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第18話 罪の朗読
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鈴木一郎と木村雄介の死は、一つの事件の暴力的な終焉として処理された。
「加害者と被害者の間で起きた、三十数年来の怨恨による無理心中」
警察は早々にそう結論付けた。本田宗一郎は、現場に残された『ゆるさない』という血文字や、鈴木一郎という男の常軌を逸した周到さに、何か割り切れないものを感じてはいたが、二人の当事者が死亡している以上、捜査はそこで打ち切らざるを得なかった。
世間は、この陰惨な事件を、一時的なゴシップとして消費した。ワイドショーでは、いじめ問題の深刻さや、人の恨みの恐ろしさについて、コメンテーターたちがしたり顔で語り合った。しかし、その関心も、新たなスキャンダルや事件が起これば、すぐに忘れ去られていく運命にあった。
佐藤和也は、そのニュースを、どこか他人事のように眺めていた。
木村が死んだ。そして、鈴木とかいう、記憶の片隅にも残っていなかった男も。佐藤の心にあったのは恐怖ではなく、むしろ、かすかな安堵だった。自分を不幸のどん底に突き落とした元凶――つまり、心を病んだ妻と、言うことを聞かなくなった娘――から解放されることはないが、少なくとも、これ以上面倒な過去が掘り起こされることはないだろう。彼はそう高を括り、全ての原因を家族のせいにして、その夜も、一人、リビングで安物の焼酎を煽っていた。
家庭は、すでに崩壊していた。
妻の美咲は、あの日以来、心を病み、実家へと帰ってしまった。娘の優奈は学校にも行かず、自室に閉じこもり、誰とも口を利かない。かつて温かい光に満ちていたはずの家は、今や、冷たく、静まり返った墓場のようだった。
佐藤は、その墓場で、酒を飲むことしかできなかった。忘れるために。考えないために。
その夜、彼がグラスを空にし、意識が朦朧とし始めた、その時だった。
パチッ、と音を立てて、リビングのテレビが消えた。同時に部屋の照明が、不規則に明滅を始める。
「……なんだ、停電か?」
佐藤が悪態をつきながら立ち上がろうとした瞬間、部屋の空気が一変した。
まるで真冬の冷凍庫に突き落とされたかのように、気温が急激に下がる。吐く息が白い。そして目の前に、ありえないものが立っていた。
「……ひっ」
佐藤の喉から、カエルの潰れたような声が漏れた。
そこに立っていたのは、男だった。痩せた、背の高い男。その顔はニュースで見た、鈴木一郎のものだった。しかし、その姿は生前の彼ではなく、まるで古いフィルムのように、輪郭が僅かに揺らめき、その瞳は底なしの闇のように、何も映してはいなかった。
「お、お前は……死んだはずだ……!」
佐藤は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
悪霊となった鈴木一郎は、その狼狽する姿に、何の反応も示さない。彼は、すっと右手を持ち上げた。その手には、どこからともなく、一冊の黒いノートが現れる。
一郎は、そのノートを、ゆっくりと開いた。そして、感情のこもらない、平坦な声で、その内容を読み上げ始めた。
「昭和六十二年十月七日。水曜日。天気、晴れ。お前は俺の給食のカレーライスに校庭の砂を混ぜた。そして俺がそれを食べられないのを見て、木村と笑っていた」
忘却の彼方にあったはずの、三十数年前の光景。
それを、日付と天候と共に、克明に突きつけられ、佐藤は全身の血が凍りつくのを感じた。
「や……やめろ……」
だが、一郎は構わずに続ける。その声は死の世界から響いてくる、無慈悲な宣告のようだった。
「昭和六十二年十一月十九日。木曜日。天気、雨。お前は体育倉庫の裏で、俺の顔を泥水の中に押さえつけた。『お似合いだぜ』。お前は、そう言った」
「やめろ!俺は覚えていない!そんなこと、した覚えはない!」
