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第一章 ジョン・コルトレーン「ブルートレイン」

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 父は寡黙で真面目な人間だった。

 際立って家族思いというわけではないが、ないがしろにするような人間でもない。

 ギャンブルもしなければタバコもやらない。
 お酒は嗜む程度で、女遊びにうつつを抜かすこともない。

 そんな父の唯一の趣味といえるのが、ジャズだった。

 父は俺が生まれる前からジャズを聴いていたらしい。
 若い頃は母と一緒にジャズバーやジャズクラブによく足を運び、生演奏を聴いていたのだという。

 母が俺を身ごもって外出できなくなってからは、家でジャズレコードを聴くようになった。

 父は多くのジャズ・ミュージシャンの音楽を聴いていた。

 マイルス・デイヴィスに、ビル・エヴァンス。
 それに、ハービー・ハンコック。
 中でも、サックス演奏者のジョン・コルトレーンが一番のお気に入りだった。


「コルトレーンのサックスはいいだろう?」


 俺が父のジャズ部屋に足を踏み入れるたび、彼はコルトレーンの素晴らしさを語った。

 ジャズ部屋には壁一面にレコードが飾られていて高そうな音響システムが並んでいた。

 何十万もするというスピーカーにアンプ。
 そしてターンテーブル。
 機材だけで、車一台買えるほどの金がかかっていたんじゃないだろうか。

 俺には到底理解できなかった。

 骨董品のようなジャズにどうして何十万も金をかけるのか。
 どうして面倒なレコードをわざわざ聴きたいと思うのか。

 さらに父は機材だけではなくネットのレコード専門オークションで中古のレコードを買い漁っていた。

 父は国家公務員という安定した職業に就いていたけれど、家計は相当圧迫されていたのかもしれない。

 いや、家計だけではない。その趣味のせいで母は病気になってしまったのだ。

 井上は「佐世保はジャズの聖地だ」と言っていた。
 ジャズ好きな父がそのことを知らないわけがない。

 だから父は佐世保への転勤を断らなかったのだろう。
 佐世保に来て帰りが遅くなるときが多いなと不思議に思ったときがあったが、レコードショップにでも足を運んでいたのかもしれない。

 改めて考えると無性に腹が立ってくる。
 ──だけど、憂さを晴らす時間すら俺にはない。それが余計に腹ただしい。

 乗っていた松浦鉄道の列車がゆっくりと止まった。

 俺が降りる「佐世保中央駅」に到着したらしい。

 佐世保中央駅は四◯三アーケードに直結していて、自宅に帰るにはアーケードを通るのが近い。

 ちなみに、隣には「中佐世保」という駅があるのだが、佐世保中央駅との距離は200メートル程しかない。

 この距離は鉄道線としては日本最短なのだという。
 そんなくだらない情報を教えてくれたのも井上だった。

 あいつ、本当に佐世保が大好きなんだな。

 列車を降りる途中、ボックスシートに有栖川が座っているのが見えた。

 イヤホンをつけた有栖川は、小さくつま先でリズムをとりながらまぶたを閉じている。

 聴いているのは、コルトレーンだろうか。

 有栖川がジャズを聴いていたのには驚いた。

 同じ年代でジャズを聴いている人間になんて会ったことがないし。
 でも、佐世保はジャズの聖地だというし、聴く人間は多いのか?

 有栖川と言葉を交わすこともなく列車を降りたあと、四◯三アーケードから国道に抜けてトンネル横丁へと向かった。「トンネル横丁」は俺が住む戸尾にある市場街で、戦時中の防空壕を活かして作られたのだという。

