撫でする結果となる。
 「謝らなくていいわよ」
 「え?」
 「取ってつけたような気持ちのこもってないごめんなさいって、私一番嫌い」
 ごめん、と、口をついて出そうになった言葉を飲み込み、千尋は黙る。
 次の言葉を探すが、千尋にはそれが見つけられない。
 長年感情を押し込めてきた千尋にとって、湧き上がる感情に則って動くことは難しい。だが、感情は頭が諦めることを許してくれない。
 結局所在なさげに立ち尽くすばかりの千尋は、グランドピアノの蓋が閉まる音を聞きながら視線を逸らした先の夜闇を見る。
 少なくとも、今の千尋の心象よりは明るかった。
 女性は長い黒髪を揺らし、室内に靴音を響かせながら千尋に向かって歩いてくる。
千尋は徐々に大きくなる女性の姿に焦るものの、それは千尋に近づくために歩いているのではなく、単に出口に向かって歩いているに過ぎない。
 女性の瞳に既に千尋の姿はなく、千尋の瞳にも女性の姿はない。
 失態に冷えた身体は、脆く儚い世界の残滓を胸に微かな温もりとして感じるばかりで、何もできなかった。
 千尋が僅かな間触れていた世界は、最早千尋の記憶の中にしかない。ずっと、と願ったものは過去となり、その世界を創り出していた女性の世界に、千尋は入れなかった。
 近付く距離と近付く足音。まるで氷でできた彫像が歩いてきているかのように固く、冷たく、残滓として残っている温もりさえ消してしまいそうな女性の姿に、千尋は既に自分にできることなどないと諦めを抱かされそうになっていた。
 それでも微かな温もりを求め、千尋はなけなしの勇気を振り絞った。
 「ねえ!」
 必要以上に力の入った声。しかし女性の足は止まらない。
 「また聴きに来ても、いいかな」
 千尋が問いを投げると、女性は一時だけ足を止め、千尋を一瞥して口を開いた。
 「嫌」
 はっきりと告げられた拒絶は、小さく短いながらも、正確に千尋の一番脆い部分を突き刺す。
 「私の前でうじうじしないで」
 とどめの一言を言い残し、女性は世界の境界線をまたぐ。世界の向こう側で控えていた別な女性と共に、千尋の世界から完全にいなくなってしまった。
 「知り合い?」
 「別に」
 別世界へと去ってしまった女性と、その隣で揺れる短いポニーテールを見送って、千尋は現実世界の教室で一人、立ち尽くす。
 熱い高揚と感動を覚えていた心は、冷たい手で撫でつけられ、氷の爪を突き立てられてすっかり冷え切ってしまった。
 千尋の内側から来るこの寒気は、何度も何度も経験した千尋の最も嫌いな感覚。
 味わいたくないからとその感覚を避けてきた千尋が逃げ続けた先に辿りついたものは、最悪と言ってもいいほどの結果だった。
 心のままに行動し、心を守ろうとして、心の底から出た想いを拒絶される。
 これが夏でも千尋の身体は震えていただろう。この寒気、この痛み、この乾きは、全て千尋自身しか感じられないもので、まったく喜ぶことのできない唯一無二だ。
 だが、そんな感覚の中にも一つ、決して消えない火が点った。
 それはきっと、唯一無二が唯一無二でなくなる可能性。
 千尋はこの日、自分以外の孤独に触れた。
 千尋は、自分以外の孤独に恋をした。
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