佐藤は必死に叫んだ。それは嘘ではなかった。彼にとって、それは本当に記憶の片隅にも残っていない、些細な出来事だったのだ。
その言葉を聞いた一郎の顔が、初めて、僅かに歪んだ。
「そうか。お前は忘れたのか」
彼はノートを、ぱたん、と閉じた。その音が、やけに大きく部屋に響く。
「だが俺は忘れない。一日たりとも忘れたことはない」
悪霊は一歩、佐藤に近づいた。その足元から黒い靄のようなものが滲み出している。
「これから、お前の家族に起こることは理不尽な不幸ではない。お前が過去に犯した罪への正当な報いだ。お前が俺の宝物を奪い、俺の尊厳を踏みにじったように、俺も、お前の最も大切なものから、ゆっくりと、壊していく」
そう言い残すと、一郎の姿はテレビの砂嵐のように、ノイズを立てて、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
佐藤は、しばらくの間、夢だったのかと自分に言い聞かせようとした。だが、床にこぼれた焼酎の匂いと、心臓の激しい動悸が、それが紛れもない現実だったことを彼に告げていた。
翌朝。
家の二階から、今まで聞いたこともないような、娘の絶叫が響き渡った。
佐藤が慌てて階段を駆け上がると、優奈が自室の床に座り込み、自身の足を見て、泣き叫んでいた。
「いやあああああ!何これ!何なのよ、これええええ!」
佐藤は、その光景を見て、息を呑んだ。
優奈の、白く、滑らかだったはずの足。その指先が、まるで腐った果実のように、どす黒く変色し、見るも無残な形に壊死し始めていたのだ。
病院に連れて行っても、原因は不明。
ただ、壊死は止めようもなく進行していく。
佐藤は全てを悟った。
昨夜の出来事が、悪夢の始まりを告げるゴングだったことを。
そして、これから始まるのは、決して逃れることのできない、死んだ男からの復讐なのだということを。
彼は震える手でスマートフォンを掴むと、SNSを開き、かつての同級生たちの名前を必死で検索し始めた。
「助けてくれ……鈴木の呪いだ……」
遠く離れた忌澤村の祠。
その中で、桐の箱が、また一つ、禍々しい光を放ち、静かに脈動した。
復讐は次の段階へと、静かに移行していた。
「加害者と被害者の間で起きた、三十数年来の怨恨による無理心中」
警察は早々にそう結論付けた。本田宗一郎は、現場に残された『ゆるさない』という血文字や、鈴木一郎という男の常軌を逸した周到さに、何か割り切れないものを感じてはいたが、二人の当事者が死亡している以上、捜査はそこで打ち切らざるを得なかった。
世間は、この陰惨な事件を、一時的なゴシップとして消費した。ワイドショーでは、いじめ問題の深刻さや、人の恨みの恐ろしさについて、コメンテーターたちがしたり顔で語り合った。しかし、その関心も、新たなスキャンダルや事件が起これば、すぐに忘れ去られていく運命にあった。
佐藤和也は、そのニュースを、どこか他人事のように眺めていた。
木村が死んだ。そして、鈴木とかいう、記憶の片隅にも残っていなかった男も。佐藤の心にあったのは恐怖ではなく、むしろ、かすかな安堵だった。自分を不幸のどん底に突き落とした元凶――つまり、心を病んだ妻と、言うことを聞かなくなった娘――から解放されることはないが、少なくとも、これ以上面倒な過去が掘り起こされることはないだろう。彼はそう高を括り、全ての原因を家族のせいにして、その夜も、一人、リビングで安物の焼酎を煽っていた。
家庭は、すでに崩壊していた。
妻の美咲は、あの日以来、心を病み、実家へと帰ってしまった。娘の優奈は学校にも行かず、自室に閉じこもり、誰とも口を利かない。かつて温かい光に満ちていたはずの家は、今や、冷たく、静まり返った墓場のようだった。
佐藤は、その墓場で、酒を飲むことしかできなかった。忘れるために。考えないために。
その夜、彼がグラスを空にし、意識が朦朧とし始めた、その時だった。
パチッ、と音を立てて、リビングのテレビが消えた。同時に部屋の照明が、不規則に明滅を始める。
「……なんだ、停電か?」