 そこで夕飯に使う食材を買うのがいつものルート。

 買い物を終えてから戸尾の坂を登っているとき、ふと潮の香りを感じた。
 海の方角に視線を送れば、路地に立ち並ぶ家の隙間から琥珀に輝く佐世保湾が見えた。

 潮の風。外国の香り。
 懐かしさを感じるのは横須賀と似た街だからだろうか。

 だが、どれだけ似ていても、ここは横須賀じゃない。


「住吉くんは、そうやって周りに壁を作るから、クラスに馴染めないんだと思うんだ」


 井上の言葉を思い出す。

 彼女が言っていた通り俺は周囲に壁を作っている。
 卒業と同時に離れる可能性がある街で、友人を作る意味なんてない。

 意味もないし時間もない。
 俺にあるのは、学校と家を往復するだけの日々だけだ。


「ただいま」


 玄関を開けた途端、換気されていないむっとした空気が飛びかかってきた。

 その空気に少し違和感を覚える。
 母は家事をやることができないが部屋の換気くらいはいつもやっている。

 胸騒ぎがした俺は急いでリビングへと向かったが、ソファーに母の姿はなかった。


「……母さん?」


 キッチンにはコーヒーカップがひとつ置いてあった。
 かすかに熱が残っている。きっと母が飲んだものだろう。


「隆弘? ……わっ」


 くぐもった母の声が聞こえた後、ばたばたと倒れる音が続いた。


「どこにいるんだ?」

「こっちこっち」


 母の声が聞こえたのは意外な場所だった。

 数ヶ月の間、誰も立ち入ることがなかった部屋──父のジャズ部屋だ。

 恐る恐る部屋の扉を開けた瞬間、懐かしい香りが流れてくる。

 何かを炙ったような香ばしさ。
 海外レコードの紙ジャケットに使っている「剥離剤」の匂いだと父が教えてくれた。

 薄暗い部屋の中には父のコレクションのレコードが散らばっていた。

 そのレコードに囲まれるように、母の小さな背中が佇んでいた。

 その背中に恐る恐る訊ねる。


「……そこで何をやってるんだよ?」


 だが、母は何も答えない。

 嫌な予感がした。

 まさか、父との思い出が蘇ったのか?

 治療中の母にとって、父との思い出と向き合うのは早すぎる。


「……わからないの」


 母はレコードに視線を落としたまま答えた。


「わからないって? 何が?」

「このレコードが今も聴けるかどうかよ。それに、レコードのかけ方も」

「いや、レコードをかけて何をするつもりなんだよ?」


 訊ねてから変な質問をしてしまったと思った。
 レコードをかける理由なんてひとつしかない。

 だが、母は音楽を楽しむような状態でもないはず。


「引き取ってもらうのにレコードが聴けませんでしたじゃ、悪いでしょ?」

「……え? 引き取ってもらう?」

「そう。ネットで調べたんだけど佐世保にはジャズ喫茶が残っているんだって。それで、連絡したら『レコードを引き取らせていただきます』って」

「まさか処分するつもりなのか?」

「だって、ここにあってもホコリをかぶっていくだけじゃない。だったら、ジャズが好きな人に末永く聴いてもらったほうがお父さんも喜ぶはずでしょ」


 二の句を告げなくなってしまった。

 母の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。 


「お父さんが言っていたの。レコードを綺麗に保つ一番いい方法は『聴き続けること』だって。だからいつまでも抱えたままにはできない。二度と良い音が出なくなっちゃう」

「母さんはそれでいいのか?」

「うん。そろそろ解放してあげないとね」


 それを聞いて、肩の荷が降りたような気がした。

 忌み嫌うべき父のレコードを処分せずに残しておいたのは、いつか母に向き合ってほしいと思っていたからだ。

 まだ俺が生まれる前、父は母とレコードショップに足を伸ばしたこともあったという。

 いわばこのレコードは、ふたりが歩んできた「人生」そのものなのだ。

 それにけじめをつけなければ、母も前に歩くことができない。


「それで隆弘、レコードの聴き方、わかる?」


 母が訊ねてきた。俺は小さくかぶりをふる。


「いや、わからないな。触ったこともないし」

「そうよね。どうしようかしら」


 レコードはCDと違って管理方法によっては聴けなくなることがあると父から聞いたことがある。

 アナログレコードは針がレコードの音溝をトレースすることで音が鳴る。
 つまり、針や音溝が汚れているとノイズが大きくなる。

 ここにあるレコードは数ヶ月放置してあったので、全滅している可能性がある。
 
 見た目で判断できればいいのだが……。

 そう思って、棚にあったレコードのジャケットをいくつか手にとった。

 指を口に当てた黒人のジャケット──ジョン・コルトレーンの「ブルートレイン」。

 ときどき聴かせてくれたのを覚えているが、どんな曲だったかまでは覚えていない。

 嫌悪感に襲われ、棚に戻す。


「……まあ、聴き方くらいネットで調べれば出てくるだろうし、後で調べてみるよ。最悪、レコードショップに行って確かめることもできるだろうし」

「ほんと? 助かるわ。あと、ついでってわけじゃないけど、もうひとつ調べて欲しいことがあるんだけど。いいかしら?」

「別にいいけど、何?」

「お父さんのコレクションでちょっと気になったことがあってね」


 母が棚に飾られているレコードを手に取った。

 一枚は先程俺が手に取ったジョン・コルトレーンのブルートレイン。

 そして、もう一枚も──同じコルトレーンのブルートレインだった。


「同じレコード?」

「そう。このレコードだけ同じものがあるの。それも8枚も」


 母が棚からさらに同じレコードを持ってきた。

 全部で8枚。

 その全てが同じジョン・コルトレーンのブルートレインだった。

 1枚1枚確認したが、表裏ともに英文で説明が書かれていてまったく同じに見える。


「買い間違えただけだろ」

「それは無いと思う。コルトレーンはお父さんのお気に入りだったし」

「じゃあ、聴きすぎて劣化してしまったとか?」


 「レコードを擦り切れるまで聴く」という言葉があるくらいだし、聴きすぎると溝が潰れてしまうなんてことがあるかもしれない。

 擦り切れているかどうかは実際にレコード盤を見ればわかるだろう。

 そう思って、ジャケットからレコード盤を取り出そうとしたとき、何かが落ちてきた。


「……なんだこれ」


 落ちたのはノートの端をちぎったような小さな紙。

 その紙には、ボールペンで何かが書き殴られていた。


「47 WEST 63rd・NYC DG両溝 耳 RVG」


 筆跡から推測するに、書いたのは父だろう。

 「47 WEST 63rd・NYC」で一旦改行し、「DG両溝」で改行、「耳」で再び改行して「RVG」で終わっている。


「どうしたの?」

「レコードの中に入ってたんだけど、これ、何だかわかる?」

「なんだろう。何かのメモ……だと思うけど」

「……何かしら?」


 母ならわかるかもと思ったが、首をかしげるだけだった。

 WESTというのは方角の「西」という意味だろうか。

 63rdというのは63番目という意味だと思う。

 だけど、その後に続く文字の意味はよくわからない。


「もしかして、お父さんの遺言とか?」
「遺言? この暗号が?」
「例えば私たちのために何かを残していて、その在処をメモに残したとか」
「いやいや、それはないだろ」


 なにせ父は偶発的な事故で亡くなったのだ。

 それに、父はそれほど家族のことを考える人間ではなかった。基地と家を往復するだけの毎日で、唯一の楽しみがジャズレコードくらい。

 面白みもなく人間味もないつまらない親。
 それが俺の父だ。


「とりあえずレコードのかけ方と一緒に、このメモのことも調べてみるよ。佐世保はジャズの聖地だったらしいから、レコードショップのひとつくらいあるだろうし」

「へえ、佐世保ってジャズの聖地なんだ。詳しいのね、隆弘」

「詳しくない。今日たまたま耳にしただけだ」


 ぞっとした。
 ジャズが詳しいなんて冗談じゃない。

 正直なところ、俺にはコルトレーンのレコードが8枚あろうと、妙なメモが残っていようとどうでもいい。
 ジャズレコードが家からなくなるのであれば、せいせいする。

 8枚のレコードを棚に戻して、メモを学生服の内ポケットへとしまった。

 防音効果のある分厚いカーテンの向こうに見えていた空が濃く落ちていることに気がついた。
 カーテンの隙間から外を見ると、夜空に星が瞬いている。

 途端に憂鬱になってしまった。
 
 夕食を作って洗い物に洗濯。さらに明日の朝食の準備。やることは山のようにある。

 こんなくだらないことに時間を費やしている場合ではない。


「じゃあ俺は夕食の準備をしてくるから」


 しかし、母からの返答はなかった。

 振り返れば、愛おしそうにレコードを見つめる母の横顔が見えた。

 父がいなくなってから何もできなくなってしまった母。

 テレビに車が出るたびに取り乱すことはなくなったが、それでも一日中ベッドの上でぼんやりとしていることがほとんどだった。

 父が死んで、俺の生活は変わった。

 いろいろなことを諦めて、変わらざるを得ない状況に追い込んだ父のことを憎いと思ったのは一度や二度じゃない。

 父が嫌いになり、父が愛していたジャズも嫌いになった。

 父が愛するものと、父を愛するもののすべてが憎かった。

 ドアを閉めるとき、もう一度だけ母の横顔を見た。

 焼けるようないらだちが胸中に渦巻いた。
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