佐藤が悪態をつきながら立ち上がろうとした瞬間、部屋の空気が一変した。
まるで真冬の冷凍庫に突き落とされたかのように、気温が急激に下がる。吐く息が白い。そして目の前に、ありえないものが立っていた。
「……ひっ」
佐藤の喉から、カエルの潰れたような声が漏れた。
そこに立っていたのは、男だった。痩せた、背の高い男。その顔はニュースで見た、鈴木一郎のものだった。しかし、その姿は生前の彼ではなく、まるで古いフィルムのように、輪郭が僅かに揺らめき、その瞳は底なしの闇のように、何も映してはいなかった。
「お、お前は……死んだはずだ……!」
佐藤は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
悪霊となった鈴木一郎は、その狼狽する姿に、何の反応も示さない。彼は、すっと右手を持ち上げた。その手には、どこからともなく、一冊の黒いノートが現れる。
一郎は、そのノートを、ゆっくりと開いた。そして、感情のこもらない、平坦な声で、その内容を読み上げ始めた。
「昭和六十二年十月七日。水曜日。天気、晴れ。お前は俺の給食のカレーライスに校庭の砂を混ぜた。そして俺がそれを食べられないのを見て、木村と笑っていた」
忘却の彼方にあったはずの、三十数年前の光景。
それを、日付と天候と共に、克明に突きつけられ、佐藤は全身の血が凍りつくのを感じた。
「や……やめろ……」
だが、一郎は構わずに続ける。その声は死の世界から響いてくる、無慈悲な宣告のようだった。
「昭和六十二年十一月十九日。木曜日。天気、雨。お前は体育倉庫の裏で、俺の顔を泥水の中に押さえつけた。『お似合いだぜ』。お前は、そう言った」
「やめろ!俺は覚えていない!そんなこと、した覚えはない!」
佐藤は必死に叫んだ。それは嘘ではなかった。彼にとって、それは本当に記憶の片隅にも残っていない、些細な出来事だったのだ。
その言葉を聞いた一郎の顔が、初めて、僅かに歪んだ。
「そうか。お前は忘れたのか」
彼はノートを、ぱたん、と閉じた。その音が、やけに大きく部屋に響く。
「だが俺は忘れない。一日たりとも忘れたことはない」
悪霊は一歩、佐藤に近づいた。その足元から黒い靄のようなものが滲み出している。
「これから、お前の家族に起こることは理不尽な不幸ではない。お前が過去に犯した罪への正当な報いだ。お前が俺の宝物を奪い、俺の尊厳を踏みにじったように、俺も、お前の最も大切なものから、ゆっくりと、壊していく」
そう言い残すと、一郎の姿はテレビの砂嵐のように、ノイズを立てて、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
佐藤は、しばらくの間、夢だったのかと自分に言い聞かせようとした。だが、床にこぼれた焼酎の匂いと、心臓の激しい動悸が、それが紛れもない現実だったことを彼に告げていた。
翌朝。
家の二階から、今まで聞いたこともないような、娘の絶叫が響き渡った。
佐藤が慌てて階段を駆け上がると、優奈が自室の床に座り込み、自身の足を見て、泣き叫んでいた。
「いやあああああ!何これ!何なのよ、これええええ!」
佐藤は、その光景を見て、息を呑んだ。
優奈の、白く、滑らかだったはずの足。その指先が、まるで腐った果実のように、どす黒く変色し、見るも無残な形に壊死し始めていたのだ。
病院に連れて行っても、原因は不明。
ただ、壊死は止めようもなく進行していく。
佐藤は全てを悟った。
昨夜の出来事が、悪夢の始まりを告げるゴングだったことを。
そして、これから始まるのは、決して逃れることのできない、死んだ男からの復讐なのだということを。
彼は震える手でスマートフォンを掴むと、SNSを開き、かつての同級生たちの名前を必死で検索し始めた。
「助けてくれ……鈴木の呪いだ……」
遠く離れた忌澤村の祠。
その中で、桐の箱が、また一つ、禍々しい光を放ち、静かに脈動した。
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